第2話 魔導書と最初の犠牲者

・午前七時五分


世界がまだ目覚めきらぬ早朝、仮眠を取った後……

美咲の耳を切り裂くような悲鳴が響いた。


「キャアアアアアアアアアアッ!」


それは、人の理性の枷が外れ、

原初の恐怖が声になったような、純粋な絶叫だった。


美咲は反射的にPCの解析作業を中断し、

松原と顔を見合わせた。


「この悲鳴……ただの事故じゃない。昨日まで薄く張っていた『現実という名の膜』が、今、破れた音だよ!黒崎さんが追っていた『ノイズ』が、ついに現実に牙をむいたのかも!」


松原は蒼白な顔でノートPCを睨みつける。


「ヤ、ヤバいっす……僕の『危機察知コード』が振り切れてる。この宿全体が、一気に『境界線の内側』に引きずり込まれた感じっす!」


二人は部屋を飛び出した。

廊下にはすでに他の宿泊客が集まっている。

悲鳴は二階――高田の部屋の方角だ。


「いったい何があったんですか!」

詩織が血相を変えて叫ぶ。


「警察を呼ぶべきだ」

矢下が冷静を装いつつスマートフォンを取り出す。

しかし画面には無情な「圏外」の文字。


「くそっ、やっぱりダメだ! 

 外は雪で完全に閉ざされてる!」


まさに、黒崎が警告していた『クローズド・サークル』の完成だった。


「源次さん! 鍵を開けて!」

美咲が叫ぶと、老夫婦の妻が震える手で指さした。


「……もう、開いています……」


半開きの扉の向こう――

黒崎が雪にまみれた姿で戻ってきたところだった。


「黒崎さん!」美咲が駆け寄る。


「坂場は?」


「さっき戻っていたかもしれません。

 でも、高田さんの部屋から悲鳴が!」


黒崎は頷き、無言でその部屋へ向かう。


部屋に入った瞬間、美咲は息を呑んだ。


布団の敷かれた畳の上、高田が仰向けに倒れていた。

胸には鋭利な刃物が深々と突き立てられ、血の染みが畳に広がっている。


既に死後数時間は経っていた。


刺殺――。


その顔には恐怖の表情が張り付いたまま。


瞳には、鋭利な刃物による痛みよりも、

「この世ならぬ何かを見た」畏怖の光が、網膜に焼きついていた。それは、肉体よりも『精神』を殺す恐怖。


それは、肉体よりも『精神』を殺す恐怖。

まるでクトゥルフ神話の悪夢が現実化したかのようだった。


「美咲、触るな。松原、写真を撮れ。

 まずは記録とアリバイの確認だ」


黒崎の声は冷静で、

すでに捜査のスイッチが入っている。


「黒崎さん……この部屋、

 窓も鍵も全部内側からロックされてます。完全な密室っす!」


「密室?」黒崎は低く呟き、嘲笑するようだった。

「馬鹿げている。この『山響荘』そのものが密室だ。 部屋の密室など、我々から常識的な視線を逸らすための、ただの偽装に過ぎない」


黒崎の拳がわずかに震えていた。

理性の裏で、胸の奥がざわつく。


彼は松原にカメラを押し付け、周囲を見回す。

「源次さん、皆を広間に。これより事情聴取を始める。」


広間は、混乱と恐怖の空気に包まれていた。


「私には関係ない!

 昨夜は酒を飲んで、ずっと部屋にいた!」矢下が怒鳴る。


詩織は涙ながらに訴える。

「わ、私は……高田さんのいびきで、

 何度も目が覚めました。でも、怖くて部屋を出ていません!」


老夫婦は沈黙を保ったまま。源次は震える声で言った。

「わしらは囲炉裏の火を見張っておった。

 夜中、誰も通らんかった……」


黒崎は一歩踏み出す。

「坂場の姿は? 外では見かけなかったが」


「……朝方、裏山から戻ってくるのを見ました。

 泥まみれで……何かを抱えていたような……」美咲はいう。


「松原、坂場の部屋を調べろ」


松原が駆け出し、美咲は遺体の状況と証言の矛盾点を洗い出す。


「高田と坂場には何かトラブルがあった。

 あの夕食時の敵意は演技じゃないわ」


「矢下とも因縁があるようだ。だが――」

黒崎は窓の外の雪を見つめた。


「この閉ざされた空間で、『人の欲』が暴走しただけなら、

 話は早い。……だが、違う気がする」


松原が息を切らして戻ってきた。

その手には、あの古びた歴史書が抱えられている。


「黒崎さん! 坂場の部屋から出てきました!

 部屋中、泥と腐敗臭でいっぱいっす!」


黒崎は手を伸ばさず、美咲に視線を送った。

「解析だ。この本が全ての起点だ」


美咲は慎重にページを開く。

赤黒い象形文字が、視覚そのものを蝕むかのように並んでいる。


「無理よ……これは、

 人間の言語ではないわ……やはり魔導書?」


「待って!」

松原がPC画面を見て叫んだ。


「ここのパターン、データ的に『力』を示してるっす

 そして、この一節は――『生贄』!」


美咲の表情が強張る。

「なるほど……これは『地の意思』の力を得るための儀式書。

 生贄を捧げて力を得る――!」


黒崎は呟いた。

「坂場は、高田を『生贄』にしたのか。

 金か私怨のために『魔導書』に手を出した……?」


黒崎はその仮説を口にしながらも、

どこか確信を持てずにいた。

しかし、黒崎の瞳はその推論を拒んでいた。


(坂場にそんな冷静な犯行が可能か?

 あいつは、ただ『書に憑かれた』だけの、弱い男かもしれない)


「黒崎さん、犯人は坂場で決まりじゃ……?」

松原の声が震える。


「決まりすぎている。

 坂場は行方不明、魔導書は残されている――

 これは誘導か、儀式の継続ということも」


黒崎の視線が、静かに源次へ向かう。

老宿主は耐えきれず、顔を伏せた。肩が震えている。


その時だった。


――ドサッ。


宿の裏手、「神隠しの湯」の方から、雪を叩くような重い音が響いた。


「黒崎さん! 外です!」美咲が叫ぶ。


窓の外には、新しい足跡が続いている。

それは宿から離れるのではなく、裏山の奥へと進んでいた。


「松原! 魔導書は美咲に預けろ。

 お前は残って、全員のアリバイを洗え!」


「了解っす! 僕がここに残って『生身のデータ』を採ります!デジタルだけじゃなく、宿泊客全員の『感情ログ』も解析してやる!」


美咲は魔導書を抱え、黒崎を見る。

「気をつけて下さい。『生贄』は一つで終わらないかも。これは『連鎖』の儀式の始まり……」


「わかっている。俺たちの仕事は――

 その『連鎖』を断ち切ることだ」


黒崎と美咲は雪原へと飛び出した。




・わずか五分後


松原が宿に残る中、矢下の部屋から強烈な異臭が漂い始めた。

腐敗ではない。もっと乾いた、死そのものの匂い。


松原が恐る恐る扉を開けると―― 部屋の空気が、

まるで真空のように静まり返っていた。そして、壁にへばりつくように、乾ききった『人の形』だけが残されていた。


松原の『危機察知コード』は、すでに静寂の中で鳴り止んでいた。 それは、人の手による殺人ではなかった。『なにか』が覚醒し始めた、決定的な証だった。



第3話「連鎖する死と、閉ざされた時間」へ続く。

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