第2話「観測者の部屋」― その眼は、外から覗いているのか。
翌朝。
黒崎探偵事務所の四人は、
団地の空き室に設けたベース基地で、
昨夜のドローン消失事件の検証を行っていた。
壁紙は剥がれ、埃が積もる空間は、
生活感がまったくない。
だがその無人の空間こそ、
常識の外の仕事に相応しい、隔絶された場だった。
「ドローンが消えたっすよ、黒崎さん!
あんなに鮮明に赤い眼を捉えたデータが、
『データそのものが消えたんじゃなくて、
存在を拒否されたってことっすか?」
松原は興奮気味に報告した。
ノートPCは、団地の電力を避けて――
アヤが持ち込んだコンパクトな発電機に接続されていた。
「データが消えたのではない。
観測された瞬間、存在が否定されたのよ
データとしての存在そのものが『否定された』、
と考えた方が自然ね」
アヤはコーヒーを一口飲み、冷静に指摘する。
専門用語は常に核心を突いていた。
「観測の否定……まるで量子レベルの話みたい。
でも確かに、昨夜の『赤い眼』は、
ただの光の反射じゃなかったわ」
美咲は顎に手を当て、
現象の論理構造を解析しようとしていた。
黒崎は窓の外の団地を静かに見つめる。
どの窓も、対面の棟の窓を真正面から捉えていた。
「松原。データが消える直前、あの『赤い眼』……
はどの方向を向いていた?」
「向かいの棟の最初に通報した小田島春菜さんの。
部屋とほぼ同じ高さっす。
ただ、角度が微妙にずれてて、
春菜さんの部屋の『中』を覗き込むような向きだったっす」
「中を、か」黒崎は静かに呟いた。
午前中、黒崎、美咲、
アヤの三人は団地の住民から話を聞いた。
どの住民も視線を避けるように怯え、
曖昧な答えしか返さない。まるで『見られている』、
ことを認めたくないかのように。
「最近、夜中に目が覚めるんです。目が覚めた瞬間、
誰かに見られているような……寒気がして」
中年の女性は震える声で答え、
窓の外を頻繁に気にしていた。
「みんな、外から監視されている。
そう思っているみたいね」美咲が耳打ちする。
「ええ。この現象の恐ろしいところは、
そう思わせる『構造』が既に存在することよ」
アヤは静かに頷いた。
団地の構造は近づくほど異様だ。
どの窓からも他の部屋が真正面に見える。
まるで意図的に設計された……
相互監視システムのようだ。
廊下を歩くだけでも、
視線恐怖症になりそうな閉塞感があった。
「ねえ、アヤ先輩。この団地の設計、変じゃない?
一般的な団地なら、プライバシー配慮がもっと……」
アヤは静かに頷き、黒崎に視線を送った。
「黒崎さん。この団地は、
ただの集合住宅じゃない。お気づきでしょう?」
「ああ。設計者の悪意か、
あるいは……実験か」黒崎は簡潔に答えた。
松原は空き室でネット上の過去ログ解析に没頭する。
『デジタル・オカルト』への嗅覚で、
団地の『ノイズ』の根源を探ろうとしていた。
「よし、ヒットしたっす!」
松原は興奮して事務所の面々を呼んだ。
「この団地、実は10年ほど前まで、
『産業技術研究所』の監視研究施設だったらしいっす。
非公開の極秘施設で『認識と視線の相互作用』に、
関する研究をしていたとか……」
「監視研究施設跡地……」美咲は目を丸くした。
アヤは解析結果を覗き込み、表情を引き締める。
「やはりそう。単なる幻覚ではないわ」
アヤは持参した東京CJ調査室の資料を開き、
理論を説明した。
「観測災害。
かつての特殊課でそう呼ばれた現象よ」
アヤは資料をめくる。
紙の擦れる音が、静寂にやけに響いた。
「観測対象が、視線によって自己認識を歪める。
北部第六団地のような構造だと、その歪みが連鎖するの」
「相互観測ループ……団地の窓の配置が、
まさにそれっすね」松原は戦慄した。
「ええ。どの部屋も『観測者』であり、
『被観測者』でもある。この構造が住民に、
『常に見られている』という強迫観念を植え付ける」
アヤは黒崎に視線を向ける。
「黒崎さん。ドローンのデータが消えたのは、
松原くんの視線が、『赤い眼』の自己観測ロジック、
そこに干渉し、データそのものを排除したから。
つまり、『赤い眼』は見られることを拒む、
非物理的な視線なの」
「見られることを拒む視線……」黒崎は静かに呟く。
(この事件の本質は、誰が見ているかではない。
「見るという行為そのもの」が何を作っているか、だ)
その夜、美咲は暗がりで調査ノートに記す。
顔には疲労が色濃い。
調査日誌 - 夜
非常に気分が悪い。
団地の構造に精神が侵食されている。
住民との聞き込みの時に感じた廊下の閉塞感、
窓ガラスの古びた汚れ、埃の匂いなどを入れ、
何かが私に問いかけてくる。
夢を見た。窓を開けた。
外は――空虚だった。
だが窓に映る自分の影を、
誰かが見下ろしている。
違う。私が見下ろされているのではない。
私自身が、窓から自分を見下ろしている。
窓の奥にいるのは紛れもなく私。
しかしその眼は赤く、冷たい。
――窓の外で、誰かの息づかいがした。
あれは……誰の眼?
この赤い目と私は繋がっている?……
美咲はペンを置き、深いため息をついた。
その瞬間、対面棟の窓が一瞬赤く光ったように見えた。
翌朝。
ベース基地で黒崎は美咲を見つめ、
一瞬動きを止めた。
「美咲、よく眠れたか?」
「ええ……少し夢見が悪かったくらいで」
笑顔を作るが、瞳はわずかに潤む。
黒崎は彼女の目を静かに観察する。
煙草を吸おうとして止める……
黒目と白目の境界に、薄く赤い反射がある。
太陽光ではなく、
まるで夜の夢の残滓が網膜に焼き付いたような赤だ。
「美咲……」黒崎は静かに呼ぶ。
「事件は、もう『内側』へ侵食している」
黒崎の言葉に、空気が一瞬止まった。窓の向こう、
無数の瞳がゆっくりと瞬いた。
美咲は息を呑む。体内に、既にあの──
『赤い眼のノイズ』が入り込んでいる。
その時、松原が慌てて部屋に駆け込む。
「黒崎さん! 管理室の監視映像、
昨日からずっとノイズまみれで、
まともに記録が残ってないっす!
ノイズの波形が、まるで複数の『眼』が、
こちらを見ているようなパターンになってるっす!」
松原の警告が黒崎の直感を裏付ける。
観測者は、既に団地の中にいる。あるいは、私たちの中に。
黒崎は窓の外を見る。団地の無数の窓が、
静かに彼らを見返している。
第3話 「ノイズの記録」へ続く。
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