第4話 ルーマニア民謡と井の頭公園
三月十日、午後四時。
春の訪れを感じさせる柔らかな日差しが、井の頭公園を照らしていた。
エリーザは、いつもの「呪文屋」の看板の前に座っていたが、今日は客が来ない。
蓮は大学の講義があり、一人で店番をしていた。
テーブルの上には、依頼者の記録ノート、ハーブの小瓶、そして——故郷から持ってきた、母親の写真。
エリーザは、その写真をじっと見つめていた。
写真の中の女性は、エリーザによく似た顔立ちで、優しく微笑んでいる。
「ママ......」
小さく呟く。
ルーマニアを出てから、もう一ヶ月半。
最初は、新しい環境への興奮と、魔女としての活動への情熱で、寂しさを感じる暇もなかった。
でも——
ふとした瞬間に、故郷が恋しくなる。
ブカレストの石畳の街並み。
母が作ってくれたママリガ(トウモロコシの粥)の味。
親友マリアと夜遅くまで語り合った日々。
そして——
曾祖母が教えてくれた、古いルーマニア民謡。
「♪ Dorule, dorule... unde mi-ai fost...」
エリーザは、思わず口ずさんでいた。
故郷の歌。
幼い頃、曾祖母が子守唄として歌ってくれた曲。
タイトルは『ドルル(Dorule)』——「憧憬」という意味だ。
故郷を離れた人々が、遠い地で故郷を想う歌。
エリーザの声は、公園の静寂の中に溶けていった。
その時、背後から声がした。
「......その歌、知ってる」
エリーザは驚いてふり返った。
そこには、一人の若い男性が立っていた。
身長は百八十センチほど。黒い髪に茶色の瞳。黒いジャケットにジーンズという、ごく普通の格好。
でも——
その男性は、流暢なルーマニア語で続けた。
「『Dorule, dorule... unde mi-ai fost, / Că eu te-am căutat și nu te-am găsit.』(憧憬よ、憧憬よ......どこにいたの / 私はあなたを探したのに、見つからなかった)」
エリーザは、目を見開いた。
「アナタ......ルーマニア人!?」
「そう。ニコライ・ポペスク。ルーマニアから来た留学生」
男性——ニコライは、笑顔で答えた。
「君も、ルーマニア人?」
「ウン! ワタシ、エリーザ・ポペスク!」
エリーザは立ち上がった。
「ポペスク......もしかして、親戚?」
「タブン、遠い親戚? ポペスク、ルーマニア、多い名前」
二人は笑い合った。
そして、自然とルーマニア語で会話を続けた。
「久しぶりに母国語を聞いた......」
ニコライは、どこか懐かしそうに言った。
「僕も日本に来てから半年。ずっと日本語で話してたから、ルーマニア語を話すのが恋しかった」
「ワタシも! 日本語、ムズカシイ。毎日、頭、痛い」
エリーザは笑った。
ニコライは、エリーザの看板を見た。
「『呪文屋エリーザ』......君、魔女なの?」
「ウン! ルーマニアから来た、本物の魔女!」
エリーザは誇らしげに胸を張った。
ニコライは、少し驚いた顔をしてから、納得したように頷いた。
「なるほど。ルーマニアの魔女文化を、日本で広めてるんだね」
「ソウ! 日本、魔女税、ナイ。自由に魔法、デキル」
「魔女税......ああ、あの悪法か」
ニコライは苦笑した。
「僕が日本に来る直前に、国会で可決されたんだよね。馬鹿げてると思った」
「ソウ! 魔女に税金、オカシイ! ダカラ、ワタシ、日本に逃げてきた」
エリーザの声に、少し悲しみが混じった。
「でも......時々、故郷、恋しくなる」
「わかる」
ニコライは、エリーザの隣に座った。
「僕も、時々ホームシックになる。ブカレストの街並み、母の料理、友達との時間......全部恋しい」
「ニコライ、ドコに住んでる?」
「新宿。東京外国語大学で、日本文学を勉強してる」
「ソウナンダ......」
エリーザは、少し寂しそうに笑った。
「ワタシ、日本、好き。デモ、ルーマニア人の友達、イナイ。寂しい」
「じゃあ——」
ニコライは、思いついたように言った。
「東京に、ルーマニアコミュニティを作ろう」
「コミュニティ?」
「うん。在日ルーマニア人が集まって、母国語で話したり、伝統料理を食べたり、民謡を歌ったりする場所」
エリーザの目が輝いた。
「ソレ、イイ! ワタシ、参加シタイ!」
「よし、じゃあ決まりだ。僕、他にもルーマニア人の留学生を何人か知ってる。みんなに声をかけてみるよ」
「アリガトウ、ニコライ!」
エリーザは、久しぶりに心の底から笑った。
その日の夕方、蓮が講義から戻ってくると、エリーザはいつもより元気そうだった。
「蓮! 聞いて! 今日、ルーマニア人、会った!」
「ルーマニア人?」
「ウン! ニコライ。留学生。トテモ優しい人!」
エリーザは、ニコライとの出会いを興奮気味に話した。
蓮は、その様子を見て少しホッとした。
実は、最近エリーザが少し元気がないことに気づいていた。
いつもは明るく振る舞っているが、時々遠くを見つめて寂しそうな表情をすることがあった。
ホームシックなのだろう——蓮はそう思っていたが、どう声をかけていいかわからなかった。
「良かったですね、エリーザさん。同郷の人がいると、心強いでしょう」
「ウン! ニコライ、『ルーマニアコミュニティ作ろう』って言ってくれた」
「それはいいアイデアですね」
蓮は笑顔で答えた。
でも、心の中では少し複雑な気持ちもあった。
エリーザが、ルーマニア人のコミュニティで居場所を見つけたら——
もう自分は必要なくなるかもしれない。
そんな、少しだけ寂しい想像をしてしまった。
三月十五日。
ニコライの提案で、在日ルーマニア人の集まりが開かれることになった。
場所は、吉祥寺の小さなカフェ「Cafeneaua Bucureștiului(ブカレストのカフェ)」。
ルーマニア出身のオーナーが経営する、隠れ家のような店だ。
エリーザは、少し緊張しながらカフェに入った。
店内には、すでに五人ほどのルーマニア人が集まっていた。
ニコライが手を振って、エリーザを迎えた。
「エリーザ、こっちだよ!」
エリーザがテーブルに近づくと、ニコライが紹介してくれた。
「みんな、彼女がエリーザ。さっき話してた魔女だよ」
「魔女!?」
一人の若い女性が目を輝かせた。
「本物の魔女なんですか?」
「ウン! ワタシ、曾祖母から呪文、三百個、盗んだ」
エリーザが答えると、周囲からどよめきが起こった。
「すごい! 私の祖母も魔女だったんです!」
「僕の村にも、有名な魔女がいましたよ」
「魔女税、本当にひどいですよね」
ルーマニア人たちは、次々と話し始めた。
エリーザは、その輪の中で、久しぶりに「故郷」を感じた。
みんなが母国語で話している。
みんなが、同じ文化を共有している。
この感覚——どれだけ恋しかったか。
カフェのオーナーが、ルーマニアの伝統料理を運んできた。
サルマーレ(ロールキャベツ)、ママリガ(トウモロコシの粥)、ミティティ(小さな肉団子)。
エリーザは、サルマーレを一口食べて、涙がこぼれそうになった。
「......母の味」
小さく呟く。
ニコライが、隣で優しく笑った。
「美味しいよね。僕も、これ食べると母を思い出す」
「ニコライの母、元気?」
「うん。毎週、ビデオ通話してる。エリーザは?」
「ワタシも、母、元気。デモ......」
エリーザは言葉を切った。
「最近、電話、シテナイ。母、心配カケタクナイ」
「どうして?」
「ワタシ、日本に逃げてきた。母、悲しんでる、カモシレナイ」
エリーザの目に、涙が浮かんだ。
ニコライは、エリーザの肩に手を置いた。
「エリーザ、母親は強いよ。きっと、君の選択を尊重してる」
「......ホント?」
「うん。だから、電話してあげて。母親は、娘の声を聞きたいんだよ」
エリーザは、深く頷いた。
その後、カフェではルーマニア民謡の時間が始まった。
オーナーが古いギターを取り出し、みんなで輪になって座った。
「何か歌おう。誰か、リクエストある?」
エリーザは、手を挙げた。
「『Dorule』、歌いたい」
「いい選曲だ」
オーナーがギターを弾き始めた。
懐かしいメロディーが、カフェの中に流れる。
エリーザは、目を閉じて歌い始めた。
♪ Dorule, dorule... unde mi-ai fost,
(憧憬よ、憧憬よ......どこにいたの)
Că eu te-am căutat și nu te-am găsit.
(私はあなたを探したのに、見つからなかった)
Dorule, dorule... cum te-aș avea,
(憧憬よ、憧憬よ......どうやってあなたを手に入れたら)
Inima mi-ai fura și tu m-ai uita.
(あなたは私の心を盗んで、私を忘れてしまう)
エリーザの声は、透き通るように美しかった。
他のルーマニア人たちも、一緒に歌い始めた。
カフェ全体が、故郷の空気に包まれた。
歌い終わると、みんなが拍手した。
エリーザは、涙を拭った。
「......久しぶり、母国語で、歌った」
「素敵だったよ、エリーザ」
ニコライが笑顔で言った。
「ありがとう」
エリーザは、心の底から感謝した。
この場所があって、本当に良かった。
カフェを出た後、エリーザは一人で井の頭公園を歩いていた。
夜の公園は静かで、街灯がぼんやりと池を照らしている。
エリーザは、ベンチに座って空を見上げた。
星が、いくつか見えた。
ルーマニアで見た星と、同じ星。
でも——
今、自分はここにいる。
故郷から遠く離れた、日本に。
「......ママ、ごめん」
エリーザは、小さく呟いた。
「私、逃げてきた。あなたを置いて......」
涙が、頬を伝った。
その時、背後から声がした。
「エリーザさん」
ふり返ると、蓮が立っていた。
「レン......どうして、ここに?」
「ニコライさんから連絡をもらったんです。エリーザさんが、一人で公園に行ったって」
蓮は、エリーザの隣に座った。
「心配だったので、来ました」
エリーザは、涙を拭った。
「ゴメン。心配カケテ」
「いえ......泣いてたんですか?」
エリーザは、少し躊躇してから頷いた。
「ウン。故郷、思い出した。母、思い出した」
蓮は、静かに聞いていた。
「ワタシ、母、置いて逃げてきた。悪い娘」
「そんなことないですよ」
蓮は、優しく言った。
「エリーザさんは、自分の信念のために行動した。それは、逃げじゃなくて、選択です」
「選択......?」
「はい。エリーザさんは、『自由な魔法』を守るために、日本に来た。それは、勇気ある選択です」
蓮は、エリーザの目をまっすぐ見た。
「それに、エリーザさんは、ここで魔女として活動してる。たくさんの人を助けてる。それは、お母さんも誇りに思ってるはずです」
エリーザは、蓮の言葉を噛みしめた。
「......レン、優しい」
「いえ、事実を言ってるだけです」
蓮は少し照れくさそうに付け加えた。
「それに......エリーザさんは、一人じゃないですよ」
「一人じゃ......ナイ?」
「はい。ニコライさんや、他のルーマニア人の仲間がいる。それに——」
蓮は、自分の胸を指さした。
「俺もいます」
エリーザは、目を見開いた。
「レン......」
「俺は、エリーザさんのパートナーです。これからも、ずっと一緒に『呪文屋』を続けます」
蓮は、笑顔で続けた。
「だから、寂しくなったら、いつでも言ってください。一緒に、故郷の歌を歌いましょう」
エリーザの目から、また涙が溢れた。
でも、今度は悲しい涙ではなかった。
「アリガトウ、レン」
エリーザは、蓮に抱きついた。
蓮は少し驚いたが、優しく彼女の背中を撫でた。
「大丈夫ですよ、エリーザさん」
その夜、コスモス荘に戻ると、エリーザは母親に電話をかけた。
数回のコール音の後、母の声が聞こえた。
「もしもし? エリーザ?」
「ママ!」
エリーザは、涙声で答えた。
「エリーザ、どうしたの? 泣いてるの?」
「ウン......ゴメン、ママ。私、ママ、置いて逃げた」
「何言ってるの、エリーザ」
母の声は、優しかった。
「あなたは逃げたんじゃない。新しい道を選んだの」
「デモ......」
「エリーザ、聞いて。私は、あなたが魔女として生きることを誇りに思ってる。曾祖母も、きっと同じ気持ちよ」
母は続けた。
「日本で、自由に魔法をしてるんでしょ? それが、あなたの使命なの」
「ママ......」
「だから、泣かないで。あなたは、正しい選択をしたの」
エリーザは、涙を拭った。
「アリガトウ、ママ。愛してる」
「私も愛してるわ、エリーザ。元気でね」
電話を切った後、エリーザは深呼吸した。
心が、少し軽くなった気がした。
翌日、エリーザは蓮に言った。
「レン、昨日、アリガトウ」
「いえ、俺は何も......」
「レン、優しい言葉、言ってくれた。『一人じゃない』って」
エリーザは笑顔で続けた。
「レン、ワタシの大事な友達」
蓮は、少し照れくさそうに頷いた。
「俺も、エリーザさんを友達だと思ってます」
「ジャ、コレカラも、ヨロシク!」
「はい、よろしくお願いします」
二人は、笑顔で手を叩き合った。
その日の午後、ニコライが「呪文屋」を訪れた。
「エリーザ、昨日は大丈夫だった?」
「ウン、ダイジョウブ。レンが、励ましてくれた」
エリーザは、蓮を紹介した。
「レン、コレ、ニコライ。ルーマニア人の留学生」
「初めまして、佐々木蓮です」
「ニコライ・ポペスクです。エリーザのこと、よろしくお願いします」
二人は握手を交わした。
ニコライは、エリーザに小さな袋を渡した。
「これ、昨日のカフェでもらったんだけど、君に渡そうと思って」
袋の中には、乾燥させたハーブが入っていた。
「コレ......ルーマニアのハーブ!」
「うん。オーナーが、ルーマニアから取り寄せてるんだって。魔女なら、使えるかなと思って」
「アリガトウ、ニコライ!」
エリーザは、ハーブの香りを嗅いだ。
懐かしい香り。
故郷の香り。
「コレ、『呪文屋』で使う」
エリーザは、笑顔で言った。
「ルーマニアの魔法、日本で広める」
「それがいいね」
ニコライも笑った。
「僕も、何か手伝えることがあったら言ってね」
「ウン! ニコライ、トモダチ!」
その日の夕方、エリーザは井の頭公園のベンチに座って、ルーマニア民謡を歌った。
今度は、一人じゃなかった。
蓮が隣に座って、静かに聞いていた。
♪ Dorule, dorule... unde mi-ai fost,
(憧憬よ、憧憬よ......どこにいたの)
Că eu te-am căutat și nu te-am găsit.
(私はあなたを探したのに、見つからなかった)
歌い終わると、蓮が拍手した。
「綺麗な歌ですね」
「ウン。故郷の歌」
エリーザは、空を見上げた。
「デモ、今、ワタシ、ココにいる。日本に」
蓮も空を見上げた。
「エリーザさん、日本は好きですか?」
「ウン、好き。優しい人、タクサンいる」
エリーザは、蓮を見た。
「レンも、優しい」
「ありがとうございます」
蓮は笑顔で答えた。
「これからも、一緒に頑張りましょう」
「ウン!」
エリーザは力強く頷いた。
故郷は遠い。
でも、ここにも居場所がある。
ルーマニアの魔女として、日本で生きていく——
それが、エリーザの新しい道だった。
【第四話 了】
次回、第五話「農家の伯母さんと豊作の祈り」へ続く。
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