第五話「不器用な心遣い」

 俺が屋敷の食事を作るようになってから、数週間が過ぎた。

 リアム様との間に、相変わらず会話はほとんどない。けれど食事の時間に張り詰めていた空気は、少しだけ和らいだように感じられた。


 彼は俺の作る料理について感想を言うことはない。「うまい」とも「まずい」とも言わず、毎日静かに完食する。それが彼なりの評価なのだと、俺は勝手に解釈することにした。


 今日も、俺は朝から厨房に立っていた。今日の朝食はふかふかのパンと野菜たっぷりのオムレツ、それから人参のポタージュだ。


「カイリさん、おはようございます」


「おはよう、アンナ」


 声をかけてきたのはメイドの一人、アンナだった。最初は俺のことを警戒していた彼女も、今ではすっかり打ち解けてこうして厨房を手伝ってくれるようになった。


「今日も美味しそうな匂いですね。リアム様、最近は食事を残されなくなりました。カイリさんのおかげです」


「そうだと、いいんだけど」


 俺は苦笑しながら、オムレツを皿に盛り付けた。

 リアム様は、きっと味なんてどうでもいいんだろう。ただ俺が作ったものだから食べているだけ。彼は俺を『番』だと言った。その所有欲の表れに過ぎないのかもしれない。そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。


 食事をダイニングルームに運ぶと、リアム様はすでに席についていた。朝日が差し込む窓辺で、彼は騎士団の報告書に目を通している。その姿はまるで一枚の絵画のようだ。


 俺が料理を並べると、彼は報告書から顔を上げた。そして俺が作った人参のポタージュを見ると、その動きがほんの一瞬止まった。


『どうかしたのかな……?』


 彼は何も言わずスプーンを手に取り、ポタージュを一口飲んだ。そして、また動きを止める。まるで何かを思い出しているような、遠い目をしていた。


 その日の午後、俺は屋敷の図書室にいた。薬草に関する本を探していたのだ。アークライト公爵家の図書室は、王宮の書庫にも匹敵するほどの蔵書量を誇る。ここならΩのフェロモンを抑制する、新しい薬の調合方法が見つかるかもしれない。


 俺はまだ諦めていなかった。いつかここから出て、村へ帰ることを。


 高い書架に手を伸ばしていると、不意に背後から影が差した。


「何を探している」


 振り返ると、リアム様が立っていた。いつの間に来たのだろう。この人はいつも足音を立てずに現れる。


「あ、リアム様。ええと、薬草の本を……」


「そうか。……これを使え」


 そう言って、彼が俺に差し出したのは立派な木製の踏み台だった。俺が一番上の棚に手を伸ばしているのを見て、持ってきてくれたらしい。


「あ、ありがとうございます」


 思いがけない気遣いに、俺は戸惑いながらも礼を言った。

 彼は俺が本を見つけるまで何も言わず、ただそばに立っていた。その沈黙が少し気まずい。


「……朝のポタージュ」


 不意に、彼が口を開いた。


「あれは、どうやって作った」


「え? ああ、人参のポタージュですか? 人参を柔らかく煮て裏ごしして、牛乳とブイヨンで伸ばしただけですよ。隠し味に少しだけ蜂蜜を入れています」


「蜂蜜……」


 彼は、何かを噛みしめるようにその言葉を繰り返した。


「子供の頃、熱を出すと母がいつも作ってくれた。甘い人参のスープを飲むと、不思議と元気が出た」


 彼の口から再び母親の思い出が語られる。その声は、いつもより少しだけ柔らかく響いた。


「……そう、だったんですか」


 俺は、何と返せばいいのか分からなかった。


「君の料理は、懐かしい味がする」


 ぽつりと、彼はそう言った。その横顔は少しだけ寂しそうに見えた。

『帝国の氷盾』とまで呼ばれるこの人も、貴族社会のしがらみや騎士団総長という重責の中で、ずっと孤独だったのかもしれない。俺が作る素朴な料理が、ほんの少しでも彼の心を慰めているのだとしたら……。


 そう思うと、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 その日の夜、俺は自室で薬草の調合をしていた。図書室で見つけた本を参考に、新しい抑制薬の試作品を作っていたのだ。集中していたせいで、背後の気配に気づくのが遅れた。


「カイリ」


「わっ!? リ、リアム様……! ノックをしてくださいと、いつも言っているのに!」


 心臓が飛び出るかと思った。振り返ると、リアム様が呆れたような顔で俺の手元を見ていた。


「またそんなものを作っているのか。無駄なことだと、まだ分からないか」


「無駄じゃありません。俺は、いつか村に帰りますから」


 俺がそう言い返すと、彼は深いため息をついた。そして俺の前に小さな包みを差し出す。


「……これは?」


「君にだ。開けてみろ」


 言われるがままに包みを開けると、中から出てきたのは上質な革で作られた真新しい薬草採集用の手袋だった。俺が村で使っていたものがもうずいぶん古くなっていたのを、彼は見ていたのだろうか。


「……どうして、これを」


「君は薬師なのだろう。道具は良いものを使うべきだ」


 それは、彼の不器用な優しさなのだと分かった。

 俺をここに縛り付けているのはこの人だ。憎いはずなのに。時折見せるこういう不器用な心遣いに、俺の心はぐらぐらと揺さぶられてしまう。


「……ありがとうございます」


 俺が小さな声で礼を言うと、彼は満足そうにほんの少しだけ口の端を緩めた。それは笑顔と呼ぶにはあまりにも些細な変化だったけれど、俺は確かに彼の氷のような表情が和らぐのを見た。


 この氷の城で、凍てついた彼の心を溶かせるのはもしかしたら俺だけなのかもしれない。

 そんな、烏滸がましい考えがふと頭をよぎった。

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