境界線上の、光の永遠 〜透明な孤独と、静かな座標〜

マッグロウ

日差しの屈折と、秘密の輪郭

第1話  憧れは、古書と珈琲の匂い

 私の居場所は、いつも文学部の部室の、一番奥の窓際の席だった。


 そこは校舎の三階の隅に位置し、世界から切り離された、久遠くおん しずかだけの静謐せいひつな領域だった。窓ガラスには、過去の生徒たちの指紋や、過ぎ去った季節のかすかな傷跡が、薄い膜のように貼り付いている。私はその不透明なガラスを、外界の喧騒けんそうと、私の内面との曖昧な境界線として認識していた。


 昼下がり、太陽は真上から傾き、午後の日差しが斜めに差し込んでくる。その光は強すぎず、熱すぎず、空気中に漂う微細なほこりを捕らえて、金色の粒子へと昇華させた。その光のフィルタリングされた中で、私は古びたハードカバーに視線を落とし続けた。ページをめくるたび、紙の微かな摩擦音と、古いインクの匂いだけが、この空間を支配する。本に没頭している間、私は私という存在の重さから解放され、この世界からも、そして私自身の十七歳という未完成な時代からも、消えてしまえるような永遠の無垢の中にいるような気がしていた。それは、私にとって一種の精神的な亡命だった。


 その静寂を、優雅な音階のように、予測不能なタイミングで破るのが、いつも霧島きりしま先生の声だった。


久遠くおんさん。またそんなところで読書に夢中になって。もう部活の時間よ。」


 教師という職務を完璧にこなす、文学部顧問の霧島きりしま かえで先生。彼女の声音は、ガラスに触れるような、どこか冷たさと透明感をあわせ持っている。その澄んだ音の振動は、私の耳の奥の、感情の最も深い場所で、静かに、そして長く共鳴する。その共鳴は、私の心の表面に、かすかな波紋を広げ、静かで澄んだ私を、ゆっくりと動揺させていく。


 先生は二十代後半だろうか。常にゆったりとした、それでいて知的な自制を感じさせるアイボリーのブラウスと、深いグリーンのロングスカートに身を包んでいる。その装いは、まるで古典文学の一節のように、完璧な調和を保っていた。教卓に立つ彼女の横顔は、その輪郭の一つ一つが、無駄な感情を一切排した、厳密な幾何学きかがくの線で描かれた完成された美だった。それは、私のような未熟で揺らぎやすい人間には、決して到達し得ない、理想の座標のように、遠く、手の届かない場所にあった。


 先生の周りには、いつも古書と、わずかに香る苦い珈琲の匂いが、薄いもやのように漂っていた。それは、私という文学少女が最もかれる、知性と静謐せいひつの香りであり、私にとってそれは、先生自身の秘密の匂いのように感じられた。私は大きく息を吸い込むことで、先生の存在の断片を、まるで禁じられた儀式のように、許されない形で体内に取り込んでいるような罪深い錯覚を覚えた。この香りは、私の心に深く焼き付いた、先生という存在の最初の署名だった。


 私は反射的に顔を上げる。この一連の動作は、もう私にとって、あらがいようのない儀式となっていた。逃れられない引力のように、彼女へと視線が引き寄せられる。先生は手にした薄いファイルを軽く叩きながら、私に向かって優しい――しかし、決して踏み込ませない、計算された距離感のある――微笑みを投げかけた。


 その瞬間、私の胸の奥、普段は雪解け水のように静まり返っている、私の感情の源泉で眠っていた何かが、さざ波のように、しかし確実な熱を伴って、高鳴るのを感じた。心臓の拍動は、まるで部室の静寂にあらがうかのように、不規則で強いリズムを刻み始める。それは「恋」という、あまりに世俗的で単純な言葉で定義するには、あまりに重く、深すぎる情熱だった。それは、私の澄んだ心を、不透明な熱で満たし、倫理の境界線を溶かし始めていた。


 先生が教卓に戻り、淡々と部員たちに指示を出す。部室は徐々に生徒たちの話し声で賑わい始めるが、私の意識は常に、先生という一点に固定されていた。彼女が、ファイルをめくる繊細な指先。その皮膚の白さ。そこに宿る知性は、私には触れることを許されない、憧れの核心だった。私は自分の指先を見つめる。それはまだ、先生の指先に比べて、未熟で頼りない。


 ふと、先生と目が合った。その距離、わずか数メートル。周囲のざわめきが一瞬で遠のき、私たちは、二人きりの静寂を共有した。先生は私から視線をらさないまま、口元をかすかに緩める。その瞳は、深遠な文学作品の解説を読み解くように、私の内側を見透かしているようで、あるいは、何も知らない無垢のようでもあった。その曖昧で不可解な表情が、私の胸の高鳴りをさらに増幅させた。


 私は慌てて視線を、開いたままのページに戻す。体温が急速に上昇し、耳の奥まで熱が伝わるのを感じた。読んでいるはずの文字は、頭の中で一切の意味をなさず、ただの抽象的な記号の羅列と化していた。指先が、本の端をつかむ力が、かすかに震えるほど強くなる。手のひらには、本の紙の質感と共に、抑えきれない情熱の湿り気がにじんでいた。


(今、先生は、私を見た。あの、私にだけ見せるような、秘密めいた微笑みを。)


 私の心の中は、静かな部室とは裏腹に、激しく荒れ狂う詩のようだった。それは決して言葉にできない、私だけの透き通った痛み。窓から差し込む日差しは、単なる物理的な光ではない。それは先生という強大な憧憬しょうけいに触れることで、私の世界に対する認識を、幾重いくえにも屈折させ、歪ませていた。


 そして、その光の屈折こそが、私と先生を結ぶ、曖昧で切ない境界線なのだと、この時の私は、漠然としながらも、永遠の予感とともに理解していた。私は、先生という理想の輪郭を、自分の心というキャンバスの余白に、静かに、しかし鮮烈な色彩で描き始めたのだ。このまま、誰にも知られず、私だけの秘密の物語として、この熱を久遠くおんに保ち続けるために。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

イメージ置いておりますので、よろしければお立ち寄り下さいませ。

【近況ノート】

https://kakuyomu.jp/users/masamomo/news/822139841067832472

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る