化生《けしょう》

ジャック(JTW)🐱🐾

前編 鬼塚太助の慟哭

「蓮司郎、おれたちは、どこまでいっても化生けしょうの性分を捨てられやしないのさ! ありもしない物語を練り上げて食っていくなんて狂気の沙汰さ。……蓮司郎、蓮司郎よ。……おれはな、おれの書いた話で悶え苦しみ悲しむさまが見たい!

 あの日、親父がおれを切りつけ、顔に消えない傷痕を付けた! 痛みや恐怖は忘れようったって忘れられやしない。だからおれは、そうやって生きていきたい! 痛みと恐怖をペン先に籠めたい!」


 刻限を告げるような、赤みがかった夕焼けの光が差し込む。

 学生服を着崩した鬼塚太助おにづかたすけは、右頬にある切り傷の痕を隠しもせずに力の限り咆えた。朗々と演説をする政治家のように、親友である仏崎蓮司郎ほとけざきれんじろうへ言葉を叩きつける。


「……」


 早咲きの桜が散り始めた卒業式の前日。進学先の大学も全く違うふたりが、真正面から語らうことのできたはずの時間を、鬼塚太助は激情のままに踏みにじろうとしていた。


 ▓▓


 鬼塚太助は、一年半前まで、手のつけられない不良学生だった。周囲の大人は太助の更生を諦め、太助自身も自暴自棄な生き方に染まっていた。そんな太助に声をかけてきた奇特な同級生がいた。それが、運命の転機となった。


『なあ、きみ、そこの、野良猫のようなきみ』

『…………、おれのことか?』


 その同級生というのは、胡散臭く、色白の、なよっちい優男であった。文芸部を興して初代部長になった変わり者にして、生徒会長も兼任している優等生。名前は仏崎蓮司郎ほとけざきれんじろうといった。彼は、度の強いレンズのはまった銀縁眼鏡を押し上げて微笑んだ。

 

『そうそう、近所の野良猫のアザミにそっくりだ。アザミにも顔に大きな傷跡があるんだよ。丁度、きみと同じ位置。知っているかい? 弱い猫は外敵に立ち向かわずに逃げるから、後ろ足側に怪我をするそうだ。逆に、強い猫は逃げずに立ち向かうから、顔や腕のような目立つ場所に怪我をしやすいと──』

『ベラベラうっせえ! 短く喋れ!』

『つまり、顔の傷は強さのバロメータということだよ。だから、きみもきっと強いんだろう』

『……』

『ぼくは生まれつき体があまり強くない。とくに、喧嘩はからきしだから、きみが少しうらやましいよ』

『…………』


 普段、太助は、遠巻きにされたり、嫌悪や侮蔑の眼差しを向けられたことはあれど好意的に評されたことは全くない。だから、突然話しかけてきた仏崎蓮司郎ほとけざきれんじろうの話を聞いてしまったのかもしれない。

 

『なあ、きみ。ぼく、文芸部の部員を探しているのだよ。よかったら所属してたらふく小説を書いてみないか』

『……はあ?』

『そう、掌編でかまわない、裏紙でも何でも構わない、鉛筆を持って、きみの思ったところを思うまま書きなぐってほしいんだ』

『おまえ、おれのことからかってんのか?』

『からかっていない。ぼくは、至極真面目に提案している』

『……それやって、何になるんだよ』

『そうだね、何にもならないかもしれない。だけどぼくは、書くことが好きだ。誰にも気づかれなかったかもしれない存在に光を当てるような感性が……好ましいと思う』

『はあ……?』

『兎に角、ぼくは……きみの書いたものが見てみたいと思った。だから書いてほしい。是非とも』


 仏崎蓮司郎の眼差しは、真摯で嘘がなかった。少なくとも太助にはそう見えた。だからほんの気まぐれで、適当な返事をした。


『あー、一文字くらいなら書いてやってもいい』


 そして、太助は、仏崎蓮司郎から与えられた紙に、乱雑な字で書き殴った。


 【怨】


 乱雑な筆致で紙いっぱいの大きさに書かれたその文字は、紙を突き破るような筆圧で書かれていた。


『きみは、何かを怨んでいるのかい?』

『知らねえ。親父の背中に書いてあったヤツ』

『何でも書けるのに、どうしてその文字を選んだんだい?』

『紙に残せば、親父をぐちゃぐちゃにやっつけられる気がした』

『……きみのお父さんは?』

『死んだ。交通事故。そんときの保険金? バイショー金? で、高校に通わされてる。警察も、保険会社も、親父を轢いたやつも、口を揃えてただの事故だって言ってやがった』

『…………』

『でもおれは』


 太助は、【怨】の文字を書いた紙を、ぐしゃぐしゃに握り潰して小さな声で告げた。 


『自殺だったんじゃねえかって思ってる』


 ――翌日、鬼塚太助は仏崎蓮司郎が部長を務める文芸部に、半ば強制的に入部させられた。


 ▓▓

 

 生徒会長の仏崎蓮司郎が、趣味が高じて興したばかりの部であったため、部員は太助を含めてもふたりだけ。


『ざけんじゃねーよ! 本なんて嫌いだっつってんだろ!』

『まあまあ、短くて読みやすい本から貸してあげよう。読み終わったら帰っていいから』

『ケッ!!』


 最初、太助は入部を激しく拒絶した。しかし、外見に似合わず押しの強い仏崎蓮司郎の熱心な勧誘に根負けし、やがて正式入部をする運びとなった。

 手渡された本をぱらぱらペラペラと興味なさげにめくっていた太助は、いつの間にか本にのめり込んでおり、陽が沈むまでその本を読んでいた。


『暇つぶしにはなるな』

『面白かったってことだね』


 *


 最初、太助は短い感想文すら書けなかった。そんな鬼塚太助へ根気強く知識を授け、指導を行い、一端の小説が書けるまでに半年かけて仕立て上げた。

 仏崎蓮司郎との高校での初めての対話から一年が経とうとする頃には、鬼塚太助はどっぷりと文学の世界に浸った。最早ペンのない人生など考えられないほどに、彼は執筆に夢中になった。

 文学のことばかり考えているがゆえに、暴れることがなくなった。結果的に素行が改善し、成績も向上していった。入学当初には高校を退学させられそうだったはずの太助は、いつの間にやら大学への進学も叶う身の上になっていた。


「おれが……今……こうして卒業できたのは……おまえのおかげで。何より……おれは、おまえがいたから……ペンを持つことができるようになったんだって、わかってんだろ、なのに、なんで、どうしておまえは」


 仏崎蓮司郎は、鬼塚太助の人生を変え、物語を書くことについて刻み込んだ師であり強大な好敵手でもあった。これからも関係性は続く、そのはずだった。

 ――卒業を明日に控えたこの日までは。


「『痛みと恐怖をペン先に籠めたい』……か」


 仏崎蓮司郎は、銀縁眼鏡の奥のぱっちりした目を悲しげに細めて、太助を見やった。


「……うん、太助くん。きみの信ずるところの『痛みと恐怖』を込めた一文は、確かに衆目を集めると思う。だが、それに頼りすぎるのは、あまり良くないことだと感じているよ」

「…………」

「――太助くんのやりたいこと……相手を悉く痛めつけて、傷つけてやろうという情念が透けて見えるなら、それは浅墓あさはかと言うほかないだろう。

 残虐性や嗜虐心だけでは人の心を本当に揺らすことはできない、それはただの暴力だ。暴力で人間を心の底から感服させることはできない。突き詰めるべきは、人間性、愛、執着、未練——結局のところ、人間ひとの情念にほかならない……」

五月蝿うるさい!」


 鬼塚太助は歯を食いしばり顔を憤怒と嫉妬で赤らめた。机の角にぶつけるようにして握った指先の震えが、インク壺の蓋に伝わる。


「偉そうに、偉そうに! 蓮司郎、おまえは気取ってはいるが、その実喋る言葉は大衆向けじゃない、いつも上滑りして明後日の方向へ飛んでいく! まるで、この世のことなんか見えちゃいねえみたいに! 賢しらに愛だの恋だのさえずるが、その実どこにも届きやしない! 魂を打ち抜くほど刺さりもしない! おれ以外には! ……蓮司郎、おれはおまえの魂から絞り出した言葉が聞きたい、そうでなければ語る価値はねえ!」

「……そうかもしれない、ぼくは、きみのように叫ぶことはできない。ぼくは、命懸けで生きているきみの文が読みたいと思った。その心に、いまでも一片たりとも偽りはないよ」


 仏崎蓮司郎は静かに笑って、遠い窓の陽光、大地に落ちてく太陽を見つめるようにして言葉を継いだ。


「いいかい、太助くん、きみにとって痛みを書くのは簡単になっただろう。だが痛みを書いた先に、どういう光を当てるかが大事なのだよ。きみの筆がいつか、その光を見つけるなら、きみの文章は人の胸の底を深く深く揺らすだろう。

 だが光を拒むなら、それはただの怒号にすぎない。それは耳には届くだろうが、人間ひとは怯え、きみから遠ざかる……」


 鬼塚太助は喉を詰まらせ、嗚咽をこらえながら「ばかやろう……」とだけ吐いた。部室の空気は冷えて、動きの鈍い錆び付いたドアの音だけが遠くで鳴っているように感じられた。


「……まるで、遺言みたいなことを……」

「あながち間違いではないかな。これは、作家としてのぼくの、遺言のようなものだからね」

「おまえ、勝ち逃げするのかよ……」

「うん。ぼくは、もう、ペンを持たない。物語を綴ることも、もうない」

「……!」

「ぼくは、親の後を継いで医者になるんだ。そのために過分なリソースを注がれて育てられてきたし、幸運なことに、その能力や適性も持っていた……。だからぼくは、生まれてきた責務を可能な限り果たしたいと思う。……今の今まで身にならない余暇を許されていたことが寛大だったくらいだよ」

「身にならない……余暇だと……!?」


 鬼塚太助は、仏崎蓮司郎の襟首を掴んだ。


「おまえは、おれを置いてゆくのか! おまえが、おまえがおれを、書くことでしか生きられない化生けしょうの道に叩き落したのに……!」


 仏崎蓮司郎は、鬼塚太助と目を合わせることなく薄く微笑んだ。その、普段は一点の曇りもないはずの眼鏡のレンズが、夕焼け色を反射して、鬼塚太助には、彼がどんな眼差しをしているのか読み取ることができなかった。


「……ある日、ぼくは、きみに、『死ぬまでペンを握って生きてゆけたらいい』と言った。だけどぼくは、最初から……文芸部での日々を……きみとの時間を、ごく限られた時間だけ許された猶予だと思っていた」

「……!」

「きみと過ごした時間はとても心地よかった。とても……とても楽しい、“ごっこ遊び”だったと思う」

「……!」

「ぼくは……最初から、作家としては長く生きられないとわかっていた。だからぼくは、ぼくの“夢”を、太助くん、きみに託したかったのかもしれない」

の続きはどうなる! あれは……、あれが世に出れば……、おまえの親だって意見を……!」


 太助は、震える手で襟首を掴み続けていた。その力は、暴力沙汰を引き起こしていた不良少年だったとは思えない程に、弱々しい力だった。

 仏崎蓮司郎は、薄く微笑み、俯いて穏やかに告げる。


「太助くん。……とても……楽しい時間を、ありがとう」


 それが静かな決裂の瞬間だった。太助は、仏崎蓮司郎の首元から、呆然としながら手を離した。


「ぼくは……きみと過ごした時間のことを、死ぬまで忘れない」


 太助には、蓮司郎の言葉は最早耳に届いていなかった。項垂れて、力なくだらんと手を垂らし、無言のまま部室の扉を力任せに開けた。


 そのまま、目を合わせずにその場から立ち去る太助の耳に、『さようなら』というか細い声が届いたような気がした。


 *


「――畜生! 畜生、畜生、畜生……!」


 太助は絶叫しながら走った。目的地などなかった。体力が尽き果てるまで、必死に、必死に。息が切れても何処までも走り続けたかったが、そんな事は出来なかった。疲労が蓄積した脚が震え、太助は崩れ落ちる。太助の手の近くに、早咲きの桜の花びらが舞い落ちた。


「……」


 ──太助は、ゆっくりと、花びらを握りしめた。力付くで土ごと握りしめたそれは、泥にまみれて薄桃色だったぐちゃぐちゃの残骸に成り果てた。


「畜生、畜生、畜生……やっと……やっと……おれは……」


 太助は、桜の散りゆく道にしゃがみこみながら、滲んだ涙を拳で乱暴に拭った。顔に土や泥がついても気にならなかった。拭っても拭っても、溢れる涙を止められないほうがずっと不快だった。


「……おれは、書く。何があっても……報われなくても……書き続ける……、それがおれの……唯一の」


 震えながらも、太助は、自らの足で立ち上がる。泥だらけの制服の汚れを拭うこともせず、ふらふらと歩き出した。


「蓮司郎……途中で何もかも投げ出した、おまえなんかとは違う……おれは……書くんだ……ほんものの“化生”を……」


 *

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