頑張れた理由(わけ)
山奥一登
第1話
新薬の実用化までにはいくつかのプロセスを要する。
1.有効成分を見つける基礎研究
2.人間ではなく動物などでその有効性を試す非臨床試験
3.人間で試す臨床試験
4.政府による承認申請
5.製薬所による製造と販売
これらのプロセス全てをクリアするのに早くて8年。長いと15年以上かかることもある。
「これもダメか……」
すっかりぎちぎちになった棚に、また一つ失敗例のファイルが追加された。
現在僕が取り組んでいるのは1の基礎研究プロセスだ。これは平均、2~3年で完了する。しかし、僕はそのプロセスでかれこれもう6年足踏みしている。
未だ有効成分の発見には至っていない。
目が覚めて枕元の時計を見ると、アラームが鳴る数分前だった。アラームが鳴る前に起きるようすっかり体が覚えてしまったみたいだ。もっとも、隣で寝ている妻は一度寝ると中々起きない(地震などがあっても気づかず寝ているからたまに心配になる)から、そういう気遣いは不要かもしれないけど。
目を擦り、眼鏡をかけて最初に妻の寝顔を見る。……いつも通り、微笑みを浮かべて幸せそうに眠っていた。その寝顔を見ていると、こちらもつられて頬がゆるんでしまう。
「まだ寝足りない」と駄々をこねる体に鞭を打ち、そっとベッドから出て、泥棒のようにこっそりと寝室を出た。
1時間半かけて家事を済ませる。家事にはようやく慣れてきて、当初に比べると手際も良くなったと思う。ただ、料理のレパートリーを増やすことだけは中々できずにいた。特に朝食は難しい。毎回悩むのだが、結局同じメニューに落ち着いてしまう。以前大失敗した卵焼きがトラウマになっているのもあるかもしれない。
「おはよう!」
深く眠れるうえに寝起きもいい妻は、起床してから時間が経過している僕よりずっと元気だ。
「おはよう。……おはよう」
妻と、その大きくなったお腹に挨拶を返した。
「いつも言ってるけど、別に家事は任せてくれても大丈夫だよ? 私は仕事休んでむしろ体力も時間も余ってるくらいなんだから」
妻は服が干してあるベランダを見てから言った。それに僕は首を振る。
「何かあるといけないし、いつもは仕事で中々家事できないから。こういう時くらいは僕にやらせてよ」
「うーん……」
妻は未だ何か言いたげだったが、「無理はしないでね」と折れてくれた。聞き分けが良くて助かる。
「ご飯食べようか」
いつも妻の座っている椅子を引くと、「そんなに気使わなくていいよ」と言いながらも「お姫様になった気分で悪くないけど」と満更でもなさそうだった。
「今日も美味しそう」
「いつもと変わらないベーコンエッグとサラダだよ」
「美味しいものは何回食べても美味しいよ」
「そういうもの?」
「そういうものだよ。いただきます」
「いただきます」
メニューの変わらない朝食も本当に美味しそうに食べてくれる妻を見ると、ついついこのままでもいいかなと思ってしまう。
朝食を食べ終えると、妻は強引に流しに立ち、皿洗いを始めてしまう。申し訳ない気持ちになりながらも、お願いして身支度をする。
どうせ職場に着いたらすぐに脱ぐのに、と思いながら毎日渋々ネクタイを締めている。
「じゃあ、行ってくる」
妻に言ってから、お腹に耳を当ててもう一度「行ってきます」と囁いた。すると、ぽこ、と振動があった。
「この子も行ってらっしゃいって言ってるんだよ」
優しい表情で妻がお腹を擦った。
「そうかもしれない」
二人で笑い合ってから家を出た。
出産予定日は来週だが、妻の容態は落ち着いているようだった。このまま母子ともに何事もなく産まれてくれれば幸いだ。そしてその先も、今みたいに笑っていてくれればそれだけでいい。
4月になって数日が経過していた。見る見るうちに日の出が早くなり、早朝の肌寒さもなくなりつつある。久しぶりに車の暖房を切って、職場へと走らせた。
職場には車で十分せずに着くことができる。もうすぐ夜勤が終わるのであろうけだるげな警備員に所員証を見せて入場ゲートを抜け、駐車場に車を停める。その後自然に囲まれた広大な敷地を5分ほど歩き、ロビーのある本館へ向かう。ここにある更衣室でさっき着たばかりのスーツを脱ぎ、白衣に着替える。本館の奥へと進むと研究棟つながる消毒室があり、そこで消毒、滅菌をしてから奥へ奥へと進んでいく。この早い時間、研究棟に人はいない。自分の靴の音が異様なほど大きく反響する廊下を進み続け、階段を登る。昼間も誰も近寄らない、所内の最西端、二階に僕の研究室がある。
電気をつけ、すぐに室内の温度湿度を確認する。……変化はない。その後メールをチェックするが、これにも変化はない。それだけ終わらせると、大量のチェックリストがプリントされたバインダーを手に、ひたすら長期実験中の成分たちの観察を行う。実験した成分に変化が起きないか、ひたすらチェックし続ける。地道な作業だけど、ほかに手段はない。
一つの成分に対して大量のチェック項目を用意して、些細な変化も見逃さないように観察する。嫌でも集中力と時間を要する作業だ。もし変化があれば次のステップに進む可能性があるのだが、変化が起きたことはない。この研究室だけでなく、世界で。
僕と同じ新薬開発技術者という肩書きは世界に多数いる。しかし、現在僕が取り組んでいる病気の研究をしているのは世界で二人だけ。発症者が少ないため後回しにされているのだ。研究には予算もかかる。発症者が少ないものより多い病気を優先するのは当然のことだ。
決められた予算、決められた人員で全ての病気を治すことはできない。
「おはようございま~す」
作業を始めて数十分後に、世界で一人だけの僕の同志であり直属の後輩がゆるい挨拶と共に出勤してきた。その小動物のような小さく線の細い体を見る度に、ちゃんと食事をしているのだろうかと心配になる。僕が挨拶を返すと、後輩は眉間にしわを寄せた。
「先輩、今日もこんな早くから出勤して……。元からですけど、最近特に酷いですよ」
何が? と僕が目で訴えると、後輩は自身の目元を指して「くま」と付け足した。僕は目元を擦る。僕は彼女の栄養不足を、彼女は僕の睡眠不足をそれぞれ心配し合っているようだった。
「僕はもう慣れてるから。後輩こそいつも早くに出勤して体調は大丈夫? 食事は摂ってる?」
「なら、私ももう慣れましたよ。食事もちゃんと食べてますっていつも言ってるじゃないですか」
後輩は会話しながらも作業の支度を手際良く進め、すぐに自分の持ち場についた。それを見て僕も再び自分の作業へと没入する。ここからしばらく、僕らは会話もせず黙々と作業を続ける。
僕らの労働時間の大半は、これまでに実験した『可能性のある成分』たちの経過観察で終わる。新薬の研究というのは本来他の研究所と連携して行うのだけど、この病気の研究をしているのは世界で僕らだけだから、いくつもの研究所で分担するような量の作業を二人でこなさなければいけない。結果、異常なまでの時間がかかる。
その後、残った僅かな時間と集中力を用いて次に試し甲斐がありそうな成分を探し、論文を作り、新しい実験をしないといけない。
必然的に労働時間は長くなり、僕も後輩も早出、残業が常態化していた。
「……先輩、もう昼過ぎですよ」
後輩の声がして我に返った。壁に立てかけてある時計は既に1時を指していた。
「ああ、ごめん。好きな時に休憩とって」
「私はもうとりましたし昼ご飯も食べました。先輩のことを言ってるんです」
「ああ、僕は大丈夫だから」
「今日もお昼抜きですか? 私の食事の心配より自分の食事の心配をしてください」
「うん。まあ僕はお昼食べないことに慣れてるから大丈夫」
そう言って再び作業へと集中した。
食事は朝と夜にちゃんと食べてるし、昼の一食くらい抜いても死にはしない。それに、もうずっとこんな生活なので慣れてしまった。
「つめたっ!」
急に頬にひんやりとした何かが当たって、驚いてしりもちをついてしまった。後輩が目の前で僕を見下ろしていた。
「勝手に会話を終わらせないでください」
後輩の声にいつもはない棘があった。……もう終わったと思って切り上げてしまったが、その後も後輩は何かを言っていたのだろう。集中するとそればかりになって周囲が見えなくなるのは僕の短所だ。
「ああ、ごめん。つい作業に集中しちゃって」
言いながら何かが当たった頬に触れた。……少し濡れていた。
「これあげるんで、栄養はちゃんと補給してください」
後輩はそう言って、手に持っていたゼリー飲料を僕に渡した。冷たい何かの正体はこれだったようだ。
「ああ、ありがとう。後でお金払うよ」
「そんなのいいですよ。飲み忘れて鞄に入れっぱなしだっただけなんで」
「そっか。ありがとう」
「気にしないでください。倒れられたら私が困るってだけなんで」
後輩はそう言いながら自分の持ち場に戻って行った。僕も頂戴したゼリー飲料をありがたく飲みながら、作業に戻った。
後輩には何かと助けられることが多い。こうやって声をかけてもらえるのもありがたいことだ。後輩が来る前は集中しすぎて時間の感覚がなくなり、朝からぶっ続けで作業し続けていたら23時になっていたこともある。それに、これだけの作業量をずっと一人でこなしていたらきっとどこかでパンクしていただろう。だから所長から「新人を一人配属させる」と言われたときは正直ホッとした。
僕が無理を言って作ったこの部署に人が配属されるなんて思ってもいなかったけど。
後輩がこの研究室に配属されたのは、僕がここを作ってから2年が経過した4月だった。人事部の人が採用されたばかりの初々しい新人を一人、僕のもとへ連れてきた。人事は後輩の名前だけを紹介してすぐに研究室を出て行った。
その日から初の後輩、そして世界で唯一の同僚となる新人はニコニコと微笑みながら僕を見上げていた。僕も小柄な方だけど、後輩はそれより更に一回り小さく、今と変わらず小動物のような柔らかい雰囲気を持っていた。
「はじめまして~。よろしくおねがいしま~す」
今も変わらないゆるい挨拶を聞いて、正直最初は不安になった。観察・実験では繊細さと精度、そしてこの職場に限って言えばスピードも必要だ。おっちょこちょいでミスをされてばかりでは監察結果に異常が出るし、のんびりマイペースでは作業が終わらない。もし実験で見落としがあったら致命傷になる可能性もある。
この子は大丈夫だろうか。
それが後輩に抱いた第一印象だった。
軽い自己紹介と部署の説明の後、作業の内容を教えつつ実践することにした。後輩はペンと小さなメモ帳を手に、最初こそニコニコ微笑みながら聞いていたのだが、昼過ぎにはその笑顔はひきつり始めていた。……薄々、その作業量の多さと過酷さに気付いたのだろう。
その後も教え続け、キリのいいところで時計を見ると定時が近づいていた。
「そろそろ定時だし、上がっていいよ」
後輩はその言葉を聞いてホッとしたように胸を撫で下ろしていた。
「続きは明日にしよう」
僕の言葉を聞いて後輩はピクリと震えて、すっかり口角だけが上がっている状態になった惰性の笑顔で尋ねてきた。
「……続きって、あとどれくらいあるんですか?」
「まだ半分くらいかな」
僕がそう言った時の後輩の顔は今でも覚えている。
「これで半分……」
僕の前で彼女が真顔になったのはその時が初めてだろう。今日だけですっかり残り僅かになったメモ帳を見て、後輩は絶望していた。その後、後輩はよたよたと帰って行った。その後ろ姿を見て、この子は長くはもたないだろうと思った。同時に、あまり期待しないように、とも。
残った経過観察を終わらせると、その日は久しぶりに日付を跨いだ。教えるとどうしても時間も労力もかかってしまう。それだけに、教えてすぐに辞められるのは勘弁してほしかった。
翌日の定時間際にようやく全ての(経過観察についてだけだけど)説明を終えると、後輩はフルマラソンを走り切った後のような疲れ切った表情をしていた。そして二冊目の中盤に突入していたメモ帳をパラパラと見直していた。
「……先輩はこの作業量をこれまで一人でやってたんですか?」
「うん。朝6時くらいに出勤すれば日付が変わる前には終わるよ」
「6時……。日付が変わる前……」
後輩は再び絶望したように、うなされるように僕の言ったことを復唱していた。
「……もちろんこれは僕がやってるだけだから。君は定時であがって大丈夫だよ」
嫌味にならないよう注意しながら言うと、後輩は「はい……」と俯きながら帰って行った。
翌日から後輩に少しずつ作業を任せるようにしていった。後輩は物覚えが良く、精度も高かった。最初のうちは質問してきたり、細かいミスをしたりもしていたけど、それでも初めてにしては上出来だったと思う。また、スピードも回数を重ねる毎に早くなり、自分の第一印象が間違っていたと分からされた。
彼女は優秀だった。
後輩が入って一週間もする頃にはかなりの作業を任せられるようになり、少しずつだけど僕が新しい実験について考える時間も確保できるようになった。が、めぼしい結果は出ておらず課題が山積みであることに変わりはない。早出残業はどうやっても避けられず、妻にはしょっちゅう体調の心配をされていた。
後輩が入って二週間が経過した頃だったと思う。僕にとって、そして後輩にとって一つの転機が訪れた。
「……先輩は今日も残業ですか?」
後輩に肩を叩かれて時計を見る。定時が近づいていた。
「うん。僕のことは気にしないであがっていいよ」
そう言うといつもは申し訳なさそうに帰り支度を始めていたのだが、その日は違った。後輩は動かずに僕をジッと見ていた。
「どうしたの?」
「先輩」
「……はい」
初めて見るくらい真剣な表情を浮かべる後輩を目の当たりにして、思わず固唾を飲んだ。次に出る言葉を待つ時間が随分長く感じた。もしかして辞めたいとか言い出すのではないか、と不安にもなった。
「この研究室に歓迎会はないんですか?」
「ぇ?」
真剣な表情のまま後輩がそう言ったので、思わず間抜けな声が出てしまった。
「何急に……」
「ないんですか?」
後輩は顔をズイと近づけてくる。妙に迫力のある目と語気に耐えられず、思わず目を逸らしながら答えた。
「いや、やってもいいけど、この研究室二人だけだよ? それに、仕事終わらせないと……」
「大丈夫です。私も手伝います。今日の分終わらせて行きましょう」
後輩はそう言って作業を再開した。対する僕はしばらく呆気に取られていた。
急な提案だし、しかもいつの間にか今日やることになっていた。
が、入ったばかりで何か思うところがあるのだろうと推測し、僕も作業を再開した。辞めたいという相談ではないことだけを願いながら。
後輩が初めて残業をしてくれたおかげで、その日はこの研究室を作ってから一番早く終わった。
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