第4章: 止まった時間
健三はカップを片付けながら、まるで天気の話をしているかのように語り始めた。
「地震の瞬間、澄子を抱きしめてね。『時間を止めてくれ』って祈ったんだ。
馬鹿みたいだろ?でも、本当に止まった。霊道の囁きが、代償を求めてな」
彼は冷蔵庫の扉を開ける。牛乳パックは昨日と同じ位置、同じ量。
「外は二十年進んだ。街は変わり、人の顔も変わった。だが、ここはあの日の午後三時十五分。
澄子が味噌汁を温めていた時間。入って招かれ、口にした者の寿命を吸い取って、建物は保たれる」
塔子は喉を鳴らす。
「奥さん…死んだんですよね?」
健三は首を振る。
「死んだよ。崩れた壁の下で息が絶えた。でも、夜になると戻ってくる。影みたいに」 ――カタン。
どこかでドアが閉まる音。
塔子は窓に駆け寄る。外は真夜中のはずなのに、夕暮れの茜色が窓に張り付いたかのようにひろがる。
団地はさらに朽ち、屋上から蔓草が垂れ、街灯は一本残らず消えている。
遠くの高速道路は、車の光も途絶え、死んだ血管のようだ。
彼女は振り返る。壁の鏡に、自分の姿が映る。――老けている。髪は白く、頬は落ち、目は窪んでいる。
「嘘…!」
鏡に触れる。指先が冷たい。
健三が背後で笑う。
「鏡は正直だ。ここでは時間が逆流する。君はもう、二十年分老けた」
澄子の声が、天井から降ってくる。
「一緒にいよう、塔子ちゃん」
甘く、粘つく声――。
塔子はドアへ突進する。ノブを捻る。――開いた。
廊下へ飛び出す。崩れた階段。鉄筋が牙を剥く。一階まで駆け下りる。だが、出口はない。
代わりに、また五階の踊り場。501号室のドアが、開いたまま待っている。
もう一度下りる。同じ階段。同じ欠けた手すり。同じ血痕のような錆。何度繰り返しても、五階に戻る。
無限のループ。
健三が廊下の奥から現れる。肌はさらに若返り、二十代の顔立ちに近づいている。
「君もここに残るんだ」
笑顔は裂け、歯が異様に長く伸びている。
「澄子が寂しがる。家族が増えるよ」
塔子は階段を蹴る。壁を殴る。指から血が滴る。血は床に落ちるが、すぐに吸い込まれ、跡形もなく消える。 ――カチッ。
時計の針が、また逆回転する。午後三時十三分。健三の声が、背後で囁く。
「もうすぐ、味噌汁の時間だ」
廊下の奥、崩落した部屋から、誰かが這い出してくる。澄子の影。腕は折れ曲がり、首は不自然に傾いている。
それでも、笑顔で手を差し伸べる。
「塔子ちゃん、お帰り」
その影の傍らに、ぼんやりとした男の姿が浮かぶ。
父親の明だ。
体は透け、輪郭が揺らぐ。彼は自分の体がこの世にないことを理解せず、ただ塔子を助けようと彷徨う。
「塔子…日記を…本棚の…」
声は風のように薄く、塔子の耳にだけ届く。
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