レゾン・デートルは共犯者の距離

比絽斗

第1話 共犯者の静寂と男のプライド 和也(かずや)


午前七時。六畳のリビングダイニングに、トーストの焼ける音と、キーボードを叩くカチャカチャという乾いた音が響く。


俺の名前は和也、三十五歳。普通のメーカーに勤める、どこにでもいるサラリーマンだ。そして目の前にいるのが、俺の妻、美咲(みさき)。彼女もまた、どこにでもいる――いや、どこにでもはいなかった。


広告代理店のエースとして駆け上がり、今やチームリーダー。朝から彼女の周りだけ、世界の回転速度が数倍速い気がする。


「美咲、コーヒーいるか?淹れるけど」


マグカップを手に、俺は声をかけた。これは夫婦間のコミュニケーションではなく、


「協働生活者」としての業務連絡だ。


「ん、あ、いい。もう淹れた。ありがと」


美咲はディスプレイから視線を外さず、左手でスマホを操作しながら、右手でマグカップを口元へ運ぶ。その指には、結婚指輪がキラリと光っている。……ちゃんとつけてくれてる、それだけが、俺にとっての最低ラインの安心材料だった。


いつから、こんなに乾いた関係になったんだろう。


最後に美咲とちゃんと触れ合ったのはいつだ?


考えても思い出せない。二年?いや、もっと長いかもしれない。


始まりは、美咲が昇進した三年前からだ。彼女の仕事への熱狂が増し、俺は彼女の背中が遠くなるのを感じた。夜中の三時に帰宅し、朝七時にはもうバリバリと仕事モード。

俺は仕事で彼女を支えることが、男としての役割だと思った。男のプライドがそうさせた。


「俺だって、仕事で認められてるんだからな」


心の中でそう繰り返す。彼女の華やかな世界と比べ、俺の日常は地味だ。だからこそ、家庭内で彼女に弱みを見せるのは嫌だった。

レスを理由に彼女を責めるなんて、醜い男の行為だ。俺は妻の成功を喜ぶ、器の大きい夫でなければならない。


それは、彼女への愛か?いや、俺のプライドの維持に必死なだけかもしれない。


「和也、今日の夕飯、要らないから」


美咲がスマホを握りしめながら立ち上がった。その口調は冷たいわけじゃない。ただ、事務的だ。


「取引先と会食?それとも……」


「うん、まぁそんな感じ。遅くなる。先に寝てていいから」


美咲は、もう俺の目をまともに見ない。


「分かった。気をつけて」


俺はただそれだけを絞り出すのが精一杯だった。本当は聞きたい。男はいるのか? でも、聞けない。聞いたら、俺の築き上げた「器の大きな夫」という自己イメージが崩壊する。


美咲はダイニングテーブルに置いてあった、小さな旅行用の化粧ポーチを手に取った。……その中に、見慣れないホテルのアメニティを見つけたのは、つい先週のことだ。俺は見て見ぬふりをした。


「行ってきます」


美咲は振り返らず、踵を返す。玄関で彼女のハイヒールの音が響く。


「行ってらっしゃい……」


返事はない。美咲の背中は、いつも光を背負って輝いている。その光が、俺のいる場所には届かない。


美咲(みさき)


玄関のドアを閉めた瞬間、私はため息をつく。


ふぅ。今週も無事に、彼を傷つけずに済んだ。


和也は優しい。いつも穏やかで、私の仕事に口出ししない。それが、私が彼を愛している理由だ。でも、その優しさが、今の私には重い。


昇進して、外でスポットライトを浴びるようになってから、私は変わってしまったのかもしれない。会議室での私の言葉は重みがあり、チームの人間は私の指示を待つ。取引先の男性は、私を「優秀な女性」として、「一人の女」と

して見てくれる。


「行ってらっしゃい」


和也の声が、玄関のドアの向こうから微かに聞こえた。


和也は私が深夜まで働いているのを知っているのに、夜、私を求めようとしない。それが、私にとっては何よりも寂しかった。

セックスレス。それは私たちの仕事の忙しさが原因じゃない。私が彼に、女として見られていない気がするからだ。


外で褒められることで、

自分の「女性としての矜持」を必死に満たしている。和也が求めてくれないなら、外でそれを補うしかないじゃない?


スマホを開くと、後輩の彼からメッセージが届いていた。


『今日の会食、美咲さん、また光ってますね。僕、今日最後まで美咲さんの隣、キープします!』


フフ、バカな子。でも、こういう素直な承認が、私を保っている。


「和也、ごめんね」


心の中で呟く。彼は私のことなんか気にも留めずに、今日も平凡な一日を過ごすんだろう。そう思わなきゃ、外で踏ん張れない。


私は、和也の愛に甘えていた。彼が一番私を愛しているという事実に。だからこそ、突き放すような態度を取ってしまう。彼に素直に「寂しい」と言えないのは、もし言ったとして、彼に拒否されたら、私の一番大切な居場所がなくなるのが怖いからだ。


ハイヒールを鳴らし、私は「協働生活者」の家を後にする。


今日の私は、外で一番輝く。その輝きを、本当は一番愛する夫に見せたいのに、素直になれない。


――ああ、私って本当にタチの悪いツンデレだわ。


   

     to be continued




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