英語を学ぶということ
21世紀現在、英語は世界の共通語である事実は揺るぎなき真実である。国連の公用語に名を連ねる言語は多数存在するものの、「事務作業言語」として実務に使用されるのは英語とフランス語のみであり、事実上この二つのみが国際標準語としての地位を有すると考えてもよい。世界に存在するウェブサイトの過半数が英語、もしくは英語版があるサイトであり、英語ができるか否かで得られる情報量は大きく異なる。国際的に評価される論文や文学作品も英語やフランス語を原典とするものが相当数を占めるが、これも世界の標準語であるために各国語に翻訳されやすく、国際的な知名度が得やすいことによる。これに対し、日本語や越南語といったマイナーな言語で書かれた文学等は、まずは英語やフランス語に訳され、その英仏訳をベースに他言語に変換する、というプロセスを経るしかなく、元から英語やフランス語で書かれた作品に比べ元のニュアンスが損なわれるなど品質が劣化しやすい。現に、ここカナダで英語やフランス語の字幕付きで日本のアニメを見ていると、「少尉」が「Shinobi」と訳されるなど、失笑を禁じえぬレベルで出鱈目ということはよくあることであり、翻訳という作業は多かれ少なかれ原作者の意図を捻じ曲げる効果があり、その回数を重ねるほどに訳者の常識や思想が入り混じってカオスとなってくるのである。
したがって、グローバル社会において「正しい情報、正しい理解、正しい常識」を身に着けるためには、「一定の英語力または仏語力を有する」というのはもはや人間として必須のコミュニケーション能力と言っても過言ではない。英語ができず、母語を異にする相手に向かって日本語、ベンガル語、ウルドゥー語といった自国語で喚き散らし、理解しない相手を詰る輩は、もはやコミュ障であり情弱である。時間に追われて忙しい中、己の理解の及ばぬベンガル語で訳の分からぬ話を振られ、意図さえ理解できない雑談に付き合わされるなどというのは、もはやそれ自体が精神的虐待を受けているにも等しく、英語のできない人間というのはもはや社会的に容認されうるレベルのマナーやモラルを欠いた存在と言えよう。就中訪日外国人に対して「ここは日本なんだから日本語をしゃべれ。日本語が話せない奴は帰れ」と言うような自称右翼の排外ゴミ(右翼の風上にも置けないためこう呼称)どもは、東京からの観光客に対し「ここは青森だはんで津軽弁さ喋れ。喋れんおめえは常識がねえ。帰れ」などと暴言を吐き、郷土の品位を辱めて経済の停滞を招く老害と、一次元フェーズが違うだけで全く同種の愚行を犯していると言いたい。
JTCにおいては一定の英語力を有していることがわかると、中間管理職を巣食うバブル世代のジジイどもに「じゃあてめえパツキンの姉ちゃんとヤったことあんのか?ヤれてねえんなら意味ねえじゃんかよ。英語の前に日本語でまともにコミュニケーションとって女と寝てみろ。フェラの一回も経験ねえんだろ?頭いい奴アピールしてんじゃねえぞこの童貞風情が」などとコミュ障のレッテルを貼られるのが常であるが、国際的にはむしろ英語ができない方が圧倒的にコミュ障であり、母国語しか操れぬモノリンガルはその母国語が英語である場合を除いて人材として評価されない。そんなわけで、英語は義務教育課程の必須科目ともなっており、全球規模では英語力はその人物の「人間力」を測る重大な指標の一つでもある。それ故に英語力を客観的に測ることのできる各種試験には、他の外国語にはない大きな需要があるわけである・・・はずだが、なぜか日本国内において社員の英語力を評価する企業は寡少であり、むしろ酒の席で上司に媚びを売れるかの方がはるかに重視されるのはまことに不可思議である。多くの人にとって職場の酒の席でパツキンの姉ちゃん相手にヤってもらったりフェラしてもらった武勇伝が語れるようになることの方が遥かに重要であるわけだから、JTCでマウントを取れる余地のある英検やTOEICはともかく、IELTSともなれば名前も聞いたことのない存在となるのであろう。
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