だから僕は歌を歌う
凪雨カイ
第1話 この街の音
あの夜のことを思い出すたびに、胸のどこかがまだ少しだけひりつく。
誰かが初めて、私の「音」を見つけた夜。
その夜までは、自分の歌が本当に誰かの夜に届くなんて、少しも思っていなかった。
この街には、昼も夜も、小さな音が絶えない。
エレベーターのモーターが床下をくぐり抜けるように響いて、廊下のどこかで鍵が回る気配がして、知らない部屋のテレビの笑い声が薄く壁を透ける。私は、そういう音の重なりを聞くのがあまり嫌いではない。人の気配は苦手なのに、音の気配は怖くない。音は、私に近づきすぎない。私を見ない。ただ通り過ぎていく。
ときどき、音が途切れる瞬間だけが怖い。
沈黙の底に、忘れたい気配がまだ残っている気がする。
部屋は一人暮らしには少し贅沢な広さだ、しかし家具は最小限で、色は少ない。だが、大学の性質上、防音に配慮された物件が多い。その中から選んだこの部屋は、録音にはちょうどよかった。白い壁、ベージュのカーテン、黒いモニター。窓の向こうには、向かいの建物の壁。その壁の上の小さな空が、天気の合図みたいに色を替える。晴れた昼の白っぽい青、夕方の薄い橙、夜の濃い群青。私はだいたい、群青の時間に起きて、群青の時間に眠る。
机の上には中古のオーディオインターフェースと、背丈の合わないスタンドに取り付けられたマイク。曲を作るというほど立派なことはできないから、私は歌を録る。歌と言っても、誰かの歌の一部を、口の中でほどけない糸みたいに小さな声でなぞる。時々、自分で短いメロディという名のフレーズを作って、そこに言葉を乗せる。言葉はあまり上手くない。だから、音に隠れる。音に薄く包んでもらう。
投稿名義は「ろな」。
本名を知っている人はいない。顔を出したこともないし、出すつもりもない。プロフィールには何も書いていない。場所も年齢も、好きなアーティストも。何もないつもりで、アイコンだけは、夜中にペンを走らせて描いた月の落書きにした。少し歪んでいるけれど、歪んでいることが落ち着く。
夜になると、街はいくらか優しくなる。
車の数が減って、空調の音が主役になって、遠くのサイレンが、たまに、風の向きで裏返る。私はその変わり目を待ってから、カーテンの端を少しだけ開けて、窓のロックを一段外して、細い隙間を作る。外の空気を入れるというより、部屋の空気に出口をあげる。息が止まるのは嫌だから。
モニターには録音ソフトの画面。
空白のトラック。ミュートのボタン。メトロノームは切ってある。私は自分の心臓のテンポで歌うから、カチカチと鳴る音は邪魔だ。録音ボタンの赤い丸にカーソルを合わせると、指先の温度で、ほんの少し色が濃くなるような錯覚がある。何度押しても慣れない。押すたびに、誰かに見られているみたいで、でも誰もいない。
保存フォルダの中には、日付と時間だけのファイルが並んでいる。
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タイトルをつけられるほどの自信がない。名前をつけるということは、それを誰かに手渡すときの取っ手をつけることだと思う。私の歌には、まだ取っ手がない。手触りがない。だから、時間だけが名前になる。私がそこにいた時間。息をしていた時間。
深夜二時を過ぎると、上の階の足音が止んだ。
作られた氷が、冷蔵庫の中で鈍くぶつかり合う音がした。製氷機の容器には、水を足しておいた。プラスチックの鈍い音。私の部屋の冷蔵庫は古くて、時々、食器棚の奥から咳払いがするみたいに鳴く。その音を合図に、私はマイクの位置を少しだけ上げる。顎を下げると、喉が静かになる。
録音。
波形が現れて、私の息が描かれていく。
私はいきなり歌わない。声を出す前に、黙る。黙って、黙って、黙って、それから、短い言葉だけを置く。
「……おやすみ。」
歌というより、願いに近い。私の声は思っている以上に細くて、風に乗せたらすぐに千切れる。だから近いところで聴いてほしい。耳たぶと髪のあいだ。枕の横。ベッドの上。眠れない夜の、目を閉じる直前。そういう距離で。
録音を止めて、すぐには再生しない。
私はいつも、少しだけ時間を置く。自分の声を、すぐには聴けない。身体の外に出た自分の声は、私の知らない人みたいに感じるから。部屋を一周する。窓の鍵をいったん閉めて、また少しだけ開ける。カーテンの裾の埃を指で払って、机の角にぶつけた小さな膝の傷に触れる。ここで、何度も失敗した。ここで、何度も録り直した。そういう擦り傷の上で、私は暮らしている。
ヘッドホンをかぶって、再生。
さっきの私が、さっきの部屋で、息をしている。
声は掠れているけれど、嫌いではない。寒い朝の白い息みたいに、少しだけ綺麗に見える。綺麗に見えるというのは、たぶん私の甘さだ。それでもいい。自分の声を嫌いすぎたら、何も残らない。
アップロードサイトを開く。
タイトル欄に日付を入れて、説明欄は空欄のまま。タグは「夜」「短い」「うた」。再生数は、いつも、ほとんど動かない。数字の止まった表示は、私にとっては救いであり、告白でもある。誰にも見つからないまま、ここに置いておきたい。けれど、どこかの誰かが、偶然足を止めてくれたらいい、とも思う。両方の気持ちを、私はずっと持て余している。
投稿ボタンを押すと、小さな音がする。
それで世界が少しだけ軽くなる。私はベッドの端に座って、深呼吸をする。深呼吸は録音の前にやるべきことだけれど、私は投稿の後にもやる。投稿という動作は、私の中で、外に出ることと同じだから。外に出た日は、帰ってきてから靴を脱ぐみたいに、胸の中の紐をほどく。
そのまま寝てもいいのに、私はしばらく画面を見てしまう。
更新ボタンを押すたびに、再生数の右の数字が、同じ形のまま私を見返す。動かないことは、悪くない。焦りも、悲しみも、湧かない。眠気がゆっくりと濃くなって、視界が薄く柔らかくなる。
◇
ふいに、画面の下にピンが灯った。
通知。コメント。
心臓が、やや不格好な打ち方をする。
クリック。
表示された短い一行。
――「音、綺麗だね。」
それだけ。
そこに名前はあったけれど、見慣れない文字列。リスナーなのか、通りすがりなのか、仲間なのか。分からない。ただ、私の部屋の空気を褒められたみたいな気がして、肩の力が抜ける。歌そのものではなく、「音」。私はそこに救われた。歌は怖い。良い悪いが、すぐに縫い目みたいに見えてしまう。音は、少し曖昧で、少し優しい。
返信を書いては消し、書いては消す。
「ありがとうございます」では、定型句すぎる気がする。
「聴いてくれて嬉しいです」では、感情がまっすぐ過ぎる気がする。
「おやすみ」なんて返したら、眠たい人みたいで変だ。
私は結局、一度、画面を閉じる。
部屋は、静かだ。
耳鳴りのように、冷蔵庫が低く鳴っている。壁の向こうで、誰かがシャワーを止める音。水の流れが床下を少し重たく移動する。そのすべてが背景に溶けて、私はベッドに仰向けになる。天井には、昼間に剥がした養生テープの跡が残っている。引っ越してきた日、最初にしたことは、マイクの位置を決めることだった。家具より先に、マイク。寝床より先に、音。
上京したときのことを、少し思い出す。
あの頃の私は、遠くに来れば、何かが変わると思っていた。
ほんとうは、変わりたかったのは私の方だったのに。
駅の改札を出て、知らない路線の案内板に迷って、荷物が肩に食い込んで、見たことのないチェーン店が同じ顔で並んでいた。地図アプリは合っているのに、身体が思う方向と画面の指示がずれて、私は何度も角を曲がり直した。そんな日でも、夜になると風は冷たくて、夜の街の匂いは、子どものころから知っている匂いと大差なかった。電気の匂い。湿ったアスファルトの匂い。遠くの土の匂い。
「ろな」という名前をつけたのは、その少し前。
本名を音に乗せるのは怖かった。名字も、名前も、どちらも丸くて柔らかい音でできていて、だから余計に怖かった。柔らかいものは、壊れやすいから。ひらがな三文字の、意味のないようで、意味があるような名が欲しかった。口を小さく開けて、息が短く抜ける音。はっきりしないけれど、消えない音。「ろな」は、それに近かった。
スマホを手に取る。
通知をもう一度開く。コメントは、さっきの一つだけ。
私は入力欄に、短い言葉を書いた。
――「ありがとう。」
送信ボタンを押すと、胸の内側に、細い糸が一本、遠くへ伸びる感覚がした。伸びた先は見えない。相手が誰かも、もちろん分からない。けれど、たしかに何かに結びつく感触がある。私は、糸の張りを確かめるみたいに、自分の喉に触れる。皮膚の下で、声帯ではない何かが、まだ少し震えている。
目を閉じる。
眠れる気がした。
けれど、眠る前に、もう一度だけ、録音をしようと思う。
私はベッドから起き上がって、マイクの前に座り直す。録音ボタンに指を置いて、深く息を吸う。喉の奥に、冷たい空気が入り込む。心臓の鼓動が、画面の波形より先に、耳の後ろで鳴る。
今度は、歌を歌う。
短いフレーズ。何度も口の中で転がした、眠りのための歌。言葉を少し減らして、母音を長めに。押しつけない。届かなくていい。まっすぐではなく、横に流す。波打ち際に捨てるように、言葉を置く。
――おやすみ。
――おやすみ。
――おやすみ。
三回目の「おやすみ」を、少しだけ高くした。
録音を止める。今度は、すぐに再生した。
ヘッドホンの中で、さっきの私が、さっきより少しだけ上手に眠ろうとしている。その滑稽さに、私はほんの少し笑う。笑い声は録らない。笑い声は、私の声の中でいちばん下手だから。
アップロードの確認画面に、指が止まる。
さっきのコメントを思い出す。「音、綺麗だね。」
綺麗かどうかは分からない。私はただ、静かにしたいだけだ。耳の中と、胸の中と、部屋の中。静けさは自然にはやってこない。少しずつ片づけないと、積もってしまう。私は、歌で片づける。眠れない夜の床に落ちた言葉を拾って、音に入れて、見えないゴミ袋に入れて、外に出す。
投稿。
画面の端に、小さな青い線が走る。
ようやく眠気が重たくなって、私は椅子の背にもたれる。首の後ろがじんわり温かい。窓の隙間から入る空気が、指先に触れて、少しだけ冷たい。
スマホが震える。通知。さっきの人からの返信ではなく、別の誰かの「いいね」。名前はまた見たことのない文字。私は、画面を伏せる。今は、これ以上の光はいらない。
ベッドに戻る。
天井に、外の街灯の影が薄く映っている。私はその輪郭を見ながら、数を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。いつのまにか、数えられなくなって、意識が断ち切れる。眠りは、音のない場所ではなく、音がほどよく散っている場所にやって来る。だから私は、完全な無音を作らない。冷蔵庫も、空調も、窓の外の遠い車も、どれも少しだけ残したまま、目を閉じる。
◇
翌朝。
といっても、昼近く。
通知は増えていない。いい。増えていなくて、いい。私はゆっくり起き上がって、コップに水を注いで、喉の乾きを確かめる。鏡は見ない。私の顔は、だいたい想像通りに、寝不足の顔をしているはずだ。
窓の外は明るくて、光は白い。カーテンの布目が、ふわふわと浮かんで見える。その白い網の向こうで、鳥が短く鳴く。声は高い。私よりもずっと簡単に、高い音を出せる。
スマホを手にとって、昨日のページを開く。
コメントは、一つのまま。
私はそこに、もう一行だけ、返事を足した。
――「あなたも、よく眠れますように。」
送ってから、恥ずかしくなって、少し笑う。誰かに向けた言葉は、すぐに自分に戻ってくる。私も、よく眠れますように。私は、コップの水を飲み干して、机に戻る。メモ帳を開く。短いフレーズを書き留める。朝のための歌。昼のための歌。夜のための歌。いつか、誰かのための歌。今は、私のための歌。
イヤホンを耳に差し直して、外に出る支度をする。
今日は、少しだけ出かけるつもりだ。郵便受けの中を空にして、共同のゴミ置き場に古い段ボールを運ぶ。廊下は薄暗くて、階段は金属で、足音が響く。私は、足音の響きを一段ずつ確認する。低い音、高い音、また低い音。音の高さで、段の高さが分かる。外に出ると、空気は乾いていて、風は弱い。目を細める。眩しいわけではなく、ただ、白い。
コンビニに寄って、透明な袋にパンと牛乳を入れる。
レジの電子音は、毎回、微妙に音程が違う。店員の人によってタッチのタイミングが違うからだろう。私は、そういうどうでもいいことを記憶するのが得意だ。役に立ったことは、あまりない。
帰り道、路地の角で猫が座っている。灰色の毛。目が半分閉じている。私は足を止めない。猫は、私を見ない。私も、猫を見ないふりをする。互いの存在を認めるほどの親密さを、いまは持ち合わせていない。距離は、守った方が楽だ。
部屋に戻る。
袋を机に置いて、パンの袋を開ける前に、私はまた、モニターの電源を入れてしまう。今しがた戻ってきたばかりの部屋が、私を待っていたような顔をする。冷たいファンの音。画面の黒。昨日の波形は、まだそこに残っている。私は保存して、画面をクリアにする。次のために、空白にする。
パンを食べながら、昨日のコメントをもう一度読む。短いけれど、その一文は、私の部屋に小さな椅子を一脚、置いていった。そこに誰かが座るかどうかは分からない。でも、椅子はたしかにある。私はその存在を、少しだけ心強いと思う。
午後になって、授業の時間が近づく。
私は大学のアプリを開いて、時間割を確認する。出るべきなのか、出ないべきなのか、毎回、迷う。迷っているうちに、時間は過ぎる。今日は出ることにする。理由は特にない。理由のない決意ほど弱いものはないけれど、今日の私は、それで十分だ。
着替えて、バッグにノートとペンとイヤホンを入れる。玄関のドアノブは、手汗を吸って、すぐに冷たくなる。鍵を回す。廊下の空気は、さっきより少しだけ暖かい。階段を降りる。外に出る。薄い雲が流れて、光が途切れ途切れに降りてくる。私は、音楽は流さない。街の音の方が、今日の私には必要な気がする。
信号が変わって、横断歩道を渡る。
自転車がベルを鳴らして、子どもが笑って、工事現場で鉄がぶつかる。私の靴の底が、横断歩道の白い塗装を少しだけ剥がす。息を吸う。肺に空気が入る音が、耳の中で大きく聞こえる。身体が、楽器になっている気がする。うまく演奏できるかどうかは、別として。
――「音、綺麗だね。」
さっきの一文が、ふいに頭の中で反響する。
綺麗かどうかは、きっと日による。私が私を嫌いな日の音は、やっぱりきれいにはならない。けれど、昨日の私の音は、誰かの耳の中で、綺麗だった。それは、私が決められないことだ。私の外で起きることだ。そう考えると、肩の力がまた少し抜ける。私は、横断歩道の向こう側で、深く一度だけ息を吐く。
大学に着いて、教室の後ろの席に座る。
前の方で、先生がスライドを開く音がして、空調が強くなって、紙が擦れる。私はノートを開いて、何も書かずに閉じる。耳を澄ます。眠くはならない。音が多い場所では、私は眠れない。眠れないから、頭は逆に静かになる。
休み時間に、スマホを取り出して、通知を確認する。新しいコメントはない。いい。なくていい。私は画面を伏せて、机に肘をつく。窓の外の空は、さっきより少し青い。部屋より、うまく呼吸できる気がする。人がいる場所は苦手だけれど、人がいる場所の空気は、たまに、いい。
◇
夕方、部屋に戻る。
玄関に入って、靴を脱ぐ。足の裏が、床の冷たさに驚く。窓のカーテンは開けず、電気もつけない。部屋がゆっくりと暗くなるのを待つ。暗くなり切る前に、私は椅子に座って、マイクの高さを調整する。顎の角度が少しでも違うと、声は狙った場所に当たらない。
そうして今日も、夜になる。
私は、録音ソフトの赤い丸を押す。
波形が、生まれる。
音が、息をする。
息が、私をここに留める。
「……こんばんは。」
はじめまして、ではなく、こんばんは。
私は自分と、私の部屋と、画面の向こうにいるかもしれない誰かに向かって、そう言う。挨拶は、歌の前の呼吸みたいなものだ。うまく歌えなくても、挨拶だけはできる。
私は、小さな声で、短い歌を歌う。
言葉は少なく、母音は長めに。
遠くにいるのではなく、近くにいる誰かに話しかけるみたいに。
眠れない夜の枕元に、置き忘れられるくらいの、小ささで。
録音を止めて、私は、目を閉じる。
今日の声は、昨日の声と並べたら、きっと違う顔をしている。違う顔をしていても、かまわない。私の顔だ。私の息だ。
アップロードを終える。
通知は鳴らない。
静かで、良い夜だ。
ベッドに横たわり、天井に映る街灯の影を数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
私は、目を閉じる。
耳の奥で、今日の私が、今日の歌を、もう一度だけ歌って、消える。
眠りが来る直前、私は胸の中でつぶやく。
――誰かの夜に、私の歌が届きますように。
その願いが、ほんとうに誰かに届くなんて、このときの私は思っていなかった。
――この夜までは。
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