第50話 高一の終わりに、立っていた場所
終業式の日の朝、教室の空気はいつもよりちょっとだけ薄かった。
プリントも教科書もほとんどしまわれて、机の中は軽いのに、胸のあたりだけ重い。
黒板の端には、誰かが書いた「1-B おつかれさま」の文字。日付の横に、小さな星マークが付いている。
「今日でこの並びもラストかあ」
右から、美咲の声。
「寂しい?」
「寂しいっていうか、“これで一旦保存”って感じ」
「データかよ」
「“高一1-B配置図”ってフォルダにしまっとく」
言い方の割に、視線はちゃんと教室を一周していた。
前の席では、安達がいつも通り出席番号順にプリントを揃えている。そのきっちりした手つきも、見慣れた背中も、今日で一旦終わりだ。
「クラス替えどうなると思う」
俺が聞くと、前から小さく返事が返ってきた。
「さすがに、この三人固まりっぱなしってことはないと思う」
「だよな」
「でも、どこかしらでかぶる気はしてる」
安達は、プリントの端をそろえながら言う。
「行事とか、委員会とか」
「“関わりゼロ”にはならなさそうだよね」
美咲も頷いた。
「だってほら、蓮の座標って、なんかそういう位置取りしそうだし」
「座標って言うな」
体育館での終業式は、いつも通り長かった。
校長の話、生徒指導の話、表彰。途中からは立っている足の感覚があいまいになる。
それでも、「一年間よく頑張りました」とか、「来年度の自分をイメージして」とか、そんな言葉のところだけは変に頭に残った。
教室に戻ると、田所先生がいつものように教卓の前に立った。
「はい、一年、いろいろあったけど、とりあえずお疲れさん」
拍手がぱらぱらと起きる。先生は手をひらひらさせて笑った。
「静かに拍手するな」
「どんな拍手が正解なんですか」
誰かがつっこむ。
「そうだな、“まあ悪くなかったな”って気持ちを込めたくらいでいい」
「微妙に具体的」
笑いが広がる。
先生は、黒板の真ん中に「1-B」と大きく書いた。その下に、ゆっくりと四つの言葉を並べる。
・よくしゃべるクラス
・よく巻き込むクラス
・よく気付くクラス
・よく笑うクラス
「一年見てて、印象はこんな感じだった」
「ほめられてるんですか、それ」
前のほうから声が飛ぶ。
「ほめてる。特に、“よく気付く”ってところ」
先生は、チョークを置いて腕を組んだ。
「誰かが困ってるときとか、雰囲気がおかしいときとか、言葉にしなくても、“あ、まずいな”って顔するやつが多かった」
目線が、教室のあちこちをゆっくりなぞる。
俺たちの列のあたりで、一瞬だけ止まった気がした。
「そういうの、成績とか点数には出ないけどさ。どこのクラスに行っても、どこの会社に行っても、けっこう大事だからな」
先生は、黒板の端に小さく「気付く」と書き足す。
「来年度、クラス替えもあるし、座る場所も変わる。でも、“気付けるやつが何人かいるクラス”っていうのは、どこに行ってもいいものだと思う」
ちょっとだけ真面目な空気になったところで、先生は急にトーンを変えた。
「はい、じゃあ真面目な話はこれくらい。最後に、スペシャルゲスト」
「え」
ざわ、と教室が揺れる。
ドアが開いて、見慣れた先輩が顔を出した。
「どうも〜、去年お世話になりました、レイでーす」
レイ先輩。去年の記事を書いて、うちのクラスを変な意味で有名にした張本人だ。
「なんで来てるんですか」
誰かが聞くと、先輩はプリントの束を振った。
「田所先生に頼まれてさ、“高一1-B最後の振り返りシート”配達係」
「またシートか……」
春川が小声でうめく。
先輩は、教卓の上にプリントを置いて、教室をぐるっと見渡した。
「一年前、ここに“まだ始まったばっかり”って顔した人たちがいたんだよね」
「それ今もあんまり変わってないですけど」
誰かが笑う。
「だいたいそう。でも、雰囲気はけっこう変わったなって思う」
レイ先輩の視線が、前の席と、右の席と、俺の席を一瞬だけ通り過ぎた。
わざとらしく止まらないところが逆に気になる。
「今日配るシートは、“高一の自分まとめ”用」
先輩が紙を一枚持ち上げる。
「“成績どうだったか”とか、“何が楽しかったか”とか、“どこに立ってたか”とか、そういうのを、卒業アルバムとは別に、自分用に残しといてほしいって先生が」
教卓の横で、田所先生がこくっと頷く。
「俺のほうからも一個だけ」
レイ先輩は、紙を指でトントン叩いた。
「“高二の自分に見せるつもりで書いてほしい”」
教室が少し静かになる。
「“あのとき何考えてたんだっけ”って、来年の今ごろ読み返して、笑ってもいいし、ちょっと反省してもいいし、“意外と変わってないな”って思ってもいい」
先輩は、少し肩をすくめて笑った。
「ちなみに、俺は高一のときそういうのやらなかったから、今めっちゃ後悔してる」
「説得力のある後悔」
誰かがつっこむ。
「だから、代わりにみんなにはやっといてほしい。“去年の自分、けっこうよかったな”って思えるための材料としてね」
レイ先輩は、プリントの束を田所先生に渡した。
「じゃ、あとは先生に任せるわ。高二、楽しんで」
それだけ言って、軽く手を振って教室を出ていった。
プリントが一枚ずつ配られる。
タイトルは「1-B 高一・自分ログ」。
設問がいくつか並んでいた。
1. この一年で、一番楽しかった行事や出来事は?
2. この一年で、「自分が役に立てたな」と思う瞬間は?
3. この一年で、「自分の立ち位置はこのへんだ」と感じた場面は?
4. 高二の自分に残しておきたい一言メッセージ
「“立ち位置”って単語、最近増えたよね」
右のほうから美咲のささやき声。
「流行語みたいになってるな」
「まあ嫌いじゃないけど」
前の席の安達は、もうペンを持って考え始めている。眉間にしわは寄ってるけど、表情はどこか楽しそうだ。
書き始めると、思ったよりすぐに言葉が出てきた。
1. 一番楽しかったのは、文化祭と体育祭。
どっちも、「クラス全体で何かやる」をちゃんとできたから。
2. 役に立てたと思うのは、
行事のときに人を足したり引いたりして、誰かだけ負担が偏らないようにしたとき。
あと、誰かが困ってそうなときに声をかけられた瞬間。
問題は3つ目だ。
3. 自分の立ち位置は──
ペン先が、そこで止まる。
「どうする」
小声でつぶやいたら、前からも右からも「ん?」と返事が返ってきた。
「いや、設問三」
「書きづらいよね、それ」
美咲がくすっと笑う。
「“ここが居心地いい”って言った瞬間、動きづらくなる気もするし」
「でも、高一の自分がどう思ってたかは、ちゃんと書いといたほうがいいと思う」
安達の声は、妙にまっすぐだった。
「高二の自分が、そこからどれくらい動いたか確認するためにも」
「だよな」
もう一回、紙に目を落とす。
3. 自分の立ち位置は──
教室の中だと、「前のやつと右のやつの間」あたり。
前に出るやつと、空気を動かすやつの間で、
バランスを取る役が多かったと思う。
この位置が“正解”かどうかはまだ分からないけど、
高一の一年は、この場所で良かったと思っている。
書きながら、ちょっと笑ってしまった。
くさいな、と思いつつ、消す気にはならなかった。
最後の4つ目。
4. 高二の自分へ
「誰かに呼ばれた場所」じゃなくて、
「自分で決めた場所」に立てていますか?
そこまで書いて、ペンを置く。
「書けた」
呟くと、前と右から同時に「できた?」と聞かれた。
「まあな」
「見せ合いっこする?」
美咲が目を輝かせる。
「それは高二の自分がかわいそうだろ」
「高二の自分の前に、高一の友達に読まれるのか」
安達も苦笑する。
「じゃあ、“見せたいところだけ”ってことで」
結局、三人で少しずつ見せ合った。
安達の設問3には、こう書かれていた。
『前に立つことが多かった。でも、本当は横や後ろに回ることもできるんだって、最近やっと思い始めたところ。』
美咲のほうには、こんなことが書いてあった。
『盛り上げ役とか、ふざけ担当って思われてたかもしれないけど、ちゃんと“場を作る側”として見てもらえるようになりたい。』
「真面目だな、みんな」
俺が言うと、美咲が即つっこんできた。
「自分のもまあまあ真面目だからね」
「否定はしない」
田所先生が、教室を一周して、書き終わったプリントを回収していく。
「これは提出してもらうけど、コピーとってから返すからな」
「返ってくるんだ」
「高二のどこかのタイミングで、“去年の自分”として返す予定」
先生は、プリントを揺らしながら言った。
「だから、ちょっと楽しみにしとけ」
「“楽しみ”って言い方合ってます?」
「まあ、“たまに黒歴史”だからな」
教室に笑いが起きた。
ホームルームが終わって、机の中のものを全部カバンに詰める。
プリント、ノート、教科書。いらないプリントは、ごっそり資源回収ボックスに突っ込んだ。
「一年分のごちゃごちゃを捨ててる感じするね」
美咲が、プリントの山を見ながら言う。
「来年の自分が見たら“なんでこれ取っておかなかったんだろう”って後悔するやつも混ざってそう」
「それはそれで諦めるしかないな」
安達は、そっと自分のノートを撫でた。
「大事なのは、全部残すことじゃなくて、“ちゃんと考えた時間があった”ってことだと思うし」
「なんか今日、名言多くない」
「終業式だからね」
教室の窓から見える校庭は、いつもより静かだった。
部活の声も、今日はまだ聞こえない。
家に帰ってから、机の上にノートを開いた。
ずっと使ってきた、例のノートの一番後ろのページ。
そこに太めのペンで「高一まとめ」と書く。
・楽しかったこと
文化祭、体育祭、放課後の準備、ファミレス、モール
・しんどかったこと
誰かの負担が偏りそうなとき、どう動くか迷った瞬間
・できるようになったこと
クラスの空気を見ながら、人に声をかけること
“自分も混ざっていいんだ”って思える場が増えたこと
・まだできてないこと
自分から「ここに行きたいです」と言うこと
進路の方向を、自分の言葉で説明すること
ページの下のほうに、最後の一文を書き足す。
・高一の俺へ
とりあえず、おつかれ
高二の俺が、「あの一年悪くなかったな」って思えるように、ここからもう一年やってみる
数字は書かなかった。
代わりに、言葉だけを並べたページになった。
ノートを閉じるとき、教室の黒板に書かれていた「1-B おつかれさま」が一瞬頭に浮かんだ。
高二になったら、どこに座るのか。
どんな顔で新しいクラスに入るのか。
まだ何も決まってないけど、少なくとも──
「誰かに決められた“位置”だけじゃなくて、自分で選んだ“場所”にも立ってみたい」
そう思えたことだけは、今日のうちにちゃんと覚えておこうと思った。
(第50話 高一編おわり)
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