神さまのご褒美は、ピッチに落ちていた。――底辺Jリーガーの逆転劇

@U3SGR

第1話

 夜明け前、闇の底で目が覚めた。耳の奥までしみ込む静けさに、薄い氷片のような空気が触れる。暖房の息はとうに絶え、部屋は針の林になって俺の皮膚を刺した。


 動こうとして、動けない。思考だけが先に進み、体は置き去りにされる。金縛りではないと知っている。これは、あの寒さだ。骨から先に凍る、いつものやつだ――そう言い聞かせることが、最初にできる唯一の動作だった。


 だから、呼吸を数える。吸って、吐く。吐いて、吸う。薄っぺらい毛布を握りしめる指先は紙のように乾いていて、それでも布のざらつきが“ここにいる”という事実を返してくる。触覚だけが、暗闇のなかの灯りだ。


 その灯りを離さないまま、膝を曲げる。ゆっくりと。ベッドの上で関節がかすかな音を立て、こわばりの糸が一本だけほどける。一本ほどければ、次の一本もほどける。小さな解放が、小さな解放を呼ぶ。冷えの底で、体という機械にあたたかい歯車が戻ってくる感覚がした。


 膝が胸に少し近づくと、呼吸のリズムが変わる。腹の奥で息が広がり、肺の膜がきしむ。窓の向こう、まだ色を持たない空のどこかで、夜と朝の境目が薄くほどけていくのがわかる。俺の中の境目も、同じ速度でほどける。凍りついた夜から、動き出す朝へ。


 もう一度、吸って、吐く。毛布の端を握り直し、膝に触れた自分の掌の体温を確かめる。刺すような冷気はまだそこにいるが、さっきより痛くない。痛みが鈍くなると、音が戻る。壁時計の秒針。冷蔵庫の低い唸り。遠くの道路を渡る、最初のトラック。世界がゆっくりとこちらへ帰ってくる。


 俺も帰る。ひとつ、またひとつと関節を起こしながら、闇の底に置いてきた体を回収する。夜明け前という名の狭い橋を渡りきるまで、急がない。急がないことだけを、急いで守る。


 その瞬間、冷え切った関節の内側で、錆びたワイヤーが無理に引き絞られる――そんな、乾いた悲鳴が走った。鋭さと鈍さが同居する、金属の痛み。膝の奥で何かがきしみ、ほどけ、また絡む。


 それでも歯を食いしばる。ゆっくりと。もっとゆっくりと。左膝を、氷に埋まった蝶番みたいに少しずつ起こす。ギシ――。骨が軋むその細い音が、静まり返った安アパートのワンルームに、針で刺すみたいに散っていく。音は小さいのに、世界の真ん中まで届いた気がした。


 * * *


 ベッドから起き上がるだけで、毎朝三十分は軽く溶けていく。さっきの「ギシ」は、その長い儀式の最初の鐘だ。ひとつ鳴れば、ふたつめが待っている。肩、腰、もう片方の膝。順番を間違えると、身体という機械は拗ねて止まる。


 こうなるまでには、理由がある。度重なる怪我と手術で、俺の両膝は使い古しの歯車みたいに欠けている。ろくにリハビリにも通えず、仕事と言い訳で誤魔化し続けた年月が、金属疲労みたいに沈殿した。今、朝の冷気の中で支払っているのは、その当然の代償だ。


 代償だとわかっていても、起き上がる。わかっているから、なおさら起き上がる。痛みの一吠えごとに呼吸を合わせ、毛布の布目を指先で確かめ、膝の角度を一度分だけ深く――ほんの一度分だけ。ゆっくり。もっと、ゆっくり。ここから始まる一日を、ちゃんと自分の足で迎えるために。


 ベッドの縁に腰を移せる頃には、遮光性のない薄いカーテンの向こうで、灰色の夜がほどけ始めていた。光というより、色のない息が部屋に入り、畳の冷たさが少しだけ和らぐ。


 その淡い明るさが照らすのは、夢の後ろ姿ではなく現実だ。子どもの頃の願いどおりプロのサッカー選手にはなった。けれど、手取りは十万そこそこ。テレビをつければ「派遣切り」や「ネットカフェ難民」という言葉が繰り返されるが、俺の暮らしも紙一重で隣り合っている。職業はプロでも、生活はプロではない――それが今の俺だ。


 だからこそ、画面の向こうは貴重だ。地上波は遠いままでも、「オービットTV!」がN2の試合を、たいていは録画で、それでも律義に流してくれる。友人に「うち、オービットTV!入ってるか?」と訊ねるときの胸のつかえはある。けれど、アンテナの先にいる誰かには、確かに俺の姿が届く。映像という証拠が、細い線でも生活をこちら側へ引き戻してくれる。いい時代だ、と口にすれば、少しだけ肩の力が抜ける。


 肩が落ちた分、身体を起こす。ガチガチに固まった筋肉を、糸口を探すように伸ばし始める。テレビからは、やけに甲高い「ちび社長」のCMソングが転がり出て、狭いワンルームの空気を軽く震わせた。その軽さに便乗して、首、背中、腿裏――ゆっくり、もう少しだけ、ゆっくり。


 この遅さには理由がある。子どもの頃から重ねた怪我と手術、そして金のなさが連れてきた、足りないリハビリ。積み重ねるべき時に積めなかったものが、今、朝という最初の一時間にのしかかる。筋肉と靭帯は夜のうちに石みたいに固まり、まともに動くまでには、今日もたっぷり六十分かかる。


 それでも、伸ばす。呼吸を合わせ、痛みの縁を指でなぞり、角度を一度分だけ深く。録画の試合が時差を埋めるように、遅いストレッチが俺と一日との時差を埋めていく。灰色は、少しずつ朝の色になる。俺も、少しずつ動ける身体に戻っていく。ここから始めるために。


 もっとも、こういう不便な体になったのは、俺ひとりの業ではないらしい。プロスポーツで飯を食っている連中の中には、似たような朝を迎えているやつが思いのほか多いと聞く。冷えた関節をだましだまし起こしながら、その話だけは、少しだけ救いになった。


 なかでも、元代表の朝倉や篠宮も、俺と同じように起床一発目からストレッチとケアをルーティンにしていると聞いたときは、正直、胸のどこかがふっと持ち上がった。同じ景色の中に立っていた時間が、ほんの少しだけ本物だったような気がして、ささやかな誇らしさを覚えたのだ。


 もっとも、その感情も、冷静になれば苦笑いで終わる。フットボーラーとしてのキャリアで言えば、あの二人と俺とでは、積み上げてきたものがまるで違う。天と地、という言葉さえ生ぬるい。あちらは歴史に名が残る側で、こちらは名簿の端から静かに消える側だ。


 しかも、その「端」が今日で途切れる。N1の金満クラブですら経営破綻するようなご時世に、手取り十万の控え選手が一人いなくなったところで、世界は一行も書き換わらない。ニュースで流れる「派遣切り」のテロップと同じ速度で、俺の契約満了通知も処理される。世間から見れば、よくある「クビ」のひとつ、それだけの話だ。


 けれど、俺にとっては、それだけでは終わらない。五歳の誕生日に初めてサッカーボールを買ってもらった日から、二十年あまり。年代別代表にも選ばれず、子どもの頃から何度も夢に描いたワールドグランプリのピッチにも一度も立てないまま、ホイッスルは今日で鳴り止む。届かなかった場所の数だけ、磨り減った膝が残り、その膝だけが、ここまでの年月が確かに存在したと静かに証言している。


 だが、これを格別の悲劇と呼ぶつもりはない。この国でボールを追い、プロの端に指先をかけた者の多くが辿る、ごく標準的なキャリアの終わり方だ。少し夢を見て、少しだけ残り、静かに降りる。その一人が、ただ俺だったというだけの話である。

 子どもたちが名前を挙げるのは、欧州で活躍する遥さん(霧島 遥)や、今もN2で戦い続けるケイさん(氷室 啓介)といった、ごく一部の「キラ星」だけだ。俺と同じカテゴリーのピッチから、27得点だか叩き出してユルメニア連邦へ羽ばたいた早瀬のような化け物もいる。ああいう存在は、たしかに夢の証明だ。だが、あれが「普通」ではないことくらい、誰より俺たち本人が知っている。

 そして、その眩しさからこぼれ落ちた大半のフットボーラーは、誰に気づかれることもなくユニフォームを畳む。フラッシュも花束もなく、ロッカールームの隅で荷物をまとめ、翌朝には違う職場への通勤電車に揺られている。その姿を思い浮かべると、自分の終わり方もまた、その列の一部として当たり前に見えた。

 ――のはずだったのだが、そこだけは少し違った。他の多くの選手とは異なり、チームオーナーの厚意で、俺には特別に引退試合を組んでもらえることになったのである。N1の金満クラブですら経営破綻するこの大不況のさなかに、無名に近い一選手のための一試合を用意する。その事実の重さに、さすがの俺も言葉を失った。

 舞台は、地元スタジアムのシーズン開幕戦。一度は昨シーズン限りで選手として退くはずだった俺に、もう九十分だけ猶予が与えられた理由は、感傷だけではない。引退後もこのクラブのジュニアユースのコーチとして残ることが決まり、「地元出身のフットボーラーが、このチームでキャリアを終え、このチームで次の世代を育てる」という物語には、営業的な価値があると判断されたのだという。

 悲劇でも、英雄譚でもない。どこにでもある終わり方に、ほんの少しだけ灯りが足された。それが、俺に用意された最後の試合だった。


 もっとも、その「特別扱い」のおかげで、このシーズンオフもきっちりと身体を追い込む羽目になった。引退する身だからといって、楽をしていい理由にはならない。むしろ逆だ、と何度も自分に言い聞かせる。


 考えてみていただきたい。教え子たちの前で、情けないプレーなどできるはずがない。世間では「派遣切り」や「国保難民」という言葉がニュースの見出しを埋める時代に、その後もコーチとして席を用意してくれたクラブがある。その恩に報いること、ピッチに立つ子どもたちに背中で示すことくらいは、大人としての最低限のケジメだと、俺は思っている。


 だからこのオフ、俺は凍てつく夜明け前の河川敷をひたすら走った。吐く息が白く裂け、膝が悲鳴を上げてもペースを緩めず、そのまま暖房もろくにつけていないワンルームに戻り、狭い床で筋トレとストレッチを繰り返した。たった一試合の、その中のほんの数分のために。そう言ってしまえば馬鹿げて聞こえるかもしれないが、その「たった数分」が、これまでの二十年と、これから教える子どもたちに向ける覚悟を、全部引き受ける時間になると信じているからだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る