第10話 嬉しくないわけがないぞ!
玄関の扉を開くと、ふわふわのひつじが宙に浮かびながら笑っていた。
「おかえり萌音!」
「……ただいま」
うつむいて靴を脱ぎながらつぶやく。「ただいま」なんて口にしたのは何年ぶりだろう。
フローリングに上ると、もふもふな体が頭の上に乗っかった。じんわりとした温もりが頭頂部に広がる。もしかするとわたあめは寂しかったのかもしれない。頭の上に手を伸ばしてもふもふな体を優しく撫でた。
「一人で大丈夫だった?」
「心配してくれるのか! やっぱり萌音は優しいな!」
「……別に優しくない」
ため息をついていると、頭の上からニコニコしたひつじの顔がのぞきこんできた。
「学校はどうだったんだ。楽しかったか?」
「いつも通りだよ」
わたあめに学校でのことを話すつもりはない。扉を開いてリビングに入ると、わたあめは不服そうな顔で頭から飛び立って行った。木に引っかかった風船みたいに天井で揺れながら、私を見下ろしている。
「いつも通りだと言われても分からないぞ」
「分からなくていい」
「大きくなった萌音のことをもっと知りたいんだ」
わたあめの高度が少しずつ落ちてくる。やがて月面みたいな緩やかさで机の上に着陸した。かと思えば短い手足を動かして、椅子に鞄を下ろしていた私にとことこ歩いてきた。いちいち仕草が可愛いのは卑怯だと思う。
「教えてくれ萌音」
「……でも別に聞いても楽しくない」
「萌音のことを知れるだけで私は楽しいぞ」
昔の私はわたあめに辛いこと楽しいこと何でも話していた。最後には辛いことばかりだったけど、それでもわたあめは私の話を黙って聞いてくれた。心が少しでも軽くなるようにと励ましてくれたのだ。
わだかまりが全くないわけじゃないけど、それでもわたあめには辛く当たりたくない。
「じゃあ話すけど、その前に一緒におやつ食べよう」
学校帰りに寄ったコンビニの袋を机に置く。わたあめの好物はレタスだけど、甘いものも同じくらい好きだ。みためがお菓子のわたあめに似てるからなのかもしれないと、昔の私は勝手に納得していた。
「ありがとう萌音!」
机の上をぴょんぴょんバウンドして喜んでいる。いくら何でもオーバーリアクションではないだろうか。
「そんなに嬉しいの?」
椅子に座って問いかけると、もふもふの体がふわりと顔の高さまで浮き上がってきた。
「萌音が私のために買ってきてくれたんだ。嬉しくないわけがないぞ!」
ほんの一瞬だけ息が詰まった。
私は、喜びとか楽しさとか、そういう明るい感情とは無縁であるべき人間だ。分かっているから表情も心も動かさない。けどもしも何もかもを許されていたのなら、私もわたあめと一緒に笑っていたのだろう。
顔を伏せて、袋から板チョコを二つ取り出す。
「チョコレートか!」
「私のも食べていいよ」
「いいや、私は萌音と二人で食べたいぞ」
「……そう。じゃあ一緒に食べよう」
板チョコの包装を破ってわたあめの前に置くと、目に見えない力で器用に銀紙を剥きはじめた。
「それってどうやってるの?」
「この体に宿った『希望の力』を使っているんだ。もちろん意識には影響ない」
「……希望の力」
アンチマターは絶望と狂気をまき散らす怪物だ。対になる魔法少女とその力の源であるわたあめが「希望」を纏っているのは、さほど不自然には思えない。今の私にはまるで不釣り合いな言葉ではあるけど。
「萌音のチョコも開けてやろうか?」
「いいよ。自分でやる」
剥き出しにしたチョコを口に運ぶと、わたあめも小さな口で食べはじめた。よほどおいしいのだろう。ひつじの顔が幸せそうに笑っている。私はそれを無表情でみつめながら、硬いチョコを食べ進めた。
「……最近は夏空って女がよく私に絡んでくる」
「どんな子なんだ?」
わたあめはチョコレートを口の周りにつけたまま問いかけてきた。
「人懐っこい犬みたいな奴だよ。拒んでもしつこく話しかけてくる。今日も鈴谷と、……明るい性格の委員長なんだけど、そいつと二人で『放課後一緒にジョギングしよう』とか意味不明なこと言ってくるし」
「面白い子なんだな」
「面白くないよ。ここ最近ずっと迷惑してる」
夏空が現れるまでは平穏な毎日が続いていた。なのにあいつのせいで脅かされてばかりだ。
「……まぁ悪い奴ではないのかもしれないけど」
「いい奴だと思ってるのか?」
「そういうわけではないけど」
夏空の在り方を否定も肯定もしていない。私にとってはマイナスでも周りにはプラスなのだろう。夏空がいなければ命を落としていたかもしれない女の子もいるのだ。
「とにかく私が言いたいのは、友達はいないけど話す相手くらいはいるってこと」
「そうみたいだな」
「だから心配しなくていい」
わたあめは言葉を返さなかった。嬉しそうな顔でチョコレートと一緒にふわふわ浮いているだけだ。ファンシーな光景だなと思う。これで背景がチョコレートの山やゼリーの平原なら、完全に童話の世界だった。
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