眠りの手前

笹木もあ

夢の底で逢う

 寝室の窓に、湖からの生ぬるい風が吹き込む夜。


 私は同じ夢を見る。正確には、同じ人の夢を。


 彼は起きだす。

 猫の餌を皿に入れる。

 朝食のシリアルをミルクをかけずに食べる。


 洗濯機を回し、その間詩集を読む。

 猫が寝床から起き出してきて、詩集のページにじゃれつく。その様を彼は困ったように見ている。


 いつも着ている白いシャツをベランダに干す。


 ハーブティーを淹れる。

 猫舌の彼は冷めるまでぼんやりと外を見つめる。

 波一つ立たない湖を。


 ハーブティーを飲むと、またベッドに戻って昼寝をする。



 彼が眠りに落ちた瞬間に私は起きる。

 夢から醒めると彼の顔は思い出せない。

 肩までかかる薄茶色の髪だったから、きっとまた彼の夢を見たんだろう。


 私は起き出す。

 猫に餌を用意しないと、と思う。

 餌の入った箱を探して、猫を飼っていないことを思い出す。シリアルを買い置いていないことも。

 頭を一つふってパンを取り出す。バターを塗って食べる。


 洗濯物を、と思って首を振る。

 今日はどんよりと曇っていて、とても乾きそうにない。風一つない向こうとは違う。


 私はコートを羽織り、スニーカーを履いて散歩に出る。足が自然と湖に向かう。

 湖の上は風が吹きすさび、湖面が波立つ。私は首をすぼめてコートの袷を狭めた。


 ニャアと鳴き声がした。 湖のほうからだ。


 そちらを見やる。草むらから猫が出てきた。灰色の猫。湖の色のような。夢で見た、ような。


 ばしゃり、ばしゃり、と音がする。

 湖が波立つ音。風が強いから。強くても、こんな音を立てているのは聞いたことがない。


 湖の岸辺に、手が突き出た。


 目を離せずに手を見ている。手は草を掴んで力を込める。ぐぐっと体がせりあがってくる。

 頭、頭の色はいつもと違う。濡れそぼって色を濃くしているからだ。薄茶色の髪が、首筋にへばりついている。白いシャツが汚れるのも厭わず、岸辺を這いあがってくる。


 そのはだしの足で大地を踏みしめると、まず彼はやれやれと頭を振った。

「◇〇▽、帰るよ」

 彼は猫を呼ぶ。猫の名前は聞き取れない。猫はいつになくおとなしく、彼の足元に懐く。彼の手が猫を抱く。


 そうして、彼は私を見た。


「×▲□、帰るよ」


 彼は私の名前を呼ぶ。私の名前だったか? わからない。聞き取れない。

 彼は笑顔で私の手を引く。引かれるままに、私の足は動く。


 スニーカーに湖水が染み込んだ。

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