第14話 契約 ― ハート・ラボ、恋愛デート実習 ―

>  ――人は、心のリハビリを恋と呼ぶのかもしれない。


 そう思ったのは、契約書にペンを走らせた瞬間だった。


「こちらが《恋愛請負ルーム・ハート・ラボ》の契約内容になります」


 代々木の一角にある小さなオフィス。

 外から見るとカフェのようだが、内側には静かな緊張感が漂っていた。

 ガラス越しの午後の日差しが、木のテーブルの上に柔らかく落ちている。


 壁のボードには、ひときわ目を引くキャッチコピー。

 《あなたの、彼女・彼氏つくります!》


 受付スタッフが微笑みながら説明を続けた。


「本コースは“恋愛行動力トレーニング(熱海モデル)”になります。

 心理支援を目的としたデート実習で、

 費用は四万円、所要時間はおよそ十二時間です」


「……まる一日、ですか」

「はい。恋愛は一瞬で起こりますが、

 “心の関係”は一日あっても足りませんから」


 机上にはタイムスケジュールが置かれていた。


 ▶ 08:30 新宿駅集合

 ▶ 09:00 出発(特急踊り子号)

 ▶ 11:00 熱海到着

 ▶ 11:30 昼食

 ▶ 13:00 来宮神社参拝

 ▶ 14:30 ウミネココーヒー店

 ▶ 16:00 日帰り温泉

 ▶ 18:00 花火観覧

 ▶ 20:00 帰路(新幹線)

 ▶ 21:30 東京駅解散


「……なるほど、実地訓練ですね」

「ええ。“行動で学ぶ恋愛心理学”とも言えます」


 真司は書類に視線を落とす。

 署名欄の上にある小さな文字が目に入った。


 【担当トレーナー:白石真由(23)】


 心臓が一拍、強く打った。


「彼女は心理学大学院生で、恋愛心理の専門家です。

 S級トレーナーとして認定されています」

「……S級、って本当にあるんですね」

「冗談のようですが、真面目な資格なんですよ」


 説明を聞きながら、真司は胸の奥に

 “なにかを取り戻したい焦り”のようなものを感じていた。


 もう一度、人と心でつながる感覚。

 そんな当たり前のことが、自分には遠い。


 受付スタッフが続ける。

「このプランでは、デート中に発生する心理的変化を観察・記録します。

 白石が現場でサポートしますが、主導権はあくまでお客様にあります」

「つまり……“失敗しても安全な恋愛”ってことですか」

「そういうことです」


 ふっと、二人の間に笑いがこぼれた。


「それでは、こちらに署名をお願いします」


 ペンを取ると、指先に少し汗がにじんだ。

 真司は、静かに自分の名前を書いた。

 ――。


 書き終えた瞬間、スマートフォンが震えた。

 《担当トレーナー・白石真由からメッセージが届いています》


> はじめまして。白石真由です。

当日は“ウミネココーヒー”のエコバッグを持っています。

一緒に、いい一日にしましょう。




 短い文面なのに、どこか温度があった。


「それでは当日、中央東口で」

「はい……わかりました」


 領収書に印字された数字――40,000円。

 安くはない。けれど、彼にはその金額の意味がわかっていた。


 これは、誰かとつながるための“再起動料”だ。


 代々木の街に出ると、冬の風が頬を撫でた。

 空には高い白雲。

 真司は、胸ポケットの領収書を指先で確かめた。


 ――あの日の空席が、ようやく埋まる気が気がした。





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