第9話 サナトリウム

 「ほっかほか弁当 たけのこ」の裏口から出た春枝は、茂を連れて、まるで追われているかのように速足で家路を急いだ。茂は、事の重大さが理解できず、ただ春枝の手を強く握っている。春枝は、握られたその手の温もりが、逆に自分を縛りつける鎖のように感じられた。

​ 自宅に戻った後も、春枝の心は「たけのこ」の店内に置き去りにされたままだった。高齢の女性が放った「認知症だからって、何でも許されるわけじゃないでしょう!」という一言が、鋭い刃物のように心臓を刺し続けた。

​ その夜、春枝は久しぶりに茂の介護記録を開いた。

​ 12月1日:日中の徘徊が増加。近所の玄関を開けようとする。

 12月8日:入浴を激しく拒否。湯船に浸からず、服のまま風呂場に籠城。

 12月15日:「たけのこ」にて失禁。店主より、今後は入店を控えるよう通告される。

 ​記録の最後の行を、春枝は黒いサインペンで何度も何度も塗りつぶした。彼女の理性は、これ以上、茂の介護を自宅で続けることは社会的な死を意味すると訴えていた。


 年が明け、春枝は意を決して、茂を特別養護老人ホームに入居させる手続きを進めた。しかし、待機期間の長さ、費用の問題、そして何よりも「看取りまで責任を持てる」という施設側の条件が厳しく、手続きは難航した。

​ その中で、春枝がようやく見つけたのは、郊外の山間にある私立の療養所、通称「サナトリウム」だった。医療依存度の高い者や、他の施設で対応が困難とされた認知症患者を専門に受け入れる場所だった。費用は高額だったが、春枝は自宅を売却して捻出することを決めた。

​ サナトリウムへの入居の日、春枝は茂に新しいセーターを着せ、最後の「たけのこ」の唐揚げ弁当(裏口からこっそり購入した)を食べさせた。

​「お父さん。ここは、お父さんがゆっくり過ごせる、大きなおうちだよ。心配しないでね」

春枝はそう言ったが、茂は不安そうに春枝の顔を見つめるばかりだった。

​ 入居から三週間後、春枝はサナトリウムから緊急の電話を受けた。

​「至急、お越しください。茂様が、他の入居者の方と深刻なトラブルを起こされました」

​ 春枝が慌ててサナトリウムに到着すると、そこはまるで時間が止まったような、消毒液の匂いと重苦しい静寂に満ちていた。案内された個室で、彼女が見たのは、顔に小さな擦り傷を負い、怯えたようにベッドの隅に座る茂の姿だった。

​「春枝さん。実は、お父様は、隣室の山野様(88歳・男性、重度認知症)がご自身のベッドに座っているのを見て、『泥棒だ』と激昂されまして…」

​ 担当の看護師は、言葉を選びながら説明した。このサナトリウムでは、入居者同士の小競り合いは日常茶飯事だったが、今回は違った。

​「…お父様は、山野様のことを亡くなった奥様だと強く思い込まれたようで、『なぜこんなところにいるんだ!』と掴みかかり、山野様を殴ってしまったのです」

​ 春枝の耳には、その言葉が遠い轟音のように響いた。茂が、暴力を振るうなど、想像もできなかった。

​「山野様は骨折は免れましたが、胸部に大きなアザができています。申し訳ありませんが、当施設での継続的な受け入れは…」

 ​春枝が絶望の淵に立たされたその瞬間、奥の談話室から、凄まじい怒鳴り声と物が倒れる音が響いた。

​「うおォォォ! 俺の晩飯を盗るな!」

「こいつが、俺の土地を盗ったんだ! 殺してやる!」

​ 春枝が恐る恐る談話室の入り口に目をやると、二人の高齢男性が、職員の制止を振り切り、床に倒れた椅子を跨いで、取っ組み合いの喧嘩を始めていた。一人は、顔を赤くして相手の襟元を掴み、もう一人は、相手の腕に思い切り噛み付いていた。

​ 職員たちは、誰も手出しができない。それは、単なる高齢者の争いではない。崩壊した記憶、奪われた尊厳、そして制御不能になった生への渇望が、純粋な暴力として爆発している光景だった。

​春枝は、その場に立ち尽くした。

(…ああ、そうか)

 ​彼女の頭の中で、「たけのこ」の店内の光景と、目の前のサナトリウムでの殴り合いが、不気味に重なった。

​ 外の世界では、世間体が、社会のルールが、私たちから**「人間の時間」を奪った。

 だが、このサナトリウムという隔離された空間では、「人間の時間」が剥き出しの「本能の時間」**となり、衝突している。認知症とは、社会が貼ったレッテルを剥がし、最も原始的な生存本能と感情だけが残った、純粋な闘争なのかもしれない。

​ 春枝の心は、恐怖と絶望を通り越し、奇妙な解放感に包まれた。

「もう、いい…」

​ 春枝は、泣き出しそうになっている看護師を押し退けるようにして、取っ組み合っている二人の老人に向かって、大きく一歩踏み出した。

​「お父さん!」

​ 彼女は、静かに、しかし、その場の騒乱を鎮めるような強い声で、自分の父である茂を呼んだ。

​(私は、もう誰にも、何も許しを乞わない)

 春枝は、初めて、誰かの視線を気にすることなく、ただ父と、父と同じ運命にある人々の現実に向き合った。

​ 春枝は、このサナトリウムでの「殴り合い」を機に、茂の介護に対する考え方を根本から変えるのでしょうか?

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