龍崎蕾は窓辺にいる〜愛知県警特殊怪異捜査室〜

月草

プロローグ

 2024年 4月


 今年の桜は咲くのが遅く、4月を迎えたというのに未だに硬い蕾をつけたままであった。それはこの愛知県警察本庁近くの名古屋城も同じで、桜に合わせて商売をしている人間には、なかなか厳しい状態が続いている。

 コートを羽織らなくても良い気温になったのも、ここに2〜3日のことであった。


「浅井君、巡査部長への昇進おめでとう。そしてようこそ、刑事部捜査一課へ」

「ありがとうございます」


 室内敬礼で謝辞を述べながらも、浅井咲希あさいさきは特に感謝や感激の念もなく、無表情に目の前の男と向き合っていた。


 男の名前は古塚零士こづかれいじ。咲希と同じく今日付けの辞令を以って刑事部捜査一課の課長となった警視であり、今日から咲希にとっての直属の一番上の上司となった男である。


 顔の作りは端正であるが、その吊り気味の目を細め、口も弧を描いたまま貼り付けているものだから、どことなく信用ならない雰囲気を漂わせていた。


 事実、どこまで信用すべきか咲希は測りかねていた。まず、何故わざわざ呼び出されたのかが分からない。


 辞令交付式はとうに済み、本来なら配属先にいくはずだ。だが、辞令交付式時に捜査一課への配属は言い渡されたものの何係かは伝えられず、通された部屋にいたのは古塚のみであった。


 答礼もなく、咲希の3歩先で、古塚の腰がデスクチェアに降りその長い足が組まれる。

 

「高校卒業と共に愛知県警に入り、警察学校時代の成績は優秀、東署勤務時代の勤務態度は実に良好」

「ありがとうございます」

「そう、遡っては君の高校の成績や家の経済事情を見ても、大学だろうが短大だろうがいけただろう。それにも関わらず、君は卒業後すぐに警察学校に来た」


 ぱさり、ぱさりと紙のめくれる音がするが、顔は上げない。何を読んでいるかなど、容易に想像がついたから。


 事実、古塚は咲希が予想した通りのものを読み、予想した通りの問いを口にした。


「君が警察に入ったのは、行方不明の弟さんを探してかな?」

「……弟は、私が警察学校を出た際にはすでに失踪宣告を受けております」


 失踪宣告とはすなわち、法律上の死亡である。

 行方不明者の、その生死が7年間明らかでないときには家庭裁判所より失踪宣告を出すことが可能となる。それを受けたということは、咲希にとっても『もう終わったこと』ということだ。


「つまり、今ここにいる『浅井咲希』は、十年前の弟さんの件とは無関係で、自分の意思で警察職務についていると?」

「はい」

「……失踪宣告は親が勝手に申告したのであって、自分の心の整理とは別、というわけじゃないのかな?」

「はい」


 顔は、上げない。それでも、古塚がこちらを覗き込んできているのは分かった。顔を、その内心を、じろじろと無遠慮に探らんとしているのが。

 だが、それをされたところで特に咲希に揺らぐ点はない。

 今現在も行方不明のままなのだから、失踪宣告は覆らない。いないという事実も覆らない。

 進学せずに警察になったのも、弟の件は関係なく単純に向いていると思ったから、それだけだった。


 咲希の淡白な返答から三拍の間のあと、くすりと、古塚が笑う気配がした。


「浅井巡査部長、顔をあげて」

「はい」


 相変わらずの返答にも気を止める様子は無く、古塚は楽しげに口を吊り上げたまま、また1枚紙をめくった。


「ごめんね。正直に言ってしまえばこちらとしてもその点はどうでもいいんだ」

「そうですか」


 謝罪を口にはしているが、別に悪びれる様子はない。ただの形式的なものであったが、特に気にならなかった。


「そう。気に入った点はこっち」


 ギッと、椅子を軋ませながら古塚が立ち上がる。3歩あった間合いは詰められ、焦点が合うギリギリのところに、古塚は手にしていた紙を見せてくる。


「……この三年間、東署管轄内で発生した行方不明や誘拐未遂のうち、君が担当した物の件数だ」


 咲希は紙には目をやらず、その向こう側の古塚の顔を見つめる。


 二人の間にある資料には、箇条書きで受理した行方不明者届やパトロール中に行きあった誘拐未遂が並べられている。箇条書きであるにも関わらず、それはA4用紙を途中で折り返して、それでもほぼ余白なく埋め尽くしていた。


「誓って、作為的な物はありません」


 目線をそらさず、言い切る。


 何か工作したのかと疑われても仕方がない件数だ。だが、断じてそのようなことはしていない。後ろ暗いところもない。だから、咲希は警視相手あろうと自身の潔白を訴えられた。


「分かってるよ。だから僕は気に入って、君を引き抜いたんだ」


 咲希の視線を受け止めながら、古塚はその掴みどころない笑みを消すどころか、さらに深めた。


「君に行ってもらうのは、特殊怪異捜査室だ。まあ、怪異なんて公務員が口にするには聞こえが悪いから、僕らは特殊6係と呼んでいるけどね」

「……は?」


 聞いたことのない捜査室と、そもそもにおいて仕事中の警視から聞くはずのない単語に、咲希は瞠目した。

 特殊『犯罪』捜査係ならば6から7まで配置されている場所はあるが、愛知県警察においては5係までである。6係など、存在しない。


 硬直する咲希と相反して、古塚は実に楽しげに声を弾ませた。


「ああ、ようやくその鉄面皮が剥がれたね! ま、係長共々5係と兼任だからね。場所は特殊犯罪捜査室と同じだし、仕事もほとんど同じだし……まあ、とにかく。行けば詳細は分かるから安心して」

「え、それは」


 特殊犯罪捜査室、つまりSITと職務内容はほとんど同じ。それは時として機動隊と活動内容が被るような、爆発物や銃火器まで出てくる職務だ。

 確かに、異様に『行方不明や誘拐』と縁がある咲希にはお誂え向きと言えるが、つい先ほどまでただの巡査に過ぎなかった身にはかなり荷が重い。というより荷が勝ってしまう。


「大丈夫。何事も慣れだよ、慣れ。あと、これは僕からの選別だ」


 焦る咲希の肩をポンと叩いて、古塚は手の中に何かを握らせた。

 ひんやりと冷たく、胎児のような形をしたそれはおそらく勾玉だろう。だが、手を開いて確認する余裕は咲希にはなかった。


 困惑する咲希を置いて、古塚が部屋を出る。そのすれ違い際に、これまでになく柔らかく、切実な声で、耳打ちをした。


「彼女を──今日から君の直属の上司となる龍崎警部補をよろしく頼むよ」


*****


 警察というのはその性質上、昼休憩はバラバラだ。とは言え、一応定時があるのだからお昼も皆取る時間はそう大きく差があるわけではなく、だいたい12時前後には人がまばらになるものである。


 浅井が腕時計を見れば、時刻は12時を少し回っていた。居ないかもしれないが、お昼に出る前にこれからお世話になる上司に挨拶をしてからのほうがいい。


 案の定、浅井がドアをくぐると、5係のデスク周りはガランとしていた。物は雑然とデスクの上に積み上がって入るものの、人気はない。

 それは他の係も同じようで、まるでこの一帯だけ切り離されたように、不自然な静けさに満ちていた。


 窓辺に置かれた扉付きスチールラックの上に、大小さまざまな植木鉢が並んでいるのが目についた。

 今はちょうど白とピンクのヒヤシンスが咲き、風もないのにかすかに揺れていた。


「え?」

 

 その違和感に気づいた途端に、ヒヤシンスから目が、離せなくなる。後ろは窓であり、固く閉められているようで風が吹き込んでくる様子はない。虫によって揺れたにしては、ヒヤシンスの茎は強く太く、丈夫すぎるように見える。


 では、何が揺らしたのか。


 導かれるように、足はスチールラックに向かう。今、ヒヤシンスの影に、確かに、


「綺麗でしょう?」


 背後からかけられたその柔らかな声に、はたと我に返った。


 振り返ると、想像していた位置には何もなく、代わりに予想より頭一つ分下に柔らかく笑う女性の顔があった。

 浅井は男性と並んでも劣らぬような長身の部類であったが、それを差し引いても女性は小柄な部類である。おそらく、かつてあった身長制限ぎりぎり程か少し下回るぐらいではないだろうか。

 毛先の方で緩くウェーブする髪はいかにも柔らかそうで、そのダークブラウンの瞳は鉱石のようでもあり、カラメルソースのようでもある。


 その柔らかな姿は、言い方は悪いがいかにも女性的であった。捜査一課の中でも追跡、交渉に加えて戦技や体力まで求められる特殊犯罪捜査室にいるにはいささか似つかわしくない人間だ。


 いや、ここにいるから刑事だと考えるのは早計か。手に小さなじょうろを持っていることを踏まえれば、ここの花に水をやりに来た総務課か施設課の職員なのかもしれない。


「ジルコンを風信子石と呼ぶことを踏まえれば青が、その由来をギリシャ神話のヒュアキントスの流した血にあることを踏まえれば赤がスタンダードなのかもしれませんが、私はこの二色が好きですね。いかにも春らしくて、少し明るい気持ちになります」

「はあ」


 柔らかく微笑みながら、ヒヤシンスの横に並ぶ他の緑に水をやる女性に、浅井は生返事を返すことしかできなかった。


 よく分からない人だ。それに輪をかけて分からないのが、何故かヒヤシンスの茎に捕まる、黒い蟠りのような幻覚が見えることだ。


 幻覚のはずのそれはどういうわけか確かにヒヤシンスを揺らし、その甘い香りを広げて笑っているようにすら見える。


「大丈夫、彼らは……私にもよく分かりませんが、悪さはしませんよ。花の香りが好きみたいですね」

「龍崎警部補ー! 予約してたお弁当引き取って来ましたよー!」

「話に上がっていたラザニアもあったんで、5個追加してきました!」

「あ、新人君ようやく来たんですね!」

 

 彼女のまるで幻覚がいて当たり前のような口ぶりに呆気に取られる間もなく、がやがやと部屋に戻ってきた人の声とその内容に気を取られた。


「龍崎警部補……?」

「いかがされました? あ、自己紹介がまだでしたね」


 浅井の呟くような声を拾い、女性は窓を背に浅井をまっすぐに見上げて来る。


「改めて。本日より浅井巡査部長の上官となる、龍崎蕾です。特殊犯罪捜査室5係の係長としても、『特殊6係』の係長としても、貴女を歓迎します」

「あ、え、ほ、本日付けで巡査部長となりこちらに配属されました、浅井咲希です。よろしく、お願いいたします……」


 なんとか室内敬礼を取った浅井に、女性――龍崎蕾は、ふわりと微笑んだ。


 窓の外ではひときわ強い風が吹き、僅かばかりに桜の花びらを運んで去っていった。

 

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