第43話 寄り添いの温度
午後の《ハート・ラボ》は、いつもより静かだった。
代々木の街を包む冬の光が、ブラインドの隙間から差し込む。
壁際の観葉植物が、わずかに揺れている。
デスクの上には、今朝届いたメールが開かれていた。
件名は「相談のキャンセル」。
内容は短く、誠実な文面だった。
――「今は、自分の中で整理したいと思います。支援ありがとうございました。」
真司はしばらく画面を見つめていた。
成功とも、失敗とも言えない終わり方。
それでも、支援者としては受け入れるしかない。
そのとき、ノックの音。
ドアの隙間から、白石真由が顔を出した。
手には二つの紙コップ。
「先生、コーヒー入れました。……少し冷めちゃいましたけど。」
「ありがとう。助かるよ。」
彼女は向かいの席に座り、カップを両手で包んだ。
静かな蒸気が立ちのぼる。
「……クライアントさん、辞退されたんですか?」
「ああ。前向きな形ではあったよ。
“整理したい”って言葉、悪くない。」
「そうですね。……“整理”って、回復の始まりかもしれません。」
真司は微笑んだ。
白石は、以前よりもずっと落ち着いた表情をしていた。
言葉の選び方も、間の取り方も、もう一人前の心理師だ。
少しの沈黙が流れる。
真由が、カップを指先で回しながら言った。
「……先生は、どこまで“寄り添う”のがいいと思いますか?」
真司は視線を上げた。
問い方が真剣だった。
「グリーフのときも、失恋のときも、
相手の痛みに本気で触れようとすると、
どうしても自分まで引きずられそうになるんです。」
「……それは、いいことでもある。」
「いいこと……ですか?」
「そう。心が動くのは、生きてる証拠だ。
ただし――動いた心をそのまま渡してはいけない。」
白石が静かに息をのむ。
真司は続けた。
「支援者の“優しさ”は、温度を測れるものでないといけない。
熱すぎても、冷たすぎても、相手を傷つける。」
「……寄り添いの温度。」
「そう。手を当てる距離が、ちょうどいい。」
二人の間に、ゆっくりと時間が流れた。
コーヒーの香りが薄れていく。
「先生って、たまに詩人みたいなこと言いますよね。」
「職業病だよ。比喩で話さないと、心の話は伝わらない。」
真由は笑った。
その笑みは、以前のような緊張の混じらない自然なものだった。
「……私、やっとわかった気がします。」
「何が?」
「“支援”と“感情”って、同じ場所にあるけど、違う温度で生きてるんですね。」
真司はうなずいた。
「うん。それがわかると、きっともう、迷わなくなる。」
窓の外で夕陽が沈み、街がオレンジ色に染まる。
代々木の空が、ゆっくりと夜に変わっていく。
真司は立ち上がり、カップを片付けながら言った。
「今日は、これで終わりにしよう。温かいうちに帰りなさい。」
「先生こそ、無理しないでくださいね。」
白石は軽く頭を下げてドアを閉めた。
その音が静寂に溶けていく。
残された部屋に、コーヒーの香りだけが残った。
――支援と恋のあいだにある、たった一度きりの温度。
それを測れる者だけが、人の心を癒せるのかもしれない。
(つづく)
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📘次回予告(第44話)
「雨の日のカウンセリング」
季節が春へと移るころ、《ハート・ラボ》を訪れた新しい相談者。
その“雨音のセッション”が、桐谷と白石の関係をもう一度問い直すことになる。
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