第3話
梶尾が亡くなった数学準備室に入ることができたのは、春休み開けのことだった。
授業が始まり、部活動も再開された頃、こっそりと別棟の三階へ向かった。
別棟は二十年ほど前に本校舎の隣に建てられ、本校舎とは渡り廊下で繋がっている。
増築当時は生徒数増加による教室不足解消のためだったようだが、現在は一、二階が部活や委員会活動で使用されるばかりで、三階は空き教室と教科準備室があるだけであまり活用されていない。
三階にある教室の中で、数学準備室は一番人の出入りが少ないと言っていい。準備室とは名ばかりの歴代数学教師たちの物置であって、先生も生徒も用がないのでほとんど近づかない。
数学準備室の扉には立ち入り禁止と書かれた紙が貼ってあったが、鍵はかかっていなかった。鍵穴はあるが、いつからか壊れてしまって修理されていないのだ。
「失礼しまーす」
廊下に誰もいないことを確認し、ノックをしてから中に入った。
数学準備室は薄暗かったが、やけに清潔な匂いがした。事故の捜査が終わったあと、特殊清掃員が入ったのだろう。
床には血痕の一つもなかった。綺麗に掃除はされたようだが、片づけをされた様子はなく相変わらず物だらけの狭い部屋だった。
数学準備室の広さは六帖ほど。出入口の正面は一面が窓ガラスになっているが、向かって右側は古い机や物のせいでカーテンの開け閉めさえできない状況だ。
部屋を進み、左側のカーテンに手を差し込んでそっと外を見る。学校の周囲を囲む植木や、少し離れたところにややまばらな住宅街が見えた。
外からは誰も見ていないことを確認してからカーテンを開けた。事故発見当時もカーテンは開けられていた。
スマホを取り出して、事故当時の写真を表示させた。ここ最近は寝ても覚めても事故現場の写真を眺めていたので、もう気持ち悪さを感じなかった。
出入口の扉の前で撮影したので、よりリアルに想像できるよう同じ場所に立ち、視線を床に向ける。
梶尾は床に倒れた状態で亡くなっていた。写真の中の梶尾は極めて不自然な姿勢で、一目で亡くなっているとわかる。倒れていた場所は、向かって右手側にある古い教員机の近くだ。
梶尾の背中の付近に、凶器となった年代物の木箱が落ちている。鋭く固い角は、梶尾の血が付着していた。
木箱は、もともとは机の上に積まれた様々なものの天辺に置かれていた。木箱の中には麻雀牌が収められており、合計重量は三キロもあったそうだ。過去に在籍していた教員が持ち込んだものらしいが、今となっては誰のものだったのかも不明だ。
何かのはずみで木箱がプリントの上から滑り落ち、梶尾の後頭部を直撃したと推測される。
梶尾の周辺には、麻雀牌の木箱と一緒に落ちてきた古い冊子や教科書、教員机の下から引っ張り出したと思われる段ボール箱が散乱している。どれも梶尾の後頭部から流れ出た血で染まっていた。
梶尾のスマホやイヤホンといった私物は手元付近に落ちていた。イヤホンには紛失防止用のスマートタグが付けられている。
彼はガジェット好きで知られていたが、腕時計が苦手でデジタルウォッチは付けていなかった。そのため、身体の異常を感知してくれるシステムが自動で通報してくれることも当然なかった。
警察は、最終的にこの状況を次の通り結論付けた。
梶尾が数学準備室に落としたイヤホンを拾いに来た時、教員机の下に入り込んで出てきた時に頭を打ち、落下してきたものが後頭部にぶつかり、床にも前頭部を強打し、頭部に怪我を負い、その後誰にも発見されず亡くなった、と。
その結論については、改めて現場に来て事故当時の写真を見ながら観察し直しても、まったく異論がなかった。
警察は捜査開始当初はただの事故と考えていたが、梶尾はこの三月に卒業した市瀬と不倫していたことが捜査の結果明らかになり、痴情のもつれで殺害された線を追った。
しかし、不倫相手の市瀬にもアリバイがあり、梶尾の妻の美香にもアリバイがあり、いずれも本人の証言の裏付けが取れたため、この件は事故として処理された。
遺体を最初に発見して、警察にも事情を聞かれて全て正直に話した。あの時は事故であることを全く疑っていなかったし、今も疑う必要があることを疑い始めている。
「……ん?」
自分の思考が妙な方向へ進んでいることに気づいた。
これではまるで、どこかに事故に見せかけて殺害した真犯人がいるかのような前提になっている。自分はあくまでも恭一の潔白を証明すればいいのであって、いるかもわからない犯人を捜す必要はないのだ。
一通り確認を終えたので、寮に戻ることにした。
念のため耳を澄ませて廊下に誰もいないことを確認してから、そっと部屋を抜け出す。素知らぬ顔で階段を下りようとすると、ちょうど階段を上がってくる人影が見えた。まずい、と思ったがもう遅かった。
「綿貫君? こんなところで何してるの?」
現れたのは物理教師の藍澤だった。
とっさに言い訳が思いつかず、すみません、と謝ることしかできなかった。自分で自分が情けない。
「……話を聞きたいから、ちょっと来てくれる?」
この場から逃げ出すこともできず、大人しくついていくことしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます