第二章 ー記憶の残響ー

扉を押した瞬間、柔らかな音楽と賑やかな笑い声がムスクの耳に飛び込んできた。

 BAR「NOX」――外の静けさとはまるで別世界のように、店内は人と光と声で溢れていた。

 木の香りがするカウンター、壁に並ぶ無数のボトル、ゆらゆらと揺れるランプの灯。

 その全てが、なぜか“懐かしい”と感じた。


 「こっちへどうぞ」

 隣を歩く彼女の声に導かれて、ムスクは店の奥へと進む。

 数人の男女がテーブルを囲み、グラスを傾けながら笑っていた。

 その中の一人がふと顔を上げ、ムスクを見た瞬間――表情が固まった。


 「……ムスク!?」

 驚きの声が店内に響いた。

 立ち上がった男が、信じられないように目を見開き、

 「ムスクじゃねぇか! 久しぶりじゃねーか! やっと戻ってきてくれたか!」

 そう言って勢いよく肩を抱いた。

 ムスクは戸惑い、何も言えずにただ見上げる。


 「ちょ、まって……俺、君たち……誰?」

 自分の言葉が掠れていく。

 その間にも、別の男性が立ち上がり、震える声で言った。


 「……師匠!? 本当に……師匠さんですか……?」

 涙を浮かべながら両手を握ってくる。

 「俺……もう二度と会えないと思ってたんです……!」


 他の仲間たちも次々と立ち上がり、ざわめきが広がった。

 「ムスクだと!? 本物なのか!」

 「嘘だろ、あの“ムスク”が……!」


 その騒ぎを聞きつけ、カウンターの奥にいたマスターも静かに歩み寄ってきた。

 年季の入ったグラスを磨く手を止め、深々と頭を下げる。

 「……ムスクさん。お久しぶりです。」


 (お久しぶり……? 俺、ここに来たの初めてなのに……)

 ムスクは言葉を失い、ただ辺りを見回した。

 誰もが自分を知っていて、誰もが再会を喜んでいる。

 けれど、彼の記憶の中にはその誰一人として存在しない。


 隣の彼女――リナが、静かに彼の腕を取る。

 「座って、ムスク。今はまだ混乱してるでしょうけど……大丈夫。全部話すから。」


 促されるままに、ムスクはテーブルに腰を下ろした。

 カウンター越しに運ばれてきた琥珀色の液体が、淡い光に照らされて揺れる。

 その香りは不思議と落ち着く匂いだった。


 笑い声が戻っていく店内で、リナはそっと呟いた。

 「みんな、あなたの帰りをずっと待ってたのよ……」


 ムスクはその言葉の意味をまだ知らなかった。

 けれど、胸の奥のどこかが――ほんの少しだけ、温かくなった気がした。

リナに促されて席に座ると、ムスクの周りには自然と人の輪ができていた。

 店内のざわめきは少しずつ落ち着き、代わりに懐かしい笑い声と、どこか涙をこらえるような沈黙が混じる。


 最初に口を開いたのは、先ほど肩を抱いてきた大男――アフレイドだった。

 身長はゆうに190センチを超え、厚い胸板がTシャツを突き破りそうなほどの筋肉。

 ダメージの入ったジーンズにランニング姿というラフな格好だが、体格のせいで圧倒的な存在感がある。

 そして背中には、鉄塊のような巨大なハンマー。

 あんなものを振り回せる人間など、そうそういない。


 「ムスク、まじで……帰ってきたんだな!」

 その声には、豪快さと優しさが混ざっていた。

 「俺はもう二度と見られねぇと思ってたぜ。お前がいなくなってから、どれだけの月日が経ったと思ってるんだ」

 ムスクは困惑しながらも、アフレイドの真っ直ぐな瞳に圧倒されて何も言えなかった。


 次に前に出てきたのは、ネオという少年だった。

 身長は160センチほど。小柄で少し臆病そうだが、瞳の奥に光る誠実さが印象的だ。

 「し、師匠……! 本当に師匠なんですか……? 俺、何度も夢で会いました……!」

 そう言って泣きそうな顔で頭を下げる。

 ムスクは戸惑いながらも、その姿になぜか懐かしい感情を覚えた。

 「師匠、って……俺が?」

 「ええ! あの時、俺に剣の握り方を教えてくれたじゃないですか!」

 「剣……?」

 ムスクの記憶には何も残っていない。だが、ネオのまっすぐな視線に嘘は感じられなかった。


 カウンターの奥から、静かに立ち上がった男がいた。

 黒いコートを羽織り、腰には一本の剣を吊っている。

 その鋭い目つきと落ち着いた動きが、ただ者ではない雰囲気を放っていた。


 「……ドレイク。久しいな。」

 アフレイドが笑いかけると、ドレイクは軽く頷くだけだった。

 「ムスクが戻るとはな。世界はまだ終わっていないらしい。」

 その低い声に、ムスクの背筋がぞくりとした。

 彼の剣――漆黒の刃には、微かに光る赤い紋様が浮かんでいた。

 言葉は少ないが、確かな信頼が漂っている。


 そんな三人のやり取りを見て、リナが優しく笑う。

 「懐かしいわね、みんな。まるで昔のまま。」

 彼女は150センチほどの小柄な体に、淡いクリーム色のワンピースを着ていた。

 その柔らかな雰囲気だけで、場の空気が落ち着いていく。

 リナの掌には淡い光が宿っていて、まるで“癒し”そのもののようだった。


 そして――カウンター越しに静かに見守っていたマスターが、一歩前に出た。

 身長は175センチほど、深い紺色のシャツに黒いベスト。

 手入れの行き届いた髭を整え、年齢を感じさせる落ち着いた目をしている。

 「ムスクさん、こうしてまたこの店でお会いできるとは思ってもいませんでした。」

 その声には長い年月を越えた重みがあった。

 「……あなたが戻るということは、また“あの力”が動き出す、ということですね。」


 ムスクはグラスを見つめたまま、リナに視線を向けた。

 「“あの力”って……一体、何なんだ?」


 リナは少しだけ悲しそうに微笑んだ。

 「それを話すために、私はあなたを探していたの。」

 「ムスク――あなたは、“門を越えた者”。

 そして、世界を繋ぐ最後の鍵なの。」


 その言葉に、BAR「NOX」の空気が一瞬にして静まり返った。

 笑い声も、グラスの音も、まるで止まったかのように。

 ムスクの中で、何かがゆっくりと目を覚まし始めていた。

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