第4話 時効の娘

1

二月の凍てつく風が、産廃処理場の敷地を吹き抜けていた。

榊シキミは事務所で古いファイルを広げていた。「北陸水資源開発計画 補償金管理システム設計書」と書かれた表紙。

ページをめくると、そこには父の筆跡があった。

榊誠一。

細かい数字、フローチャート、管理手順。父が設計したシステムは、緻密で公正なものだった。だが、そのシステムは悪用された。

シキミはファイルを閉じた。そして、カレンダーを見た。

「時効まで、残り92日」

小さく呟く。

十年前、父は不正入札事件の責任を問われ、自殺した。だが、真実は違った。父は無実だった。不正を働いたのは、別の人間たちだった。

そして、その不正の時効が、あと三ヶ月で成立する。

シキミは立ち上がった。だが、その時、ドアがノックされた。

「入れ」

ドアが開き、初老の男性が入ってきた。六十代前半、がっしりとした体格。元刑事の雰囲気を漂わせていた。

「榊さんですね。滝沢と申します」

男性は名刺を差し出した。「滝沢英治 元県警刑事」と書かれていた。

「滝沢さん。電話でお聞きした件ですね」

シキミは椅子を勧めた。滝沢は座り、封筒を取り出した。

「二十年前の誘拐事件について、調べてほしいんです」

シキミは封筒を受け取り、中身を確認した。事件の概要、新聞記事のコピー、そして一枚の写真。

写真には、笑顔の少女が写っていた。十歳くらいだろう。その目には、無邪気さが満ちていた。

「相沢ひかり、当時十歳」

滝沢が説明した。

「二十年前、彼女は誘拐されました。身代金2000万円が要求され、家族は支払いました。でも、ひかりは戻らなかった」

シキミは手帳を開いた。

「事件は?」

「未解決です。時効を迎えました」

「あなたは、この事件を担当していたんですか?」

滝沢は頷いた。

「はい。私は、この事件を解決できなかった。それが、ずっと心残りだったんです」

シキミはペンを走らせた。

「それで?」

「最近、ひかりが生きているという情報を得ました」

シキミの手が止まった。

「生きている?」

「はい。偽名を使って、地方都市で暮らしているらしいんです」

滝沢は別の写真を取り出した。そこには、三十代の女性が写っていた。

「森下ゆかり。三十歳。彼女が、相沢ひかりだと思います」

シキミは写真を見た。確かに、少女の面影があった。

「確証は?」

「顔認証システムで照合しました。一致率95%です」

シキミは写真を置いた。

「では、これは偽装誘拐だったと?」

「その可能性が高い」

滝沢は身を乗り出した。

「もしそうなら、相沢家が払った2000万円は、犯罪収益です。それを取り戻したい」

シキミは手帳を閉じた。

「滝沢さん。あなたは、正義のためにこれを調べたいんですか?それとも、自分の心残りを晴らすためですか?」

滝沢は黙った。そして、小さく笑った。

「両方です」

シキミは立ち上がった。

「分かりました。調査します」

2

シキミが最初に向かったのは、森下ゆかりが住んでいる街だった。

隣県の地方都市。人口三万人ほどの静かな街。シキミは駅前の商店街を歩き、情報を集めた。

「森下ゆかりさんを知っていますか?」

何人かに尋ねると、すぐに情報が得られた。

「ああ、ゆかりちゃん。花屋で働いてるよ」

シキミは花屋に向かった。小さな店で、色とりどりの花が並んでいた。

店の奥に、一人の女性がいた。三十代前半、穏やかな表情をしていた。森下ゆかりだ。

「いらっしゃいませ」

ゆかりが笑顔で迎えた。シキミは店内を見回した。

「綺麗な花ですね」

「ありがとうございます。何かお探しですか?」

「いえ」

シキミは名刺を差し出した。

「榊と申します。少し、お話を伺いたいんですが」

ゆかりは名刺を見た。その表情が、わずかに曇った。

「産廃処理業……ですか」

「それは表の仕事です」

シキミは一歩近づいた。

「裏の仕事は、金の流れを修正すること。相沢ひかりさん」

ゆかりの顔から血の気が引いた。

「……誰ですか、それは」

「あなたです」

シキミは写真を取り出した。十歳の少女の写真。

「二十年前、あなたは誘拐されました。でも、実際には誘拐ではなかった」

ゆかりは何も言えなかった。シキミは続けた。

「偽装誘拐。あなたと、誰かの共謀。違いますか?」

ゆかりは震える手で、店の入口に「準備中」の札をかけた。そして、シキミを店の奥に案内した。

3

店の奥の小さな部屋で、ゆかりは語り始めた。

「どこまで知っているんですか?」

「まだ何も。でも、あなたから聞きたい」

ゆかりは深く息を吸った。

「誘拐は、私と田村さんの共謀でした」

シキミは手帳を開いた。

「田村?」

「田村圭介さん。当時二十五歳。私の家の近所に住んでいました」

ゆかりは窓の外を見た。

「私は、父から暴力を受けていました。殴られて、蹴られて。母は、見て見ぬふりをしていました」

ゆかりの声が震えた。

「私は、逃げたかった。でも、十歳の子供に逃げ場なんてなかった」

シキミは黙って聞いた。

「ある日、田村さんが私に声をかけてくれました。『大丈夫?』って。私は、初めて誰かに心配されました」

ゆかりは涙を拭った。

「田村さんは、私を救うために『偽装誘拐』を提案してくれました。私を連れ出して、身代金を要求する。そして、そのお金で二人で新しい生活を始める、と」

「実行したんですね」

「はい」

ゆかりは頷いた。

「二十年前の八月、私は『誘拐』されました。田村さんが身代金2000万円を要求しました。父は、お金を払いました」

「その後は?」

「田村さんと一緒に、この街に来ました。田村さんは、私を娘として育ててくれました」

ゆかりは微笑んだ。

「田村さんは、本当に優しい人でした」

「田村さんは、今どこに?」

ゆかりの笑顔が消えた。

「五年前に、亡くなりました」

シキミは手帳に書き込んだ。

「身代金2000万円は、どう使ったんですか?」

「生活費と、私の学費です。田村さんは、私を大学まで行かせてくれました」

シキミはペンを止めた。

「ゆかりさん。身代金の出所を知っていますか?」

ゆかりは首を横に振った。

「父が払ったとしか」

「その金が、どこから来たのか」

シキミは写真を取り出した。古い書類のコピー。

「『北陸水資源開発計画』補償金管理記録。あなたの父、相沢正樹は、この計画の補償金を管理していました」

ゆかりは書類を見た。

「これは……」

「あなたの父は、補償金の一部を着服していました。そして、その着服を隠すために、偽装誘拐を利用したんです」

ゆかりの顔が青ざめた。

「では、私が受け取った2000万円は――」

「本来、別の被害者に渡るべきだった金です」

4

ゆかりは崩れ落ちるように椅子に座った。

「では、私は――犯罪者なんですか?」

「いいえ」

シキミは冷静に答えた。

「あなたは被害者です。でも、あなたが受け取った金も、誰かから奪われたものです」

ゆかりは顔を覆った。

「私は、どうすればいいんですか?」

「何もしないでください」

シキミは立ち上がった。

「私が、金の流れを修正します」

ゆかりは顔を上げた。

「でも、私はもうお金を持っていません。全部使ってしまいました」

「知っています」

シキミは続けた。

「だから、あなたから取り戻すつもりはありません。代わりに、あなたの父が着服した金の『残額』を、本来の受取人に流します」

「残額?」

「あなたの父は、2000万円以上を着服していました。その一部が、あなたの身代金として使われた。残りは、どこかにあるはずです」

シキミは手帳を閉じた。

「それを見つけ出します」

5

シキミは相沢正樹を調べた。

相沢は現在、六十代半ば。退職後、市内で小さな不動産会社を経営していた。

シキミは相沢の会社を訪ねた。古いビルの一階。狭い事務所に、相沢一人が座っていた。

「相沢さんですね」

シキミが声をかけると、相沢は顔を上げた。痩せた体つきで、目には疲労が滲んでいた。

「どなたですか?」

「榊と申します。『北陸水資源開発計画』の件で、お話を伺いたいんです」

相沢の表情が強張った。

「……その話は、もう終わったことです」

「終わっていません」

シキミは椅子に座った。

「あなたは、補償金の一部を着服しました。そして、その着服を隠すために、娘の偽装誘拐を利用しました」

相沢は何も言えなかった。

「身代金2000万円。あなたが管理していた補償金プールから抜いた金です」

シキミは書類を取り出した。

「でも、あなたが着服したのは、それだけではありません。記録によると、あなたは総額5000万円以上を横領しています」

相沢は顔を伏せた。

「残りの3000万円は、どこにありますか?」

相沢は黙った。シキミは続けた。

「あなたの娘は、今も罪悪感に苦しんでいます。自分が犯罪者だと思っています」

相沢が顔を上げた。

「ひかりは――無事なのか?」

「無事です。でも、あなたのせいで、彼女は二十年間、偽りの人生を生きてきました」

相沢は震える手で顔を覆った。

「私は……ひかりを守りたかっただけなんです」

「嘘をつかないでください」

シキミの声は冷たかった。

「あなたは、自分の着服を隠すために、娘を利用しました。それが真実です」

相沢は何も言えなかった。

「相沢さん。残りの3000万円を、本来の受取人に返してください」

相沢は黙った。そして、小さく呟いた。

「もう、ない」

「どういう意味ですか?」

「使ってしまったんです」

相沢は顔を上げた。

「事業に失敗して。借金の返済に。もう、何も残っていません」

シキミは手帳に書き込んだ。

「では、あなたの資産は?」

「この会社だけです。でも、赤字続きで、もうすぐ潰れます」

シキミは立ち上がった。

「分かりました」

相沢が驚いた。

「それだけですか?」

「いいえ」

シキミは振り返った。

「あなたには、娘に謝罪する義務があります。でも、それは私の仕事ではありません」

シキミは事務所を出た。

6

シキミは市役所を訪れた。

彼女は建設課の資料室に向かい、「北陸水資源開発計画」の書類を閲覧した。

補償金管理システムの設計書。

ページをめくると、そこには父の筆跡があった。

「榊誠一」

シキミは書類を見つめた。父が設計したシステムは、完璧だった。すべての金の流れが記録され、不正が起きないよう設計されていた。

だが、そのシステムは悪用された。

シキミはページをめくり続けた。そして、ある記録を見つけた。

「戸籍のない住民への補償金支払い記録」

リストには、十数人の名前が記載されていた。だが、そのすべてに「未払い」のスタンプが押されていた。

シキミは手帳に書き込んだ。

「相沢が着服した3000万円。本来の受取人は、この人たちだ」

彼女は書類をコピーし、資料室を出た。

7

シキミは「戸籍のない住民」の一人を訪ねた。

市の外れにある廃屋。そこに、一人の老人が住んでいた。

「久保田さんですか?」

シキミが声をかけると、老人は顔を上げた。八十代だろう。痩せこけた体に、ぼろぼろの服を着ていた。

「誰だ?」

「榊と申します。『北陸水資源開発計画』の補償金について、お話を伺いたいんです」

老人――久保田は、シキミを見た。その目には、諦めが満ちていた。

「補償金……?そんなもの、もらってないぞ」

「知っています」

シキミは一歩近づいた。

「あなたは、二十年前、ダム建設で住居を失いました。でも、戸籍がないという理由で、補償金を受け取れなかった」

久保田は黙った。

「本来、あなたは300万円を受け取るはずでした。でも、その金は、別の人間に横領されました」

シキミは書類を取り出した。

「相沢正樹。彼が、あなたの金を奪いました」

久保田は書類を見た。そして、小さく笑った。

「もう、どうでもいい」

「どうでもよくありません」

シキミは久保田を見つめた。

「私が、金を取り戻します」

久保田は首を横に振った。

「今さら金をもらっても、何も変わらない」

「変わります」

シキミの声は強かった。

「あなたが金を受け取ることで、帳簿が修正されます。それが、私の仕事です」

久保田は黙った。そして、小さく呟いた。

「あんた、榊さんの娘か?」

シキミの手が止まった。

「なぜ、それを?」

「顔が似てる」

久保田は微笑んだ。

「榊さんは、良い人だった。俺たちのことを、人間として扱ってくれた」

シキミは何も言えなかった。

「でも、榊さんは死んだ。俺たちを守ろうとして、殺されたんだ」

久保田は顔を伏せた。

「だから、俺たちは何も言えなかった」

シキミは深く息を吸った。

「久保田さん。父は、なぜ死んだんですか?」

久保田は顔を上げた。

「役所の連中が、榊さんを追い詰めたんだ。『戸籍のない人間に金を渡すのは不正だ』と」

久保田は拳を握った。

「でも、本当は違った。連中は、俺たちへの補償金を、自分たちで山分けしたかったんだ」

シキミは手帳に書き込んだ。

「誰が、父を告発したんですか?」

「相沢だ」

久保田は吐き捨てるように言った。

「相沢正樹。あいつが、榊さんを告発した」

8

シキミは再び相沢の事務所を訪ねた。

相沢は机に向かっていた。シキミが入ると、彼は顔を上げた。

「また、あなたか」

「相沢さん。あなたは、私の父を告発しましたね」

相沢の表情が変わった。

「……何を言っている?」

「榊誠一。私の父です。あなたが告発したから、父は自殺しました」

相沢は何も言えなかった。

「父は、戸籍のない住民にも補償金を渡そうとしました。でも、あなたはそれを『不正』として告発した。なぜですか?」

相沢は顔を伏せた。

「私は……命令されただけです」

「誰に?」

「上の人間に」

相沢は震える声で続けた。

「役所の幹部たちが、補償金を着服しようとしていました。でも、榊さんがそれを阻止しようとした。だから、榊さんを排除する必要があった」

シキミは冷静に尋ねた。

「あなたは、その片棒を担いだんですね」

「はい」

相沢は顔を上げた。

「私は、出世したかった。だから、従いました」

シキミは手帳を閉じた。

「相沢さん。あなたには、二つの罪があります」

相沢は黙った。

「一つは、補償金の横領。もう一つは、私の父を死に追いやったこと」

シキミは立ち上がった。

「でも、私はあなたを罰しません」

相沢は驚いた。

「なぜ?」

「あなたは、すでに罰を受けています」

シキミは相沢を見た。

「娘を失い、金を失い、そして自分自身も失いました。それが、あなたの罰です」

シキミは事務所を出た。

9

シキミは滝沢に報告した。

「相沢ひかりは、森下ゆかりとして生きています。彼女は被害者です。偽装誘拐を罰するべきではありません」

滝沢は黙って聞いた。

「身代金2000万円は、相沢正樹が横領した補償金の一部でした。残りの3000万円は、すでに使われています」

シキミは書類を滝沢に渡した。

「でも、本来の受取人――戸籍のない住民たちには、まだ補償金を渡すことができます」

滝沢は書類を見た。

「どうやって?」

「私が、別の方法で資金を調達します」

シキミは立ち上がった。

「滝沢さん。あなたの心残りは、これで晴れますか?」

滝沢は小さく笑った。

「いいえ。でも、少しは楽になりました」

10

その夜、シキミは事務所に戻り、「帳簿」を開いた。

「相沢ひかり、相沢正樹、久保田――」

彼女は名前を書き、金の流れを記録した。

そして、別のページを開いた。そこには、父の遺書のコピーが挟まれていた。

「シキミへ。お前が、いつかこの仕事をすると思っていた」

シキミは遺書を読んだ。

「でも、覚えておいてくれ。正しい人に金を渡す時、必ず誰かが損をする。それでも、お前は受け取るか?」

シキミは目を閉じた。

そして、「帳簿」の最後のページを開いた。

そこには、一行だけ書かれていた。

「時効まで、残り92日」

シキミは筆を取り、その下に書き加えた。

「父さん。私は、あなたの無実を証明します」

窓の外では、雪が降り始めていた。


【第4話 完】

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