イレイザーは死んだから

さいとう文也

第1話 朝が来た

 懐かしい香りに目を開いた。


 湿った木の香りと、焦げかけたパンの匂い。布団をたたみながら、ぼんやりとした意識のまま廊下を抜ける。


 道場の板間には朝日が柔らかく射し込み、先生の飼っている猫が畳の上で背を伸ばしていた。どう見ても運動不足な腹を上にして、こちらをじっと見つめている。


 居間の扉を押し開けると、湯気の向こうには見慣れた食卓があった。


 トマトのスープ。不格好な手作りパン。知り合いが分けてくれる牛乳。そして今日は、滅多に食べられないりんごまである。年季の入った小さなテーブルは、まるでご馳走の山のようで、肘をつく余裕すらなかった。


 「おはようカイ、今日は俺の勝ちだな!」


 パンを口いっぱいに頬張りながら、親友のイサミが誇らしげに笑った。何の勝負かといえば、きっとどうでもいい競争で。自分たちは、朝起きる時間から食べ終わる速さまで、どんなことでも競い合っていた。


 「珍しいね、カイ。具合でも悪いかい?」

 「……いえ、なんでもありません。」


 匙を置いて尋ねる先生には、まだ白髪が少なかった。


 席に着いてパンをちぎり、おもむろに口に入れる。乾いた香ばしさが舌に広がり、スープを含めばトマトの酸味がそれをやわらげる。たったそれだけのことなのに、どうしようもなく涙があふれてきた。


 「ちょっ……カイ!?」

「やっぱり熱でもあるのかね、粥の方がいいかい」


 俺なんかのために、先生とイサミは椅子から立ち上がって分かりやくうろたえる。その姿が更に涙を誘い、ぐずぐずの鼻を擦りながら声を絞り出す。


 「いや……ただ、懐かしい味がして」

 「はぁ?」


 世界のどこを探してももう戻らないと思っていた、穏やかな時間。


 「……ありがとう、イサミ、先生」


 二人はぽかんとしたまま視線を交わし、気まずそうに笑った。


 青年——カイは静かにパンを噛みしめる。


 夢でも、走馬灯でもいい。もう一度やり直せるならなんだって。


 あの日、英雄の影として死んだ自分はまだいないのだ。


◇   ◇   ◇ 


 王都ハイダリアの大通りは光に満ちていた。鐘の音が空を穿ち、白い鳩が一斉に飛び立つ。


 民衆は何かを見つけると歓声を上げ、カゴから花びらを掴んでは晴れ渡る空へと放った。


 邪竜を討伐したS級冒険者パーティ『グローリア』の凱旋。厄災の亡骸を載せた荷台の先で手を振る英雄の名を、人々は狂ったように叫んだ。


 「ドグス様ー!」

 「偉大なるグローリアに栄光を!!」

 「ありがとう!! ありがとうー!!!」


 金色の鎧を陽光に煌めかせる団長のドグス・アルファン。彼が誇らしげに剣を掲げる姿は、人々の希望であり太陽そのものだった。


 強く、雄々しく、そして誰よりも民を思う戦士の鏡。


 ドグスが微笑みを返せば、女性陣の黄色い歓声が響き渡る。


 他にもエルフのママーレ、格闘家のヴィータ、獣人のルベル。華やかな一張羅に身を包み、それぞれが己をよく見えるように振る舞っていた。


 しかしその喧騒の中、一人の青年だけが静止していた。彼の目の前に立つ男の首を、絡みつく蛇のように締め上げる。


 うめき声を漏らすことすら許さず、数秒後に全身の力を預けてきた。男の手から滑り落ちた短刀を拾うと、周りに気付かれることなく懐にしまった。


 「……やっぱりドグス狙いか」


 質素なマントに擦り切れた革靴。腰に携えた剣持金具が錆び、風体はどこにでもいる駆け出しの冒険者と変わらない。


 しかし、その青年、カイ・サーブルもグローリアの一員であった。


 「ちょっとごめんなさい」


 カイが大通りの影へと男をずらしていると、近くを巡回していた衛兵が駆け寄ってきた。


 「そこのキミ、一体何を……」

 「具合が悪いみたいで、この人。踏まれたら危ないので」

 

 穏やかな声音で言うと、小さく会釈をして男を引き渡す。完全に脱力した男の重さに、兵士は何か違和感を覚えたが、もうそこには誰の姿もなかった。


 誰もが英雄と呼ぶ冒険者を陰ながら支えていた青年の名を知るものはいない。


 カイはフードを深く下ろしながら、彼らの姿を見つめていた。その渦中で、ドグスと一瞬だけ視線が交差した。


 わずかに揺らいだ英雄の瞳。


 しかし、すぐ何事もなかったように手を振り、民に向けて白い歯を見せるのだった。


 「……トドメを指したのは俺だよ」


 青年の嘆くような呟きに応える者はいない。華やかな列の中に、カイの居場所はなかった。


 誰にも呼ばれず、どこにも呼ばれず、ただ闇に溶けて全てを消す。


 今回の旅路で、囮として死んでいった罪なき人々の痕跡を。仲間が犯した悪事を。


 イレイザー。輝きを保つための、闇の作業員。その代わりに名も、顔も、功績も与えられなかった。


 そんなことを知らない街の記者たちは、カイを押し退けてドグスへ向かって走り寄る。


 「ドグス殿、皆に向けて何か一言お願いします!」


 ドグスはまるで舞台俳優のように、獅子が吼えるように声を響かせた。


 「我らの手により悪は死んだ! しかし、これで終わりではない……夜が明けたら再びダンジョンへと潜る」


 その一言に、群衆は大いにどよめいた。気にせずドグスは言葉を紡ぐ。


 「最下層に眠る、この竜よりも強大な力を持つであろう魔物を屠ってくる。宴はその後だ」

 「ですが、団員の皆様もお疲れのはず、少しお休みになられては……」


 鼻息荒く問いかける記者に、ドグスは仲間を振り返る。


 「休養が欲しいか?」

 「いいえ、この世の平和のために、私たちが休むことなどありません」

 「オレらは団長と共にある!」

 「邪悪が残る限リ、戦い続けるノミ」


 誇らしげに頷く英雄の姿に、記者の賛辞と民衆の雄叫びが重なった。


 熱狂の渦の中、カイは一人首を傾げていた。とうとう仕事の話すら聞かせてもらえなくなったのかと彼らに背を向け、歩き出す。


 それでも宿屋と馬、食事の手配をしなければ。


 健気な青年はまだ気付いていなかった。彼らの指す「悪」が何かを。

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