もう戦いたくないので、薬師の卵と平穏に暮らします

マスターボヌール

第1話「英雄の代償」


北方前線は、いつも灰色だった。


空も、雪も、兵士たちの顔も。すべてが色を失った戦場で、リュウセイは一人、剣を構えていた。


「……まだ来るか」


呟きは霧に溶けて消える。眼下には敵軍の野営地が広がり、松明の明かりが蠢いている。数は百を超える。対するこちらは、たった一人。


それでも、リュウセイは動じなかった。


戦場に出て五年。彼は誰よりも多くの敵を倒し、誰よりも多くの作戦を成功させてきた。傭兵として雇われたバトラ国軍での評価は、もはや「英雄」と呼ばれるほどだった。


だが、英雄などという言葉は、リュウセイにとって何の価値もなかった。


「……始めるか」


彼は崖の上から、静かに敵陣を見下ろした。


この地形は知り尽くしている。風の向き、雪の積もり具合、敵が通るであろうルート。すべてが頭の中で計算され、罠が仕掛けられている。


リュウセイが得意としたのは、正面からの剣戟ではなく、地形を利用した戦術だった。崖を崩し、雪崩を起こし、敵を誘導して罠にかける。必要最小限の力で、最大の成果を出す。それが彼の戦い方だった。


だから今夜も、彼は一人で敵軍を食い止める。


最初の爆発音が響いたのは、夜半を過ぎた頃だった。


敵が踏んだ罠が連鎖し、雪崩が発生する。悲鳴と怒号が交錯する中、リュウセイは冷静に次の手を打つ。崖の上から岩を落とし、退路を塞ぐ。混乱する敵兵に向けて、短弓で要所を狙撃する。


彼は決して無駄に命を奪わなかった。指揮官を狙い、補給路を断ち、敵の士気を削ぐ。それだけで、百の兵は烏合の衆になる。


夜明けまでに、敵軍は撤退した。


バトラ国軍の援軍が到着した時、リュウセイは崖の上で一人、剣を拭いていた。


「……リュウセイ!無事だったか!」


駆け寄ってきた部下たちの顔は、安堵と驚嘆に満ちていた。


「報告します。敵軍は撤退。こちらの被害はゼロです」


「また一人で……!お前は本当に化け物だな!」


「化け物か。まあ、否定はしない」


リュウセイは表情を変えずに答えた。彼は褒め言葉にも、称賛にも興味がなかった。ただ、任務を遂行し、生き延びる。それだけが彼の目的だった。


「上官殿がお呼びだ。帰還したらすぐに本営へ来るように、とのことだ」


「……分かった」


その言葉に、リュウセイの表情が僅かに曇った。


上官——バトラ国軍北方司令官、ヴァルツ・グレイヴ。


彼はリュウセイを雇い入れた人物であり、同時に、最も信用できない男でもあった。


本営に戻ったリュウセイを待っていたのは、称賛ではなく、冷たい視線だった。


「よくやったな、リュウセイ」


ヴァルツは薄く笑いながら、書類に目を落としていた。四十代半ばの男で、整った顔立ちと落ち着いた物腰が特徴だが、その目は常に何かを値踏みしているように見えた。


「今回の作戦で、敵軍の進軍を二週間は遅らせることができる。お前の功績は、国王陛下にも報告する」


「……恐縮です」


リュウセイは淡々と答えた。彼は称賛よりも、この男の次の言葉を警戒していた。


「だがな、リュウセイ」


ヴァルツの声音が変わった。


「お前のやり方は、少々度が過ぎる」


「……どういう意味ですか」


「独断専行が多すぎる。作戦の詳細を報告せず、命令系統を無視し、勝手に動く。それでは軍の秩序が保てん」


リュウセイは黙っていた。彼の戦い方は、常に単独行動だった。それが最も効率的であり、無駄な犠牲を出さない方法だったからだ。


「それに」


ヴァルツは書類をリュウセイの前に投げた。


「この報告書によれば、お前は敵の補給物資を破壊した際、民間人の荷馬車も巻き添えにしたそうだな」


「……それは誤解です。民間人はいませんでした」


「証拠はあるのか?」


「……」


「証拠がなければ、報告書が真実だ」


ヴァルツの言葉に、リュウセイは拳を握りしめた。彼は理解した。これは罠だ。最初から、自分を陥れるための罠だった。


「お前のような傭兵は便利だが、扱いにくい。国軍としては、もう少し従順な兵が欲しいのだ」


「……つまり、用済みということですか」


「そうだ」


ヴァルツは冷たく笑った。


「お前は明日、軍法会議にかけられる。罪状は、民間人の殺害、命令違反、そして……国家反逆罪だ」


「反逆罪……?」


「お前が敵国と内通していた証拠がある。部下からの証言もある。お前はスパイだったのだ」


「ふざけるな!」


リュウセイの声が、初めて感情を帯びた。


「俺は五年間、この国のために戦ってきた!それを今更、スパイだと?」


「おー、こわいこわい。証拠があれば、真実など関係ない」


ヴァルツは立ち上がり、リュウセイを見下ろした。


「お前のような英雄は、時に国にとって脅威になる。民衆が軍よりもお前を信じ始めたら、それは困るのだ。だから、お前は消えてもらう」


「……」


「明日の朝、お前は処刑される。異論は認めない」


ヴァルツは護衛兵に合図し、リュウセイを拘束するよう命じた。


兵士たちが剣を抜き、リュウセイを囲む。だが、彼は抵抗しなかった。ここで暴れても、無駄だと分かっていたからだ。


「……くそが」


リュウセイは静かに答え、手枷をかけられた。


護衛兵に連行され、牢獄へと向かう途中、彼は一つだけ決意した。


——ここで死ぬつもりはない。


夜が深まると、牢獄の見張りは手薄になった。


リュウセイは手枷を外すと、静かに鉄格子を観察した。錆びた古い牢だ。力ずくで壊すのは難しいが、鍵穴を細工すれば開けられる。


懐から小さな針金を取り出す。傭兵として生きるうちに、こうした技術も身につけていた。


数分後、鉄格子が音もなく開いた。


廊下に出ると、見張りの兵士が二人、居眠りをしている。リュウセイは彼らを気絶させ、外套と武器を奪った。


「……悪いな」


小さく呟き、彼は本営を後にした。


雪が降り始めていた。


リュウセイは北方の雪山を目指した。国境を越えれば、バトラ国の追っ手も容易には追ってこれない。


だが、雪山越えは容易ではなかった。吹雪が視界を奪い、寒さが体力を削っていく。食料も水も限られている。


それでも、リュウセイは歩き続けた。


「……戦場で死ぬより、自由に生きたい」


その言葉だけが、彼を前に進ませた。


五年間、彼は国のために戦ってきた。命令に従い、敵を倒し、英雄と呼ばれた。


だが、その先に待っていたのは、裏切りと処刑だった。


「……もう、誰のためにも戦わない」


リュウセイは雪の中で呟いた。


「次は、俺自身のために生きる」


その決意を胸に、彼は国境を越えた。


吹雪の向こうに、かすかな灯りが見えた


そして——運命の出会いが、すぐそこまで迫っていた。


---


**第1話 完**

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