第2話
音楽室に、ハルトが一人残された。
ミユキが出て行った扉を、じっと見つめる。
「……」
何か言えばよかった。
でも、何を言えばよかったのかわからない。
ため息をついた。
モニターには、まだ作りかけの曲が映っている。
波形が並んでいる。
でも、それを見ても、何も感じない。
スマートフォンを手に取って画面を開くと、通知が、山のように溜まっていた。
いいね:2,345件
リツイート:1,892件
コメント:876件
昨日投稿した新曲への反応だ。
《haltの新曲、マジで神すぎる》
《何回聴いても飽きない。天才》
《すごい》
《もう百回聴いた。中毒性やばい》
賞賛の言葉が、ずらりと並んでいる。
ハルトは、それを眺めた。
嬉しい、と思うべきなのだろう。
こんなにたくさんの人が、自分の音楽を聴いてくれている。
評価してくれている。
でも、心が動かない。
ただ、数字が増えていくのを見ているだけ。
《haltって、どうやったらこんな曲作れるの?》
《天才の思考回路、マジで知りたい》
《音楽理論とか勉強してるのかな?》
《何か秘密とかあるのかな。曲作上での》
苦笑した。
秘密なんて、ない。
ただ、理論を勉強して、リスナーの嗜好を分析して、最適な構成を導いただけ。
それだけのことだ。
でも、それを言ったら、きっと幻滅されるのだろう。
いつものことながら、たくさんの人が自分に話しかけてきている。
《halt様、次の曲も楽しみにしています!》
《いつも聴いてます。これからも頑張ってください》
《サイン会とか、やらないんですか?》
《CDとか出してください。買います!》
ハルトは、いくつかに返信した。
《ありがとうございます。次の曲も頑張ります》
《応援ありがとうございます》
《サイン会は、今のところ予定ありません。すみません》
《CDは検討中です》
定型文のような返信。
心がこもっていない、と自分でもわかる。
でも、他に何を言えばいいのかわからない。
次に、DM(ダイレクトメッセージ)を開いた。
未読が、五十件以上ある。
ファンからのメッセージ。
他のクリエイターからのコラボの依頼。
企業からの仕事のオファー。
それらを一つずつ読んでいく。重要な連絡があるかもしれないからやらなければならないが、本当はマネージャーに任せたい作業だ。
《halt様、大ファンです。あなたの音楽に救われました》
という真面目なメッセージもあれば、
《おい、お前の曲パクっただろ。俺の方が先に作ったのに》
という身に覚えのない難癖もある。
《コラボしませんか?お互いにメリットがあると思います》
というビジネスライクな提案もあれば、
《ハルトくん、私と付き合ってください♡》
という冗談のようなメッセージもある。
返信すべきものだけ返信して、後は既読スルーした。
全部に返信していたら、時間がいくらあっても足りない。
疲れた。
SNSを見るのは、疲れる。
賞賛の声も、批判の声も、どちらも重い。
窓の外を見た。
気づけば夕日が沈みかけている。
空は、オレンジ色に染まっていて、幻想的な様相を為している。
綺麗だ、と思った。
でも、それを音楽にする気力は、今はない。
また作業に戻ろうとしたが、なんとなく指が動かない。
何を作ればいいのかわからない。
作りたい音楽が、ない。
ただ、求められる音楽を作る。
売れる音楽を作る。
それが、今のhaltの仕事だ。
「……何やってるんだろう、僕は」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
その週末、ハルトは都内のスタジオにいた。
ボカロPたちが集まる、月に一度の交流会。
普段はネット上でしか会わない仲間たちと、実際に顔を合わせる貴重な機会だ。
スタジオには、十数人のクリエイターが集まっていた。
みんな若く、才能に溢れている。
それぞれが自分の音楽を語り、新しいプロジェクトの話をしている。
ハルトは隅の方で、コーヒーを飲んでいた。
「ハルトくん、久しぶり!」
声をかけてきたのは、アオイという女性ボカロPだった。
彼女もまた、ネット上で人気のあるクリエイターの一人だ。
黒髪のショートカットに、細いフレームの眼鏡。
いつも元気で、明るい性格をしている。
「アオイさん、お久しぶりです」
ハルトは軽く会釈した。
「最近の曲、聴いたよ。相変わらずすごいね。コメント欄も盛り上がってたし」
「ありがとうございます。アオイさんの新曲も聴きました。すごく……良かったです」
「本当?嬉しい!」
アオイは屈託のない笑顔を浮かべた。
「でもさ、ハルトくんの曲を聴くといつも思うんだけど、どうやってあんなに完成度高い曲を作れるの?」
「……別に、特別なことはしてないです」
「嘘でしょ。絶対何か秘訣があるはずだよ」
「そんあのあったら、とっくに公開してますよ」
アオイは笑みを浮かべていた。
混じりけのない、まっすぐな感情。
その実直さに充てられて、ハルトの口が勝手に語りだす。
「プロデューサーが言うんですよ、もっと売れる曲を作れって」
それは、自分でも驚くほど素直な言葉だった。
「別に、作ろうと思えば作れるんですけどね。理屈とリスナーの嗜好を考えれば、最適な構成は導ける」
アオイは少し驚いた顔をした。
「すごいね……あ、でもそれって、楽しい?」
「……楽しくは、ないですかね」
ハルトは正直に答えた。
「でも、それが仕事ですから」
「仕事、か……」
アオイは複雑な表情をした。
「私はまだ趣味でやってるから、そういうプレッシャーはないけど……でも、ハルトくんみたいに有名になったら、やっぱりそうなるのかな」
「多分。数字を追いかけるようになりますね」
ハルトはコーヒーを飲んだ。
「……それって、寂しくない?」
アオイの言葉に、ハルトは答えられなかった。
寂しい、か。
確かに、寂しいのかもしれない。
「ねぇ、ハルトくん」
アオイが真剣な顔で言った。
「もし辛かったら、一回休んでもいいんだよ。音楽は、逃げ場じゃなくて、楽しむものだから」
「……ありがとうございます」
ハルトは微笑んだ。
でも、その言葉が、どこか遠く聞こえた。
休むことができれば、どんなに楽だろう。
でも、それは許されない。
ファンが待っている。
マネージャーが期待している。
レーベルが、数字を求めている。
もう、後戻りはできない。
「私は、ハルトくんの音楽、大好きだよ」
アオイが言った。
「だから、無理しないでね」
「……はい」
ハルトは頷いた。
その後、何人かのクリエイターと話をして、ハルトはスタジオを後にした。
外は雨が降り始めていた。
傘を差しながら、駅に向かう。
アオイの言葉が、頭の中で繰り返される。
「音楽は、逃げ場じゃなくて、楽しむものだから」
――そうだった。
昔は、楽しかった。
ただ好きで、作っていた。
でも、今は違う。
いったい何が違うのだろう。
ハルトは一晩考えて、結局答えを出せないままその問い自体を忘れた。
――――――――
夜、窓の外は雨だった。
淡い街灯の光が雨粒を銀の線に変えていく。
その中で、ハルトはモニターを見つめている。
DAWのタイムライン上を、白いバーが虚ろに横切っていく。
流れているのは、もはやよく聞いたシンセのフレーズ。作っているのは自分が数年前に作ったデモのリメイク版だ。
マネージャーの声が脳裏に蘇る。
「ハルトくん、次は“売れるやつ”をお願い。前の曲も良かったけど、ちょっと一般受けには難しすぎるよ。数字をとれ数字をとれって、上もうるさくってさ」
「売れるやつ……」
その言葉が、まるで錆びついた釘のように耳の奥に残っている。
作ろうと思えば、別に作れる。それは嘘じゃない。
だが、その理屈を理解していること自体が、もう退屈だった。
ハルトはイヤホンを外し、背もたれに体を預ける。
静寂が降りる。
外の雨音だけが、規則的にリズムを刻んでいる。
机の上には、数年前のノートがある。
昔、ミユキに教わっていたころの譜面だ。
そこには、未熟なコード進行と、丸文字で書かれたメモが残っている。
“感情を一音に込める”
“綺麗じゃなくてもいい、嘘をつかない音を”
そこに書かれていたのは、今では笑ってしまうような創作論だ。
「感情」
平均値を取って最適化すれば、万人が心地よいと感じる波形にはなる。
だが、それは感動ではなく、快楽に過ぎない。
ハルトは、その違いを痛いほど理解している。
彼は自分の曲を好きになったことが一度もないのだ。
「……先輩」
口に出した名前が、部屋の空気を震わせる。
ハルトは目を閉じた。
記憶が蘇る。
――半年前の、あの日。
音楽室で、二人きりだった。
ミユキはいつものように、自分の曲を作っていた。
ハルトは、完成したばかりの曲をアップロードしたところだった。
通知が次々と鳴る。
いいね、リツイート、コメント。
数字が、みるみる増えていく。
「……先輩」
「ん?どうした?」
ミユキが顔を上げる。
「僕、音楽……やめたいかもしれない」
その言葉に、ミユキの手が止まった。
「……え?」
「音楽を、やめたいんです」
ハルトは繰り返した。
「なんで」
ミユキの声は、平坦だった。
「楽しくないんです。曲を作っても、何も感じない。ただ、数字を追いかけてるだけで」
「……それが、やめたい理由?」
ミユキは、ゆっくりと立ち上がった。
「そんな理由で、やめるの?」
その声は、冷たかった。
「数字がついてくるって、すごいことなんだよ。何千人、何万人の人が、あんたの音楽を聴いてる。それって、どれだけ恵まれてるかわかってる?」
「……わかってます」
「わかってないよ」
ミユキは強く否定した。
「私の曲なんて、誰も聴かない。再生数は二桁。コメントもつかない。それでも、私は音楽を続けてる」
ハルトは何も言えなかった。
「あんたは才能がある。私が欲しくても手に入らない才能を、あんたは持ってる。なのに、それを無造作に投げ出そうとしてる」
ミユキの声が震えていた。
「……それを私に言うことが、どれだけ残酷かわかる?」
ハルトは、ミユキの目を見た。
そこには、苦しみと怒りと、どうしようもない悔しさが入り混じっていた。
「……ごめんなさい」
ハルトは頭を下げた。
「謝らないで」
ミユキは目を逸らした。
「やめたければ、やめればいいよ。あんたの人生なんだから」
その声は穏やかだった。
でも、その奥に隠された感情を、ハルトは感じ取っていた。
「……やめません」
ハルトは言った。
「続けます」
「……そう」
ミユキは、もう何も言わなかった。
それから、二人の間には見えない壁ができた。
表面上は変わらない。
でも、何かが決定的に変わってしまった。
ハルトはそのときから、ミユキに本音を言わなくなった。
ミユキもまた、ハルトに対してどこかよそよそしくなった。
――懐かしい記憶だ。
ハルトは目を開けた。
あのとき、自分は何を求めていたんだろう。
慰めか、共感か。
わからない。
――haltは天才だ。
それを否定しても意味はない。
数字が証明しているからだ。
再生数、フォロワー数、タイアップのオファー。
どれも現実であり、逃れようがない。
でも――
「僕はたぶん……聴くのが好きだったんだなぁ」
独り言のように呟いた。
「誰かの音楽を聴いて、感動するのが好きだった。作るより、聴いて震える方が、ずっと楽しかった」
自分で作るようになってからは、その“震え”を一度も感じていない。
美しい旋律を作っても、心は動かない。
完成した瞬間から、それはもう“過去の作品”でしかない。
この行為を突き詰めていった先に、いったい何があるのだろう。
ハルトはもう何回目かもわからない、深いため息をついた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には、マネージャーの名前。
一拍おいて、心臓の音を整え、通話ボタンを押す。
「はい、ハルトです」
『やあ、遅くに悪いね。今ちょっと話いい?』
「はい、大丈夫です」
『実はね、今度A社の企画のゲーム主題歌コンテストがあるんだ。うちのレーベルが協賛してて、審査員を一人探してる』
「審査員?」
『そう。ハルトくんやってみない?SNSでも発表して、少し話題になると思うよ。もちろん報酬も出るからさ』
ハルトは黙った。
興味はなかった。だが、退屈から少しだけ抜け出せる気もした。
少し考えたあと、なんにせよ今はなにかを作るような気分ではないのだし、ちょうどいいと思った。
「……やります。気分転換になりそうですし」
『助かる!詳細は明日送るね。あと内内で確定になったら、こっちでSNSで軽く告知しておくから、確認よろしく』
「わかりました」
通話が切れた後、ハルトはスマートフォンを机に置いた。
画面に映る自分のアカウント。
フォロワー数三十万。
最近の投稿には、数百のコメントで賞賛の文字が並んでいる。
だが、その言葉たちはもう彼の心に響かない。
まるで、意味のない記号の群れにしか思えないのだ。
――審査員、か。
他人の音楽を“評価する”という行為。
まだ純粋に音を愛していた頃、自分が聴いて感動したあの感覚を、今でも誰かが持っているのだろうか。
だとしたら、それを否定するような行為を、自分がする資格があるのだろうか。
そんな思いが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
そして、その感情すらも次の瞬間には薄れていった。
彼はパソコンを閉じ、SNSアプリを開いた。
投稿ボタンに指を乗せる。
《【告知】来月開催の“NEW WORLD SOUNDTRACK”というコンテストで審査員を務めます。応募作品を楽しみにしています。》
相変わらず、マネージャーは仕事が早い。
数秒で通知が鳴り始めた。
《えっ、ハルトが審査員!?》《熱すぎる》《絶対参加する!》《楽しみ!》
コメントが滝のように流れていく。
ハルトはそれを眺めながら、静かに冷めた笑みを浮かべた。
「楽しみ、か……」
指先でマウスを転がすと、過去の楽曲が自動再生される。
どれも同じに聞こえた。
今聞くと整いすぎていて、逆につまらないようにも思える。
どうしてこんな曲が流行ったのだろう。
再生を止めて、目を閉じた。
頭の中に、かすかなメロディが残っている。
それは、ミユキが昔弾いていたピアノの旋律。
不器用で、音が少し外れていた。
でも、なぜか心が動いた。
その微かな音が、彼の胸の奥ではいまだに鳴り続けているのだ。
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