第14話 今日はないんだヘッドホン
翌日の空は灰色だった。いつも通りバス停のベンチで英単語帳に目を通していると、明るい声が響いてくる。
「おはよう白峰!」
「……うん」
夏空は今日も当たり前のように隣に座ってきた。「友達」になったのだから自然なのかもしれない。まだ完全に夏空を受け入れたわけじゃないし、これからも心を許すつもりはないけど。
でもそんなことはお構いなしに、夏空はいつも通りの笑顔で語りかけてくる。
「今日の放課後にリレーの練習するんだけど白峰も参加するよね」
「……初耳だけど」
「クラスラインでそういう話になったんだ。みんなやる気で私が提案するまでもなかった」
男子はやる気ありそうな顔立ちだったし、鈴谷も行事ごとは本気で楽しむタイプだ。驚くことではない。他の五人が全員参加するのなら、やらないわけにはいかないのだろう。
私も本番で足を引っ張りたくない。わたあめをがっかりさせたくないし。
「……どうせ拒否してもしつこく誘ってくるんでしょ」
「私のことよく分かってるね!」
なぜ満面の笑みなのか。相変わらず変な奴だ。
顔をそらして鞄に目を向ける。いつもの癖でヘッドホンを取り出しそうになったけど、今日は持ってきていない。少し前までは退廃を尊んでいた。でも今はわたあめも、ついでに夏空もいる。破滅を願うほど辛くはない。
何も取り出さず鞄を閉じた私に何を思ったのか、夏空は弾むような声で言った。
「今日はないんだヘッドホン」
「忘れただけ」
ため息交じりにつぶやく。何となく夏空には素直になりたくない。
「もしかして私と話したくなったの?」とか悪意なくからかってきそうだ。
「そうなんだ。じゃあ今日はたくさん話そうね」
何の前触れもなく手を握ってきた。相変わらず夏空の高い体温には慣れない。慣れたいとも思わない。この太陽みたいな笑顔は私にはまぶしすぎる。
でも好きで隣にいるのなら勝手にすればいい。
*
放課後の教室、私は既に帰り支度を終えていた。でも席は立たず、部活に向かうクラスメイト達の背中を無言で見送る。奇妙な感覚だ。いつもなら私が一番に教室を出ていくところだった。
人の疎らになった教室は、休日の昼下がりみたいな穏やかな空気に満ちていた。グラウンドに目を向けると、野球部やサッカー部の練習がぱらぱらとはじまっている。耳を澄ませばどこかから楽器の音まで響いてきた。
「お待たせ。委員長の仕事終わったよ」
振り向くと鈴谷が微笑んでいた。リレーの男子たちも教室の入り口付近で固まっている。でも夏空はまだいない。日直としてゴミを捨てに行っているらしいけど、やけに遅い。もしかして人助けでもしているのだろうか。
「夏空は?」
「そういえば。どうしたんだろうね?」
鈴谷も知らないみたいだ。ここで待つのもいいけど、今は勉強をする気分ではなかった。六時間目が数学だったせいかもしれない。脳の疲労と肩こりが著しいのだ。右肩に手を当てながら立ち上がる。
「探してくる」
「ふふ。いってらっしゃい」
鈴谷は微笑ましいものをみるみたいな目をしていた。
「……探すくらい別に普通でしょ。待たされてるんだから」
「そうだね」
文句を言っても笑うのをやめない。私はため息をついて教室を出た。
ゴミ捨て場は駐輪場の奥にある。私は昇降口に向かって夏空の下駄箱を確認した。中に運動靴はない。私も靴を履き替えて外に出た。正面の駐輪場に生徒はもうほとんどいない。自転車の数も少なかった。
夏空を探しながら駐輪場を歩いていると、ほうきで掃くような音が聞こえてきた。音の方向に向かうと、夏空がゴミ掃除をしていた。その前では申し訳なさそうな顔をした女子が、ちりとりを片手にしゃがみ込んでいる。
その傍らにはぶちまけられたと思しきゴミ袋が置いてあった。というのも地面に落ちているゴミの量が尋常ではないのだ。少なくとも自然に発生することはあり得ない量の紙くずが転がっていた。
「夏空」
歩きながら声をかけると、嬉しそうな顔が振り向いた。
「白峰! どうしたの?」
「みんな待ってる」
「あっ。ごめん先に行ってて。もう少しかかりそう」
みれば分かる。でも私を体育祭に巻き込んだ張本人が遅れてくるなんて許せない。
夏空の隣にあるゴミ袋に手を伸ばした。持ち上げてゴミ捨て場へ向かう。
「白峰……?」
「手を止めないで。早く終わらせて」
ため息交じりに言い残して歩いていく。どうせすぐには終わらないだろうから、私も掃除に参加すべきだ。所定の位置にゴミ袋を置いてから、掃除用具入れを開く。そこからほうきとちりとりを取った。
夏空のところに戻ると意外そうに眉をあげた。
「手伝ってくれるんだ」
「手伝うわけじゃない」
「じゃあそのほうきとちりとりは?」
無意識に弄ぼうとしてくる夏空を無視して、散らばったゴミをほうきで集める。
「あの、ありがとうございます……」
おそらく一年生と思われる女子が、しゃがんだまま頭を下げてきた。
「別にいい。助けてるわけじゃないから」
「えっでも」
「助けてない」
「……はい」
ほうきの音だけが駐輪場に響く。
三人で片づけたおかげで地面を汚していたゴミはあっという間に消えた。
「よし、綺麗になったね」
「ありがとうございました!」
一年生の女子は夏空に深く頭を下げていた。私にも頭を下げそうになったけど寸前で止まっていた。
ゴミ捨て場に小走りしていく女子をみつめて、夏空は微笑む。
「やっぱり人を助けると気持ちがいいね。白峰もそう思うでしょ」
「別に」
私は取り返しのつかない罪を犯しているから、夏空の気持ちは分からない。
でも昔は「ありがとう」の言葉がとても嬉しかった。当時は存命だったおばあちゃんの荷物をもったり、両親に褒められたくてお風呂の掃除を頑張ってみたり、そうして感謝されるたびに笑顔になっていたものだ。
「それより夏空、早く教室に戻ろう」
「あっ、そうだよ! みんなを待たせてるんだった!」
夏空の手が伸びてきた。かわす暇もなく握ってきたそれは、相変わらず温かい。
夏空に引っ張られて駐輪場を走る。昔は私も友達の手を引いて走り回っていた。本気を出せばどこまでも走っていけると思っていた。未来はきっと明るい。人生は上り坂のようなものだと信じていた。
遠い、もう戻れない毎日が、星のように脳裏で瞬く。
夏空に出会うまで忘れていた記憶だった。
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