第40話 心の距離、仕事の距離
夜の《ハート・ラボ》は静かだった。
雨の名残が窓を曇らせ、蛍光灯の光がぼんやりと反射している。
デスクの上に開いたままのノートには、
午後に対応したクライアントの記録が残っていた。
――相原柚、失恋グリーフ支援・第1セッション終了。
「通知を切る勇気」が芽生えたことを確認。
真由はペンを置き、ふっと息を吐いた。
指先に残る緊張の痕が、ようやくほどけていく。
「……私が一番、休息が必要かもしれませんね。」
その声に応えるように、背後から扉の音がした。
桐谷だった。黒のコートに折り畳み傘、
髪の先が少し濡れている。
「残ってたのか。帰ったと思ってた。」
「今日のセッション、ちょっと重くて。」
「柚さんの件か。」
真由は頷き、ノートを閉じた。
「失恋って、こんなにも“生きてる喪失”なんですね。
私、支援者なのに、心が少し引きずられました。」
「いいんだよ。支援って、感情を持ち寄る作業だから。」
桐谷はコーヒーメーカーのスイッチを押す。
豆の香りが、夜のオフィスに広がった。
「でも、距離感が難しいです。」
「どんな意味で?」
「クライアントとの距離も……先生との距離も、です。」
桐谷はカップを二つ置いた。
湯気が、二人のあいだでゆっくりと揺れる。
「“支援の距離”は、数で測れない。
近すぎても、冷たすぎても、相手の心は開かない。」
「……先生は、どうやって保ってるんですか?」
「簡単だよ。」
桐谷は静かに笑った。
「相手の“今”を信じる。
それができれば、必要以上に踏み込まなくても届く。」
真由はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……“信じる”って、難しいですね。
恋でも、仕事でも。」
「だからこそ、恋愛支援は“仕事”なんだ。」
「……?」
「感情を扱うけど、感情に溺れない。
それがプロの条件だ。」
コーヒーを口に含み、苦みを確かめるように桐谷が言った。
「真由さん、自分の恋の傷はもう癒えた?」
唐突な問いに、真由は少し驚いた。
だが逃げなかった。
「たぶん……“意味”にはできました。
でも、完全には“過去”になっていないかもしれません。」
「いい答えだ。」
桐谷はうなずく。
「過去にしてしまうと、同じ痛みを理解できなくなる。
未完のまま抱えてる方が、支援者としては健全だ。」
「それ、慰めですか?」
「経験論だ。」
二人の間に、わずかな沈黙。
外では首都高の音がかすかに響いている。
「先生、ひとつ聞いていいですか。」
「うん。」
「“恋を支援する人”って、
自分の恋は支援できないんでしょうか。」
桐谷は一瞬、言葉を失った。
そして少し笑った。
「できるさ。ただし、結果は保証できない。」
「……どういう意味です?」
「心理学は心を整えるけど、恋は整わない。
整わないから、面白いんだ。」
真由はふっと笑った。
「先生、珍しくロマンチックですね。」
「雨の日だけだ。」
外を見ると、街の灯りが滲んでいる。
窓ガラスの向こうで、雨が細く筋を描いた。
「支援者の恋って、どこから“越境”なんでしょうね。」
「たぶん、相手の痛みに共鳴した瞬間から。」
「……もう越えてるかもしれませんね。」
真由の声は、かすかに震えていた。
桐谷は何も言わず、ただコーヒーを一口飲んだ。
その沈黙が、答え以上の答えだった。
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夜遅く、真由はノートの最後に一行だけ書いた。
> 『支援とは、距離を学ぶこと。
> でも、距離の中にも“ぬくもり”は残せる。』
ペンを置いた手が、少しだけ温かかった。
(つづく)
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📘 次回(第41話)予告
「再会の条件」
真由のもとに、新しい依頼が届く。
――送り主は、かつて《ハート・ラボ》を去った女性・真由の“もう一人の鏡”だった。
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