第16話 研修合宿 二
木戸が音を立て、元浦くんと隔たった。横には顔つきがすこしかわった少女がいた。先の会話によれば今治琴というらしい。
かがんで笑いかける。
「元浦くん、怖かったですか?」
「いえ、そういうわけでは」
「でも、あなたから関わり、あなたから拒絶した。その無礼さは自覚しなければなりませんよ」
彼は責めなかった。しかし私は違う。教師なのだ。
教師は生徒を選べない。同じく生徒も教師を選べない。相性だろうか。しかし試みることは必要だ。今治さんにも、そう接してしまった。
か細い少女、体つきも貧相そのもの。これは元浦くんが意識しないからこそ、私だけがわかる。
「あなたは、なんで元浦さんと一緒にいられるんですか」
「教師だからです。教師だから生徒から逃げてはいけないし、誤魔化すこともできません。私たち教師は、あるべき大人そのものなんですから」
「……わかりません」
「そうですね。なってみないと生えてこない心の在りようですから」
彼の言を踏襲すれば、教師とは度し難い生き物なのかもしれない。彼がなぜ教師をもちあげたがるのか、わかった気がした。
この子に伝えるべき言葉が浮かばない。それだけ彼の後を引き継ぐというのは難しいのだろう。隣で、ただ寄り添うことしかできなかった。元浦くんの言った人影も変化はない。
今治さんは陰るばかりだった。
唐突にそれが発せられる。
「傷つけるつもりなんて、なかった。あの人がいいっていったから」
「そう。そして何度も侘しい思いをしてきたんでしょうね。今治さんにとっては期限付きの夜の共だったのかもしれません。でもあれは、あなた個人と長々付き合おうとする、くそ真面目なつもりだったんですよ」
でなきゃ忠告なんてしない。
唇をかみしめる今治さんは、耐えがたいようだった。共感は死んでいない。中途半端なだけに一番苦しいところにいると思える。
でもなぜだろう。慰める気にもなれない。これは、嫌悪……?
自嘲しそうになって止める。漏らしてもいないのに、着々とモチベーションを削るわけか。
「あの、どうかされましたかね。音無先生」
顔を上げれば、案内役の亜門さんがいた。
見える。目線の滑り方。見下ろすという体勢からくる優越と油断。
感じる。声音はうかがう。一見理性的ながら欲望によって成り立つ戦略的思考。
反吐が出る。まるで境界を知らぬ、獣同然のふるまいに。
この人は敵ではない。しかし不快である。虫の居所でも悪かったか、月のものがかぶったからいらだっているのか。
タオルで胸元を隠し、最低限口元をひきあげる。
「いえ、おしゃべりしていただけです。にしても、そのご様子だと私たちをうかがっていたように聞こえますよ」
「まさか。通りがかったところ、どうしてか廊下そばに座り込んでるではありませんか。気にもなりましょう。琴、気分でも悪そうだな。芦屋くんのところで休んでなさい」
「はい」
そうして立ち去る子を見送り、二人きりとなってしまった。反対側によりかかる亜門さん。
余裕しゃくしゃくと言ったところか。鼻持ちならないわね。
「して、どのような御用でしょう。土いじりのご教示は明日のはずですが」
「親睦を深めようとしているだけです。なに、今晩は宴ですゆえ緊張もいまのうちにほぐさんとね」
死角をつくり、付け入ろういう算段が丸見えではないか。酒は判断力を鈍らせ、先鋭なる直観を濁らせる。好きではない。なにより、元浦くんの身体を保護している手前、過ぎた警戒というものはない。
忘れがちだけど、彼は男なのだ。言葉という血肉で形成されたミュータントではない。
「結構です。普段から業務に追われる身、これでも休めるときに休まなければなりません。無論、元浦くんへの干渉もお控えいただきたい」
「これはまた、異なことを」
くつくつ笑いをかみしめるさまは、元浦くんとは違って嘲弄の気が混じり、不快を募らせる。
はあ、はやく上がってきてくれないかな。
亜門さんから目を離して木戸をみつめる。
「熱い視線のようで。それほどご執心されるような子ですか」
「教師として気にするべきことです。私情で凝り固まった形式より、あの子の方がはるかに透明で話しやすい」
「辛辣ですな」
「自制という毛皮をかぶった獣にはちょうど良い切っ先です。安易に触れるべからず。警察が人としてそれを行使するなら、私は言葉で行使するだけです」
言うまでもなく、私も欲望の対象である。男から見れば紛れもなく“女”なのである。言語の深海に棲むあの子でもない限り、付き合い深い異性に手を出すのは男の情理。酔いどれに尻を撫で、迫るのは男の期待。
なればこそ、その浅はかでとろけた獣性に、一目でわかる危険というものを示さねばならない。
息を呑む音が聞こえた。
「身の安全、心の安寧とは自ら境界を引き、守り抜かねばなりません。さて、大人として守るべき誠意、というものを見せてもらいましょう。現地案内をやるほどです。間違っても、問題行動を起こされるような方ではないと信じています」
「も、もちろん」
所詮言葉は言葉。この男にとって吐くだけの音に過ぎない。
言葉が制約となりうるのはあの子くらいだろう。
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人から拒まれるのはこれで何度目だろう。
湯底のタイルを撫でながら、ぶくぶく泡を立てる。疲れなんてとれない。国家の安定を考え続けてしまう装置になってからは、もう緊張も弛緩も感じられなくなった。国家基盤が安定したら、その先は、わたしは穏やかに生きられるか。
首を振る。
愚考だ。生涯をかけたところで、わたしの納得するラインまで地固めするのは無理だろう。幸い、必要と思想をはき違えるような日本語のわかっていないマジョリティというわけでもない。それだけでも感銘に入る価値はある。前世がどれだけ悲惨だったか、これでは浮き彫りにするだけだな。
もっと建設的なことを考えよう。
現状、日本は独立が進みつつある。諸外国の情報は入ってきていないが、これといった大きな動きはないとみえる。問題は外ではなく内にある。なんなら永遠命題かもしれない。
「人口維持のための、半強制的なマッチングかあ。だから百年たってもあんな露骨な迫り方が赦されるわけだ」
いまとて、明治以前の婚姻文化が残っている。必要だからこそしぶといのだ。男は基本選ぶ立場にある。前世の女性がもつ鼻持ちならないプライド意識を移植した形がわかりやすいけど。それ以外に関してはわたしの知る男そのもの。
何十万年の変遷というわけではないのだろう。過渡期、そういうのが適切だ。
だから嫉妬、独占欲といったものは濃くある。その反面仲間意識がやや強いように感じられる。
ここまでは問題ないけど、男の人格形成にはかなりばらつきが生まれる。短絡なやつが多くなると、振り回されるのは周りの人間だ。衝突も多くなる。さすが、歴々が頭を悩ませたという難題だ。
解決の糸すらつかめない。アプローチを変えてみる必要がある。あれだ、奇抜な発想。
湯船から上がって洗面所に出る。体重計なんて便利なものはない。けれど、少し腕の肉が削げた気がする。また大喰しなきゃかなあ。太れないってのも難儀だ。
着替えを終えて戸を開くと、先生とおっさんがいた。
「なにやってんですか。対峙しているように見えますよ」
「ポジションがそう思わせるだけだよ、元浦くん」
「うへえ、楽観した声音で話さないでくださいよ。砂糖はきそう」
「じゃ、俺はこれで」
会釈して去っていくおっさん、その背を得も言えぬ視線が突き刺す。
おっさん、なにしたのよ。先生の顔がかたいんだけど。熱気にさらされ、なおのことうんざりしていたのに、積むような真似をするとは。まったく忌々しい。
先生と部屋に戻る途中、タオルで拭いてくる。抵抗する気もおこらない。動きが窮屈なだけだ。
「あんまり手入れしてしてなそうねえ、この髪」
「散髪屋では水はけのいい硬糸と言われます。ブラッシングした猫の毛並み程度にはなってるはずです」
「男の子ならそっちの方がいいかも。無駄にさらさらしてると、自意識過剰とまでは言わないけど、容姿ばかりに目を向ける人間性なんだなって思うし」
「否定はしません。普段から自分の外見に意識を払うなら、おのずとそう変化するだけです」
「でも危なくない? そこに価値判断の重心が寄ると、単なる面食いのクズってことになるし」
なんてことない声音でいつもより率直だ。
苦笑し、自室に入る。着替えを荷物横に放り投げて座り込んだ。西日が差す庭から生暖かい風が吹き込んでくる。
「知らんですね。魅力的な外見なんて必要としてませんし。今のところ研究する価値もない」
使い方こそいくらでも思いつける。容姿を整えれば大切にされる。裏返せば、執着される。日常的な人の目に触るというのは、それだけの汎用性と危険をはらんでいる。
先生は縁側に腰かけた。夕涼みのつもりらしい。
「研究……普段かいてる論考は、今日はいいの?」
「もともと安定した国家の作動原理とか、その具体的な運用論なので、気長なんです。まあこの前、三年越しにひと段落しましたから。あとは現場運転次第です。最近はほら、人口維持の方法について考えてたんです」
「ああ、男女比を前提とした安定的な維持。ずいぶんマニアックなところに突っ込んだみたいね。未解決問題として有名だよ?」
男性を中心とした小規模のグループを募らせて共存させる文化。男性を従属させて共有資源として扱う奴隷じみた身分制。この二極に寄りやすい。
近代以降、人権云々さけばれているらしいが、わたしの回りには前者しかいない。男は己を君主として認識し、女は男を共有資源の一つとしてしかみない。度重なる衝突の末、折衷でそんな暗黙の了解がつくられた。
言うほど歪んでいるようには思えないものの、やはり男の短絡は無視できないものとなっている。
「わたしはむしろ、維持したうえで、さらなる安定のためにはなにができるかといったところです」
「そうなんだ。相変わらずだね」
振り向く横顔が深青に彩られ、鮮烈に焼き付く。あの子供をかばったときも、こんな空だった。果てなく、底のない青。息を忘れて死んでしまいそうな、そんな青。
笑いかける顔も目に入らない。一瞬とも永遠ともつかない刹那が過ぎていく。
世界はまばたきから動き出した。
「……ですね」
「後悔しないの?」
「なにをですか」
「そういう風に、備えて、考えて、危惧して、恐れて、書いて。きみは未来をえがくことで今を抜け殻にしてる。それを後悔しないの?」
「しません。未来なんて、破綻しないよう来る必然の崩壊を予防するために見続けるだけ。知るいまとなっては、ただこの日常が続くかすら危ぶまれる。いつか自分の留まり木をみつけたいとは思ってます。でも、いつかなんです」
先生は見たことない、きっと悲しい顔をしていた。
ああ、妬ましい。
目が細まる。頭から熱が落ちていく。
どうにもならないことだ、これは。だからしまおう。
明かりをつけて佇む。
「目の前だけを見ていられるのは、幸せですね」
「え?」
言うが及ばず、ノートとペンを手に卓につく。
「ええと、奇抜な発想。やっぱりここはやっぱりここは人工文化の代表例、宗教を参考にしてみようかな……」
そこから書いた記憶しかない。
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