第2話 独占の証明


 週末の夜。自室のベッドの上で、瀬戸 陽斗はぼんやりと天井の木目を眺めていた。部活を引退して初めて迎える、目的のない週末だった。しかし、彼の心は安息とは程遠い場所にある。数日前の出来事が、繰り返し頭の中で再生されていた。


 青井 葵の、真っ直ぐな瞳。彼女が口にした「責任」という言葉の重み。あの理知的な告白は、陽斗の胸に確かな、しかし心地よい緊張感を残していた。


 そして、水瀬 咲。あの暗幕の暗闇。古い薬品の匂い。葵への対抗心と独占欲に突き動かされた、強引で熱っぽいキス。あの瞬間に感じた背徳感と、体の奥から湧き上がった抗いがたい興奮。陽斗は、自分の中にこんなにも無責任な欲望が潜んでいたことに、今更ながら狼狽していた。


 葵に対しては、誠実に向き合いたいと思う。だが、咲を失うことへの恐れもある。そして何より、あの暗闇で芽生えた、両方を手に入れたいという甘い欲望が、陽斗の思考を麻痺させていた。


S(Shift)+Enter コン、コン。控えめなノックの音が、陽斗を現実に戻した。


「陽斗? 入るよ」


 返事をする間もなく、ドアが開き、咲が顔を覗かせた。週末の夜に、彼女が陽斗の部屋を訪れることは珍しくない。幼少期から互いの家を自由に行き来していた、その延長線上にある習慣だ。だが、今夜の咲は、いつもと何かが違っていた。


「……別に、用事じゃないんだけど」


 咲は、陽斗のベッドの端に、ためらうように腰掛けた。いつもなら陽斗の隣に潜り込み、背中を預けてくるはずなのに。その不自然な距離感が、二人の間に起こった変化を如実に示していた。部屋の空気は、彼女が持ち込んだ見えない緊張で満たされていく。


 陽斗は、どう声をかけるべきか迷った。あの日のキスのことを、どう切り出せばいいのか分からない。


「部活、本当にお疲れ様」


 先に沈黙を破ったのは咲だった。


「ん。……ああ」


「これから、暇になるね。陽斗」


「……かもな」


 会話が続かない。咲は、自分の膝の上で、きつく手を握りしめている。その指先が白くなっているのを、陽斗は見逃さなかった。彼女は不安なのだ。葵の出現によって、自分たちの「定型」が崩れることを、心の底から恐れている。


 陽斗は、その不安に気づきながら、何も言えなかった。彼が「大丈夫だ」と安易に口にすれば、それは葵への裏切りになる。かといって、咲を突き放すだけの覚悟も、彼にはなかった。


 その陽斗の優柔不断さが、咲の不安を決定的な行動へと駆り立てた。


 咲は、ふっと息を吐くと、握りしめていた手をほどいた。そして、まるで覚悟を決めたかのように、陽斗の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥には、数日前の暗闇で見たのと同じ、激しい独占欲の炎が宿っていた。


「陽斗は、私の、だよね?」


 それは、疑問形でありながら、答えを許さない響きを持っていた。陽斗が言葉に詰まるのを、咲は許さなかった。彼女はベッドの上で膝立ちになると、陽斗の両肩を掴んだ。華奢な体からは想像もつかない力だった。


「陽斗は、何も分かってない」


「え……」


「私たちは、昔からずっと一緒だった。この先もずっとそうなの。それが当たり前でしょ? 一緒に大学に行って、陽斗が卒業したら、私は陽斗のお嫁さんになるの。そうやって、ずっと二人で生きていくの。それが、私たちの『運命』なんだから」


 咲は、陽斗を説得するように、あるいは自分自身に言い聞かせるように、早口でまくし立てた。彼女のバックストーリーに深く根差した、陽斗との結婚という「定型」。それが彼女の信じるすべてだった。


「あの人(葵)が何を言ったか知らない。でも、陽斗の隣は私なの。絶対に、誰にも譲らない」


 陽斗は、咲の気迫に圧倒されていた。彼女がそこまで強烈に、二人の未来を「決定事項」として信じ込んでいるとは知らなかった。


「咲、それは、俺たちがちゃんと話し合って……」


「話し合う必要なんかない!」


 咲は、陽斗の言葉を遮った。彼女の瞳から、堪えていた涙が一筋こぼれ落ちる。


「だから、今、それを証明してよ。陽斗が私から離れないって、証明して」


 そう言うと、咲は、陽斗をベッドに押し倒した。陽斗は、抵抗を止めた。いや、できなかった。葵の顔が脳裏をよぎる。罪悪感が、冷たい水のように背筋を伝った。しかし、それと同時に、目の前にある咲の涙と、彼女から発せられる切実な熱に、体の奥が反応してしまう。


「……咲、待って。だめだ、今日は……」


 陽斗の最後の抵抗は、か細く、弱々しかった。


「嫌」


 咲は、吐息と共にそう囁いた。彼女の指が、陽斗が着ていたTシャツの裾を掴み、躊躇なく捲り上げる。露わになった陽斗の肌に、咲の冷たい指先が触れた。


 陽斗の体は、その瞬間に硬直した。だが、それは拒絶の硬直ではなかった。あの部室で感じた、抗いがたい性的興奮が、罪悪感を焼き尽くすように全身を駆け巡ったのだ。


 咲は、陽斗のその反応を待っていた。彼女は、陽斗の体を独占することでしか、葵の影によって生じた精神的な不安を埋めることができなかった。これは彼女にとって、愛の確認ではない。陽斗という存在を物理的に縛り付けるための、必死の儀式だった。


 衣服が乱れ、互いの肌が直接触れ合う。咲の肌は、不安に反して驚くほど熱かった。その熱が、陽斗の最後の理性を溶かしていく。


「陽斗……」


 咲が、喘ぐような声で彼の名を呼ぶ。彼女は自らの衣服も乱し、陽斗の上でその白い肌を晒した。まだ誰にも触れられたことのない、少女の体がそこにあった。


「私を、陽斗だけのものにして。そうしたら、もう不安になんてならないから」


 咲は、陽斗の硬い熱を求め、自らそれを導いた。陽斗は、咲の初めてを奪うという行為の重さに、一瞬ためらった。だが、咲の熱に浮かされた瞳が、それを許さない。


「お願い……」


 咲は、陽斗の手を取り、自らの内奥へと導く。陽斗の指が、湿った熱と、その奥にある薄い膜の抵抗に触れた。咲の体が、緊張に小さく震える。


 陽斗は、咲のその熱狂的な肉体に逃避した。葵に突きつけられた「責任」という現実から目をそむけ、ただ目の前にある圧倒的な快楽に溺れた。これは裏切りだ。間違っている。そう頭では理解しながら、体は咲を求め、導かれるままに、その抵抗を貫いた。


「……ッ!」


 咲が、息を呑んだ。鋭い痛みが彼女の体を走り抜け、その指が陽斗の背中を強く掴む。爪が食い込むほどの力だった。陽斗は、咲の初めてを奪ったという事実の重みと、抗いがたい背徳的な快楽に、思考を手放した。


 咲は、数秒間、その痛みに耐えるように身を硬くしていた。だが、やがてその痛みが、陽斗と完全に一つになったという、歪んだ歓喜と安心感に変わっていく。陽斗を物理的に手に入れた。これで彼はもう、どこにも行かない。その確信が、彼女の体を内側から熱くした。


 部屋に、湿った吐息と、肌が擦れ合う粘着質な音が響き渡る。痛みはすぐに鈍い熱に変わり、二人は本能的な快楽に溺れていった。陽斗は、罪悪感と興奮の狭間で、咲のすべてを受け入れた。咲は、陽斗に身を委ねながら、この結合こそが自分たちの「運命」の証なのだと、強く、強く信じ込んだ。


 どれだけの時間が過ぎたのか。咲の体の力が抜け、彼女の荒い呼吸が、次第に穏やかな寝息へと変わっていく。


 陽斗は、自分の腕の中で安心しきったように眠る咲の横顔を、暗闇の中で見つめていた。咲は、陽斗の体を独占するという目的を達成し、その不安を解消した。彼女の中で、不安を性的な行為で埋めるという行動が、この夜、確かに固定化された。


 だが、陽斗に残されたのは、まったく逆のものだった。シーツに微かに染みた血の痕と、生々しい匂い、全身を包む気怠さ。そして、何よりも強烈な、葵に対する裏切りと、咲の初めてを奪ったという取り返しのつかない罪悪感。


 快楽の熱が冷めた今、その罪悪感だけが、冷たく、そして重く、陽斗の心にのしかかっていた。彼は、咲の依存から逃れるどころか、自らその鎖に繋がれ、さらに深い泥沼へと足を踏み入れてしまったのだ。


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