PONZ! ~ポール・マッカートニー大好きっ子が、路上ライブのシンガー、内気な天才ギタリスト、アクセ好きドラマーを口説いてバンドを組んだ話~
文月(あやつき)
第0話 左利きの神様
「おじいちゃん、うまくできん」
小学四年生の
「おお、かんちゃん。今日も来たか」
祖父の
「おじいちゃん、そのTシャツ何?羽生えた人が飛んどる」
「レッド・ツェッペリンや。世界最強のロックバンドの一つや」
「へー、最強なん?じゃあポケモンでいうと何?」
「……ミュウツーやな」
「すご!ミュウツー!」
寛奈は目を輝かせた。祖父は苦笑いしながら、孫を防音の効いたオーディオルームに招き入れる。
一週間前、ギターに興味を持った寛奈は祖父の部屋にあったギターを見つけた。「これ弾いてみたい!」と言い出したのが始まりだった。祖父は喜んで貸してくれたが、それからというもの、寛奈は毎日のようにこの家に通っては、ギターと格闘している。
*
祖父の部屋は、寛奈にとって未知の世界だった。
壁一面に貼られたポスターや写真。レッド・ツェッペリン、ローリング・ストーンズ、イーグルス、クイーン、そしてビートルズ。古いレコードジャケットが額縁に入れられて、まるで美術館みたいに飾られている。
「おじいちゃんの部屋、いっつも思うけど、なんか外国みたいやね」
「そうか?まあ、わしの青春時代はこういう音楽ばっかり聴いとったけんな」
「青春時代って何年前?百年くらい?」
「こら、わしは妖怪か」
祖父は笑いながら、寛奈の頭を軽く小突いた。
「五十年くらい前や。息子…かんちゃんのお父さんが生まれるよりずっと前」
「えー?それでもお父さんが生まれるより前やん じゃあ恐竜おった?」
「おらんわ!」
寛奈はケラケラ笑いながら、ギターケースを開けた。中から出てきたのは、蜂蜜色のアコースティックギター。祖父が数年前に中古で買ったエピフォンのマスタービルトシリーズ、テキサンというモデルだ。
「よし、今日こそ弾けるようになるけん!」
寛奈は気合いを入れて、ギターを構えた。
*
……しかし、現実は厳しかった。
左手で弦を押さえるのは、まあなんとかできる。指先が痛いけど、それは我慢できる。問題は右手だった。
ピックを持ってストロークしようとすると、手首がガチガチに固まって、音がかすれたり、狙った弦を弾けなかったりする。まるで右手だけ他人のものみたいだ。
「んー、なんでやろう」
右手首の角度を変えてみる。ダメ。ピックの持ち方を変えてみる。やっぱりダメ。肘の位置を変えてみる。全然ダメ。
「おじいちゃん、やっぱり難しいわ。みんなこんなに苦労しとるん?」
寛奈は壁のミュージシャンたちを見上げながらつぶやいた。みんなカッコよくギターを弾いている。なんで自分だけこんなにヘタクソなんだろう。
「ちょっと見せてみぃ」
祖父が寛奈の隣に座り、その手元をじっと観察した。
「うーん……」
「うーん、って何? うち、才能ないん?」
「いや、そうやないんやけど……」
祖父は何かを考え込むような顔をしている。ただ、ピッキングの手の不器用さが気になった。
*
その時、寛奈の目がふと、壁の一枚の写真に釘付けになった。
四人組のバンドがステージで演奏している写真。よく見ると、ドラム以外の三人の中で、二人は同じ向きにギターを構えているのに、一人だけ反対向きだ。
「あ! おじいちゃん、この人、みんなと反対にギター持っとるよ!」
寛奈が指差したのは、ビートルズの1964年頃のコンサート写真だった。
「おお、よう気づいたな。それはポール・マッカートニーや」
「ポール・マッカー……何?」
「マッカートニー。ポール・マッカートニー」
「マッカート…ニー? 言いにくいなあ」
「はっはっは、マッカートニー、これが名字や」
「えー、長いなあ。じゃあポールでいいや。で、なんでこのポールって人だけ反対なん?」
「左利きやけんや」
その言葉を聞いた瞬間、寛奈の目が大きく見開かれた。
「えっ……左利き?」
「そうや。ポールは左利きやけん、左利き用のベースを持って弾いてるんや」
「おじいちゃん! うちも! うちも左利きなんよ!」
寛奈は興奮して立ち上がった。
「このポールって人と一緒や! うちと一緒!」
祖父はハッとした表情を浮かべた。
「かんちゃん、そういやお箸も鉛筆も左で持っとったな……。しもた、わし全然気づかんかった」
「えー! おじいちゃん気づいてなかったん!? うち生まれた時からずっと左利きやのに!」
「いや、知っとったけど、ギターのことまで頭回らんかった。すまんすまん」
祖父は頭を掻きながら、立ち上がった。
「ちょい待っとき。弦を張り替えるけん」
*
祖父は寛奈からギターを受け取ると、慣れた手つきで弦を外し始めた。
「何しとるん?」
「弦の順番を逆にするんや。普通は上から太い弦、下に行くほど細い弦やろ? これを逆にして、左利き用にするんや」
「えー、そんなことできるん?」
「できるできる。ポールもそうやって弾いとったんやけん」
祖父は新しいエクストラライトの弦を取り出す。寛奈は祖父の手元を食い入るように見つめた。6弦と1弦、5弦と2弦、4弦と3弦……。太い弦と細い弦の位置が、まるで鏡に映したように入れ替わっていく。
「おじいちゃん、すごい。手品みたい」
「手品やないわ。ただの弦交換や」
「でも魔法っぽい!」
「……まあ、若かりしポールにとっても魔法みたいなもんやったかもしれんしな」
祖父は弦の交換をしながら静かに語り始めた。
「ポール・マッカートニーはな、ビートルズっていう世界で一番有名なバンドのメンバーの一人やったんや」
「ビートルズ……あ、聞いたことある! お父さん車でたまに流してるよ」
「そうか、わしがよう聞かせとったけんな。そう、ビートルズ、で、このポールがな、かんちゃんと同じ左利きやったんやけど、昔は左利き用のギターは簡単に見つからなかったんやろうな」
「えー、不便やったね」
「そうや。やけん、右利き用の楽器を逆さまに持って、弦も張り替えて弾いたんや。普通は右手で弾いて左手で押さえるやろ? でもポールは左手で弾いて右手で押さえた まあ、ギターの構造上問題はあるんやが…」
「ということは……うちも!?」
「そうや、かんちゃんもそれでやってみたらええ」
*
弦の張り替えが終わった。
「さあ、反対向きに持ってみぃ」
寛奈は恐る恐るギターを受け取り、さっきとは逆向きに構えてみた。
「……あ」
その瞬間、寛奈は全く違う感覚を味わった。
左手がピックを握り、右手がフレットを押さえる。たったそれだけのことなのに、さっきまでのぎこちなさが嘘みたいに消えていた。
「すごい! やりやすいよおじいちゃん!」
寛奈は興奮して、ジャカジャカとストロークしてみた。音がかすれない。狙った弦をちゃんと弾ける。左手の動きが自然で、まるで最初からこう持つべきだったみたいだ。
「なんでこんなに違うん!?」
「利き手やけんや。利き手の方が器用やし、細かい動きができるやろ? ストロークは細かいコントロールが要るけん、利き手でやった方がええんや」
「じゃあうち、一週間ずっと反対の手で弾いとったん!?」
「そういうことやな」
「えー! もったいない! 一週間返して!」
「無理言わんといて」
祖父は笑いながら、パソコンを開いた。
「かんちゃん、こっち来てみぃ。ポールの写真、もっと見せたるけん」
*
画面に次々とポール・マッカートニーの写真が映し出された。
エド・サリバン・ショーに出演した若き日のポール。マッシュルームカットの髪型で、キラキラした目をしている。アビイ・ロードのジャケット撮影の時のポール。裸足で横断歩道を渡っている。そして様々な時代のライブで、ベースを弾くポールの姿。
「この人、なんかカッコいいなあ」
寛奈は画面に顔を近づけた。
「顔もカッコいいし、なんか……優しそう?…あ、でもお髭がない方が好きやな」
「ポールはな、バンドのまとめ役でもあったんや。ジョン・レノンっていう相棒がおってな、二人で曲を作りまくったんや。レノン=マッカートニーいうて、作詞作曲のクレジットは全部二人の連名やったんやで」
「へー、仲良しやったん?」
「まあ……仲良しいうか、ライバルいうか、親友いうか……複雑やな」
「なにそれ、よくわからん」
「大人になったらわかるわ」
祖父は少し遠い目をした。寛奈にはその表情の意味がよくわからなかったが、なんとなく大事なことを言っているような気がした。
「で、このポールって人、ギター上手いん?」
「上手いなんてもんやない。天才や」
「天才!? どれくらい天才なん?」
祖父は腕を組んで、うーんと考え込んだ。
「ビートルズの曲は全部で200曲くらいあるんやけどな、そのうち70曲以上はポールが作っとる。ビートルズが終わってからも作ってるから、多分1000曲は超えてるはずや。それに、ベースもギターもピアノも何でも弾けるし、歌も上手い。作曲も天才的や。しかもな、まだ現役やで」
「えっ、まだ生きとるん!?」
「生きとるわ! なんでそんな驚くんや!」
「だって恐竜の時代の人やろ?」
「違うわ! さっき恐竜おらんて言うたやろ!」
寛奈はケラケラ笑った。祖父をからかうのが楽しくて仕方ない。
*
「あ、おじいちゃん、この写真!」
寛奈がふと、ある写真で手を止めた。
「このギター、今うちが持っとるのと同じやない?」
写真の中のポールは、蜂蜜色のアコースティックギターを抱えていた。しかも、逆向きに。
「よう気づいたな。そうや、これがエピフォンのテキサンや。ポールが愛用しとったギターの一つでな」
「えー! 同じ!? うちとポール、同じギター持っとるん!?」
「同じ型やな。わしもポールに憧れて買うたんや」
「おじいちゃんもポールのファンやったん?」
「当たり前や。ビートルズファンでポールのファンやない人間なんかおらん」
「えー、そうなん? じゃあ世界中の人がポールのファンなん?」
「まあ……そういうても過言やないな」
祖父は誇らしげに頷いた。
「このテキサンでな、ポールは『Yesterday』いう曲を作ったんや」
「イエスタデイ? あー、知っとる! ♪イエスタデー、オールマイトラボーシームソーファラウェー……」
寛奈は記憶をたどりながら歌い出した。英語の発音はめちゃくちゃだが、メロディーはちゃんと覚えている。
「おお、知っとるんか!」
「車で聞いたの覚えとる。好きな曲や」
「そうか、そうか」
祖父は嬉しそうに目を細めた。
「その曲がな、このギターから生まれたんや。ポールが朝起きた時に、夢の中で聞いたメロディーを忘れんうちに、枕元にあったこのテキサンで弾いて作ったんやと」
「えー! 夢の中で!? すごい!」
寛奈は自分の手の中にあるテキサンを見つめた。ポール・マッカートニーと同じギター。ポール・マッカートニーと同じ左利き。そして、このギターからあの有名な曲が生まれた。
「逆さまにしとんのも同じや……」
寛奈は小さくつぶやいた。胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
*
その日、寛奈は祖父にいくつかビートルズの曲を教わった。
まだ素早くコードは押さえられない。指が短くて届かないところもある。でも、簡単なストロークパターンを覚えて、『Love Me Do』のイントロを真似してみた。
「ジャーン、ジャーン、ジャンジャカジャン」
左手でピックを持つと、右手の時とは全く違って、音が自然に響く。
「おじいちゃん、聞いて聞いて!」
「おお、ええ感じやないか」
「でしょ!? うち、才能あるかも!」
「すぐ、調子に乗る」
「えー、褒めてよー」
祖父は呆れたように笑いながらも、優しい目で孫を見つめた。
「かんちゃん、才能はあると思うで。でもな、才能だけやうまくならんのや」
「えー、じゃあ何がいるん?」
「練習や。毎日の練習。ポールかてな、何千時間、何万時間と練習したけん、あんなに上手くなったんや」
「何万時間!? それ何年?」
「計算してみぃ」
「えーと……」
寛奈は指を折りながら考え始めたが、すぐに諦めた。
「わからん! 算数苦手やもん!」
「あらら」
祖父は苦笑いした。
*
日が暮れ始めた頃、寛奈は帰り支度を始めた。
「おじいちゃん、また明日も来ていい?」
「もちろんや。いつでもおいでや」
「やった!」
寛奈はギターをケースにしまいながら、ふと真顔になった。
「ねえ、おじいちゃん」
「なんや?」
「うち、ポール・マッカートニーみたいになれるかな?」
祖父は少し黙って、それから静かに微笑んだ。
「なれるなれる。でもな、かんちゃん」
「うん?」
「ポールが本当にすごいのは、ギターだけやないんよ」
「え、そうなん?」
「ベースっていう楽器も弾くんや」
「ベース?」
「ギターより弦が太くて、音が低い楽器や。バンドの土台を支える、縁の下の力持ちみたいな楽器やな。ポールはビートルズではベーシストとしても活躍したんや」
「へぇ……ベースか……」
寛奈はその言葉を心の中で繰り返した。ベース。土台。縁の下の力持ち。
「いつか弾いてみたいなぁ……」
「そうか。まずはギターを覚えてからやな」
「うん!」
寛奈は元気よく頷いた。そして、ギターケースを背負いながら、ふとある考えが浮かんだ。
「ねえおじいちゃん、ポールって、左利きの神様みたいやね」
「神様?」
「だって、左利きでもこんなにすごくなれるって教えてくれとるやん。うちも左利きやけん、ポールがおってくれて嬉しいっていうか……なんていうか……」
寛奈はうまく言葉にできなくて、頭を掻いた。
「まあ、とにかく、ポールってすごい! ってことや!」
祖父は孫の頭をぽんぽんと撫でた。
「かんちゃんがポール・マッカートニーを超える日を、じいちゃんは楽しみにしとるけんな」
「えー、超えられるかなあ」
「なに弱気なこと言うとんや。さっき才能あるって自分で言うとったやろ」
「あ、そうやった! うち天才やもんね!」
「ほら、やっぱりすぐ調子に乗る」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
家に帰る道すがら、寛奈の頭の中ではビートルズのメロディーが鳴り響いていた。
『Yesterday』、『Love Me Do』、そして父が車の中でよく聴いていた曲たち。今まではただのBGMだったそれらの曲が、急に特別なものに感じられる。
(ポール・マッカートニー……)
寛奈は空を見上げた。夕焼けがオレンジ色に染まっている。
(うちと同じ左利き。うちと同じギター。逆さまに持って、世界で一番有名になった人)
胸の奥がぽかぽかと温かい。なんだか、自分にもできるような気がしてきた。
*
その夜、寛奈は家族に興奮気味に報告した。
「お父さん、お母さん、うちポール・マッカートニーみたいになりたい!」
父親はテレビから目を離して、眉を上げた。
「ポール・マッカートニー? また古いなあ。今どき小学生でビートルズって」
「古くないもん! おじいちゃんが言うとったけど、まだ現役なんやで!」
母親がキッチンから顔を出した。
「ポール・マッカートニーって、確かもう八十歳くらいやない?」
「えっ、そんなにおじいちゃんなん!?」
「おじいちゃんよりおじいちゃんやで」
両親は顔を見合わせて苦笑いした。でも、寛奈の目のキラキラした輝きを見て、何か特別なことが起こっているのを感じ取っていた。
「まあ、目標があるのはええことやね」
「うん! うち、頑張る!」
寛奈は自分の部屋に駆け込むと、祖父に借りたギターをケースから出して、また弾き始めた。
「ジャーン、ジャーン……」
まだ簡単なコードしか弾けない。でも、左手でストロークするたびに、体の奥から喜びが湧いてくる。
ベッドの横に貼った、今日祖父にもらったビートルズのポスター。その中で、ポール・マッカートニーがベースを構えて微笑んでいる。
「いつか絶対、ポールみたいになるけんね」
寛奈はポスターに向かって宣言した。
祖父が寛奈に与えてくれた音楽との出会い。そして、運命的なポール・マッカートニーとの出会い。
左利きの小さな女の子の人生が、この日から大きく動き出そうとしていた。
*
――それから六年後、光月寛奈は「ポンズ」というあだ名で、松山のライブハウスのステージに立つことになる。
左手で持ったピックでベースを弾きながら。
でも、それはまだ先の話――。
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