ケルマ
白雪花菜
第1話 閑古鳥が鳴いている
「あんた、平和ボケしたね」
そう言って、ニヤニヤと笑う知り合いの情報屋に対して、矢上が答える。
「平和が一番でしょう?」
「それにしたって、平和ボケしてると思うんだけどねえ」
髪が禿げ上がり、風前の灯火で生えている髪で、後頭部をバーコードのように覆った情報屋は地肌を掻いた。バーコードは縒れてしまっていた。
矢上は苦笑し、サイフォンのアルコールランプを付けた。
情報屋にコーヒーを出すためだったが、情報屋はすのうどろっぷから出て行ってしまった。
すのうどろっぷ。それは矢上の経営する喫茶店の名前だ。
神居北区にある年季の入った内装――以前あった喫茶店の居抜きだ――に、カウンター席が八つ、四人掛けテーブル席三つの二十席ある喫茶店だが、生憎、満席になったことはない。
客だと思った情報屋も、「あんた、平和ボケしたね」と言うだけで去って行った。
二〇二五年五月九日金曜日、一九時。すのうどろっぷには客がいない。
「あれ、矢上さん、今の方、お客さんじゃないんですか?」
アルバイトの北山心春がそう言って首を傾げた。
それに合わせて、心春のピンクブラウン――正直、矢上にはどのような色に染められているかよくわかっていない――に染められた髪が揺れた。
「あの人は昔の知合いです。時々含蓄のある言葉を言ってくれるんですよ」
「……含蓄ある言葉でしたか? あれ。今日もお客さん来ませんね。お店の経営大丈夫なんですか? そもそもあたしなんか雇ってる余裕あるんですかね?」
「北山さんは心配しなくていいんですよ」
「でも、あたしがバイトとして入って、一年くらいですけど、全然お客さん来てないですよね? 何がいけないんですかね? マスターの分厚い前髪ですかね?」
「私の前髪はこれでいいんですよ?」
「えー、でも前髪あげているのも見てみたいかも」
「そんなことより、今日のまかないを用意しましょうね」
矢上が心春に言うと、彼女は目を輝かせた。
「えー、楽しみです」
心春はにこにこと笑う。矢上は銀縁メガネの奥にある目を心春に向けた。
――ポジティブな感情をすぐに表して、可愛らしい。
矢上は眩しそうに目を細めた。最早、矢上には同じことはできない。
矢上はリズムよく、ナスを切っていった。切ったナスには、塩をまぶし、あく抜きをする。
その間に、フライパンにオリーブオイルとニンニクを入れ、火にかけてニンニクの香りを引き出す。ニンニクの旨味を感じられる香りがしてきたら、みじん切りにした玉ねぎを入れて炒め、次いでひき肉も炒める。
矢上は、別のフライパンを取り出し、サラダ油を多めに敷いた。ナスの水気をキッチンペーパーでふき取ると、そこにナスを入れて揚げ焼きにする。
矢上は、ひき肉を炒めているフライパンに目を向けた。ひき肉の色が変わっている。矢上は、そこにトマトペーストを加えた。次いでパプリカ、トマト、ピーマン、水も加える。
パプリカもトマトもピーマンも、ナポリタンにでも使おうと思っていた食材だった。だが、生憎、ナポリタンを頼む客はいなかった。
イタリアンパセリを入れ、塩胡椒で味をつけると、矢上は揚げ焼きにしたナスも投入した。ナスがとろとろになるまで煮込むのが肝だ。
矢上はオーブンの設定を二二〇度にして、余熱をした。
矢上はちらり、とカウンター席に目を向けた。心春がカウンター席を拭きながら、嬉しそうに「いい匂いー」と言っていた。
「まだ、本番はこれからですよ」
「でも、この時点で美味しそうです! あたしもStella Kitchenで作ってみたいです!」
Stella Kitchenとは、心春が入っている大学の料理サークルだった。
「では、レシピを後で渡しましょう」
「えー、ありがとうございます、マスター」
心春はにこにこと笑う。
矢上は心春の笑顔を見て、微かに笑った。
煮込んだ具材を耐熱皿に入れ、櫛切りのトマトとピーマンを上に載せる。丁度余熱が終わったオーブンに、矢上は耐熱皿を入れた。
一〇分は、オーブンで焼かなければならない。その間に矢上は調理器具を洗う。料理とは、調理器具を元に戻すまでが料理だ。
七分くらいで、トマトが焼けるいい匂いがしてきた。その更に三分が経ったところで、矢上はオーブンから耐熱皿を取り出した。
トルコ料理のムサカの完成だ。
矢上はサイフォンで淹れたコーヒーを温かいミルクが入ったカップに注ぐ。
心春は喫茶店でアルバイトをしていながら、コーヒーが苦手だ。そして、海鮮問屋の娘でありながら、生魚も苦手だ。
矢上はカフェオレとムサカをカウンター置いた。
「今日のまかないのカフェオレとムサカです」
「マスター、ありがとうございます。新作ですよね? 美味しそー」
心春はカウンターの椅子に座りながら言った。
トマトとピーマンが交互に載せられ、目にも鮮やかなひき肉料理を見て、心春は目を輝かせた。
心春は耐熱皿にスプーンを入れた。とろとろのナスが湯気を立てていた。「うーん、熱そう」と言いつつ、心春は櫛切りのトマト、ひき肉とナスを口に頬張った。
「――美味しいー! トマトの甘味とひき肉が合うし、ナスもとろとろー!」
心春は目を瞑った。美味しいものを食べる時、心春はいつもこの仕草をした。
矢上はアルバイトとして入ってきたての心春にバリック・エキメッキ――要はサバサンドを賄いとして出したとき、心春は顔を顰めていた。彼女は海鮮問屋の娘だが、生魚は苦手だったし、焼いた魚に対しても保守的だった。
だが、心春は意を決して、サバサンドを口にした。
この時も心春は租借しながら、目を瞑っていた。
「ねえ、マスター、こんなに美味しいんだから、もっと宣伝しましょうよ。今日だってお客さん来なかったし」
心春は緑色のピーマンを頬張りながら言った。
「……すのうどろっぷは静けさが売りなんです。落ち着くでしょう?」
「いや、落ち着きすぎて潰れちゃいそうですよ」
心春は的確な突っ込みをした。
「まあ、大丈夫ですよ。今日も平和に一日が終わって」
「まあ、平和で何事も変わらない毎日でしょうけど……あ、そういえば、Stella Kitchenが今度テレビ取材されるんです!」
心春のはしゃいだ声を聴いて、矢上は銀縁メガネの奥にある目を細めた。
「それはよかったですね。北山さんは結構映るんですか?」
「部員が一〇〇人ほどいるんで、あたしは全然でないと思います。でも、Stella Kitchenが全国区なるんです! 神居市名物のスープカレーを作るんですよ!」
心春はぐっと拳を握り込んだ。彼女の意気込みが矢上にも伝わった。
「では、頑張ってくださいね」
「取材は月曜日の夜の八時頃なんです! すのうどろっぷにあたしがいなくても、矢上さん、頑張ってくださいね」
「何を言ってるんですか」
矢上は微笑んだ。心春はえへへ、と笑う。
その時、丁度軽い地震があった。キッチンの棚の一番上にあった、コリアンダーとクミンシードの瓶が落ちて来た。
心春のいるカウンターを挟んで立っていた矢上にとって、調味料の棚は少し離れていた。だが、矢上は簡単にコリアンダーとクミンシードの瓶を手で受け止めた。
「すごっ、早っ!」
心春は目を丸くした。
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