GOAT

ツキシタコウ

序幕

プロローグ

 落下の衝撃で全身が熱かった。

 空中に投げ出された体は滞空することなく、重力に押し付けられ、あっという間に地面に引きずり降ろされた。


 ――大丈夫だ……。そんなに高さは、ないはずだ。


 夢中で走っていたから、自分がどこから転落したのかはわからない。


 子どもの頃、建物の非常階段でジャンプをする遊びが流行っていた。

 一段目、二段目、三段目……と、徐々に段数を上げていき、誰が一番高いところから飛び降り、華麗に着地できるかという、チキンレースだ。

 段数を増すごとに、着地した足の裏が、じんじんと痺れるような感覚があった。


 ――最高記録、何段目だったっけ?


 何故かそんなどうでもいいことが脳裏をよぎる。ああ、そうだ。非常階段だ。外の非常階段を走っていたんだ。走って、走って、それから落下した。


 遠くから、彼女の声が聞こえる。

 何と言っているのだろう。よく聴こえない。

 とにかく、彼女を守らなければ。


「こっちに来ちゃダメだ!」


 全身を振り絞って叫んだ。叫んだつもりだったが、声は全く出ていなかった。

 顔の近くで変な音がする。自分の喉から漏れた音だった。人間の呼吸音とは、こうも情けない音だっただろうか。


 ――守るって何から。


 無我夢中で階段を駆け降りた。目の前の人間の、肩を掴んだ感触を思い出す。肩ではなく腕だったか。服の襟元だったか。とにかく逃すまいと、力の限り強く掴んだ。


 逃げる男を追っていた。追いついて揉み合いになり、柵を越え、気付いたら地面の上にいた。


 柵を越えた?

 マンションの外に投げ出されたのか。

 じゃあ、今いるのは一階だ。


 つまり、相手より先回りしたわけだ。


 すぐに飛び起きた。飛び起きたつもりだったが、視点は変わらず、空を仰いだままだった。

 指先を動かすとざらりと肌触りの悪い地面の感触がする。そのまま指を這わせると、アスファルトが濡れていた。


 血だ。自分の身体から流れ出た、血だ。


 大丈夫だ。足の裏はじんじんしていない。だから、そんなに高いところから、落ちたわけじゃない――。


 遠くから、彼女の声が聞こえる。

 遠くではなく、近くかもしれない。

 痛みは感じなかった。

 そのうちに空は暗くなり、ゆっくりと世界は閉じていった。

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