4F病棟

神崎彰という男と、強烈な初対面を果たした翌日、広瀬の午前中は、病院という巨大な組織のシステムを頭に叩き込むためのオリエンテーションに費やされた。配布された分厚いマニュアルと、矢継ぎ早に説明される院内規則。その一つ一つが、大倉総合病院という精密機械を構成する歯車であることを、彼は理解した。


午後、広瀬は初めて自身の主戦場となる場所へ足を踏み入れた。本館四階、外科病棟。構造は、他の総合病院と大差ない。フロアの中央に、ナースステーションや処置室、薬品庫といった機能的な区画がまとめられ、それを挟むようにして、廊下の南北両側に病室が配置されている。窓の大きい四人部屋が標準で、差額ベッド代が必要な個室も用意されている、という合理的な設計だ。


広瀬を待っていたのは、神崎その人だった。


「回診を始める。君の受け持ち患者は七人だ。全員、私が執刀した」


神崎はそれだけ言うと、無駄のない動きで歩き出した。広瀬は慌ててその後を追う。神崎は各ベッドサイドで、患者の名前、術式、術後の経過、そして現在の課題を、必要なデータのみで簡潔に広瀬に伝達した。その説明には一切の冗長も感情も含まれていない。それは、完璧に組まれたプログラムの仕様書を読み上げるかのようだった。七人全ての引き継ぎを終えた時、壁の時計は午後四時を指していた。


「何か質問は」と神崎は言った。


「いえ、現時点では」


「そうか。では後は任せる」


神崎は背を向け、エレベーターホールの方へ迷いなく去っていった。その背中からは、部下に仕事を任せたら、そのプロセスに一切口を挟まないという、彼の哲学が窺えた。


一人残された広瀬は、ナースステーションへと向かった。これからここで、膨大な量の情報を処理しなくてはならない。それは、この外科病棟という戦場で生き残るための、最低限の準備だった。


彼はまず、スチール製のラックに整然と並べられた、患者一人ひとりのファイル、すなわち紙のカルテの前に立った。神崎から引き継いだ七人の患者のデータを、自身の目で再確認するためだ。パラパラとページをめくり、手術記録、検査データ、術後の経過といった情報を、事実として頭の中にインプットしていく。


この病院も、いずれは完全な電子カルテに移行する過程にあるようだった。紙のカルテと並行して、据え置き型の端末も数台設置されている。アナログとデジタルが混在する過渡期のシステムは、新人にとっては二重の負担だ。広瀬は、端末の操作方法も同時に覚えなければならない、と自らに課した。


一通りカルテに目を通した後、広瀬はステーションから出て、病棟全体を歩き始めた。薬品庫、リネン室、医療機器の配置、そして、緊急時に他の科へ応援を要請する場合の最短ルート。脳内に、この病棟の三次元マップを正確に描き出す。あらゆる事態を想定し、最短かつ最も合理的なアクションが取れるようにしておく必要があった。


その、システムを解析するかのような広瀬の様子に気づいたのか、ベテランらしい落ち着きのある主任ナースが声をかけてきた。


「広瀬先生、お疲れ様です。先生も大変ですね。よろしければ、スタッフを紹介させてください」


病棟の主任ナース、佐藤の言葉に、ステーション内にいた数人のナースが広瀬の方を向いた。彼女は、一人ひとりの名前と、おおよその経験年数を手際よく紹介していく。広瀬は、それぞれの顔と名前、役職を記憶に刻んでいった。その中に、広瀬よりは年上と思われるナースがいた。年齢は、20代後半かと思われる。まだ白衣に着られているような、どこか仕事に慣れていない雰囲気さえ感じられた。


主任ナースは、その女性を指して言った。


「そして、こちらが当病棟の副主任、相田遥さんです」


広瀬は、内心わずかに驚いた。副主任。それは、豊富な経験と管理能力が要求される、病棟主任看護師に次ぐナンバー2のポジションのはずだ。目の前の、若く見える女性の姿とは、経歴上、整合性が取れないように思えた。相田遥と呼ばれたナースは、感情の読めない表情のまま、会釈ともいえるほど軽く頭を下げた。その動きには、新人が見せるような硬さはない。


一通りの紹介が終わり、ナースたちがそれぞれの仕事に戻っていく。その中で、その相田遥が、まっすぐに広瀬の方へと歩み寄ってきた。その足取りに、おずおずといった様子は微塵も感じられない。


「広瀬先生」


「はい」


「相田です。よろしくお願いいたします」


その声は、若々しい見た目とは裏腹に、落ち着き払っていた。実直そうな、真っ直ぐな目が、新任である広瀬を静かに、そして冷静に観察している。広瀬は、彼女のその視線に、明らかに自分を評価している色を感じ取った。


「ご丁寧にどうも。私は、今日が勤務初日でして」


広瀬がそう言うと、相田遥は初めて、少しだけ眉を上げた。そして次の瞬間には、その無表情だった顔が、ごくわずかに和らいだのが見て取れた。


「そうでしたか。それは、お疲れ様です」


その言葉は、ベテランが新任者に向ける、どこか余裕のある響きを持っていた。

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