赦されざる愛の断罪
比絽斗
静寂なる破滅
季節は秋
都心の名門大学のキャンパスは、色づき始めた銀杏の葉が風に舞い、穏やかな静寂に包まれていた。
しかし、人知れず、一つの人生、そして二つの未来が、音もなく崩壊していた。
裏切られた男
佐伯 悠真(さえき ゆうま)は、この静けさを憎んでいた。
彼にとって、世界はもはや銀杏の葉のように美しくも穏やかでもなく、凍てついた砂漠だった。彼の恋人、桐野 志穂(きりの しほ)が、同じ大学の助教授、結城 徹(ゆうき とおる)と愛欲に溺れていたという事実を知ってから、
わずか二週間
悠真は、自らの血縁が持つ、途方もない権力によって、その復讐が静かに、だが確実に進行していることを知っていた。
悠真の叔父、佐伯 宗一郎(さえき そういちろう)は、世界的な権威を持つ医学部の教授であり、大学の理事会にも強い影響力を持つ「力」そのものだった。
両親を早くに亡くした悠真を、宗一郎は実の息子のように可愛がり、その愛情は時に過保護に思えるほどだった。その甥が、専攻学部の違う文学部の学生である志穂と、若きエリートである助教授に裏切られたと知った宗一郎の怒りは、大学内の権力構造を一瞬で塗り替えるほど強大だった。
悠真は、人間不信の淵にいた。志穂の愛も、結城の知性も、すべてが偽りだった。
宗一郎の復讐は彼の痛みを和らげるかもしれないが、悠真自身は、愛の残骸の上で、ただ凍えていた。
渇望と劇薬
志穂が堕ちていったきっかけは、単なる肉欲だけではなかった。それは、満たされない承認欲求と現実への倦怠だった。
志穂は、聡明で美しいと周囲に評されていたが、恋人である悠真の穏やかで誠実な愛は、彼女にとって「予測可能」で「物足りない」ものに感じられ始めていた。
安定はつまらない。
彼女は、自分の才能や魅力を、もっと劇的で、もっと危険な場所で証明したかった。
結城助教授は、その渇望に気づいた、悪魔的な誘惑者だった。
初めて結城に声をかけられたのは、志穂が文学部の廊下で、提出期限の迫った卒論のテーマについて悩んでいた時だった。
「桐野さん。君の視点は面白い。だが、その論考は君の真の情熱を隠しているように見える」
彼は、彼女の提出したレポートの一部を指し、囁いた。彼の瞳には、学術的な探究心とは違う、熱を帯びた光があった。
それから、
二人の関係は急速に、そして密かに進行した。
研究室での深夜の議論。それは次第に、薄暗い喫茶店の角席、そして誰にも知られない都心の高級ホテルの部屋へと移っていった。
結城は、彼女が求めていた「特別感」を完璧に与えた。
「君のような才能ある女性が、つまらない日常に埋もれているのは罪だ。君だけは、他の学生とは違う。私は、君のすべてを理解し、求めている」
彼の言葉は、志穂の心の奥底に響く甘美な劇薬だった。
教員と学生、既にある恋人という二重のタブーを破る関係は、彼女に究極の背徳的な高揚感を与えた。
「愛されている」のではなく、「特別である」こと、そして「倫理を超えた情熱に身を委ねている」という自意識が、彼女の罪悪感を麻痺させた。
彼女は、自分たちの関係を「運命的な愛」だと信じ込んだ。
悠真の真摯な愛は、色褪せ、遠い記憶の残像のようになっていった。
彼女は、この熱狂こそが「本当の自分」だと錯覚し、破滅へのアクセルを自ら踏み込んだのだ。
叔父の怒り、天罰の執行
佐伯宗一郎の復讐は、「慈悲はない」という彼の信念に基づいて、迅速かつ徹底的に実行された。
宗一郎は、まず結城徹の過去を徹底的に洗い出した。世界的権威の力を借りた調査は、彼のプライバシーの壁をいとも簡単に突き破った。
結城 徹(ゆうき とおる)
彼は、優秀な研究者ではあったが、その裏側には、権力を利用した女性問題の常習犯という、おぞましい顔があった。そして、決定的な証拠が浮上した。過去に、指導する立場の優位性を利用し、複数の学生に不適切な関係を強要していた事実。さらには、高校の特別講義で知り合った未成年の女子高生にも触手を伸ばしていたという、動かぬ証拠だった。
宗一郎は、医学部の重鎮としての地位と、学会でのコネクションを最大限に利用した。
「甥を裏切ったこと自体は、私的な問題だ。だが、この男の行為は、教育者として、人間として、絶対に許されない。これは、佐伯家としての私怨ではない。学問の世界と、未来ある若者を汚した罪に対する、断罪だ」
宗一郎の指示のもと、大学理事会は緊急会議を開き、結城の過去の悪行に関する内部告発と証拠が、匿名で、だが権威あるルートを通じて提出された。
結城の破滅
復讐は、まず結城のキャリアの「死」から始まった。
大学からの追放: 結城は、不適切な行為を理由に、即刻、助教授の職を解雇された。
学会からの抹殺
宗一郎が手を回し、彼が発表予定だった重要な研究は、倫理規定違反を理由にすべて却下された。学会からの追放処分が、非公式に決定された。彼の名前は、学術界のデータベースから「無かったこと」にされた。
社会からの断罪: 過去の悪行が内部告発という形でジャーナリストにリークされ、彼の名前と経歴は、全国ネットのニュースで報道された。特に未成年への不適切な行為が強調され、世論の非難は沸騰した。
結城は、社会的地位も名誉も、そして未来のすべてを失った。アパートのドアには、無数の取材陣が押し寄せ、彼は部屋から一歩も出られない
「生きたままの社会的な死」を迎えた。
彼に、手を差し伸べる者はいなかった。裏切り者には、慈悲はない。彼の破滅は、彼自身の過去の罪によってもたらされた、自業自得の結末だった。
志穂への制裁
一方、志穂への制裁は、未来の剥奪という形で執行された。
宗一郎の力は、大学の枠を超え、志穂が内定を得ていた大手出版社にも及んだ。宗一郎と親交のある有力な経済界の人物を通じて、彼女の「倫理観の欠如」と「学内での不祥事」に関する情報が、非公式に、だが確かな形で伝えられた。
数日後、志穂の手元に届いたのは、
人事部長名義の「内定辞退のお願い」という、冷たい通知だった。理由は表向き「経営状況の変化」だったが、彼女自身、その裏にある真実を知っていた。
家族からの疎遠
父親は激怒し、「お前のような恥知らずな娘は、佐伯先生に顔向けできない」と、彼女との連絡を一切絶った。
友人からの孤立 大学内では、彼女の噂は瞬く間に広がり、親しかった友人も、宗一郎教授の甥を裏切った彼女を、恐れと軽蔑の目で遠ざけた。
大学の休学 精神的に追い詰められた志穂は、学業を続けることもできなくなり、大学に休学届を提出した。
彼女は、住む場所も、働く未来も、そして心を許せる人間関係も、すべてを失った。愛欲に溺れた代償は、あまりにも大きすぎた。
彼女は、豪華な部屋の中で、誰もいない孤独な世界に閉じ込められ、破滅的な愛がもたらした絶望の中で、ただ泣き崩れるしかなかった。
和食の灯り、凍てつく心への救い
復讐が終わり、すべてが瓦礫となった後、最も深く傷ついたのは、佐伯 悠真だった。
叔父は裏切り者たちを徹底的に断罪したが、悠真の心に残ったのは、人間不信という、冷たい虚無だけだった。
愛する人が、自分のすぐそばで、別の男と愛を交わしていたという事実は、彼の心の根幹をねじ曲げた。
ある夜、キャンパスから離れた下町の一角を彷徨っていた悠真は、古民家を改装したような、小さな和食料理店「灯(ともしび)」の暖簾をくぐった。
店の中は、静かで温かい光に包まれていた。カウンターの中では、
一つ年上の女性が、静かに野菜の皮を剥いていた。彼女の名前は、『水沢 葵』(みずさわ あおい)といった。
悠真は、勧められるままに、カウンターの隅に座り、何も考えずに「おまかせ」を注文した。
葵が出してくれたのは、出汁の香りが立つ、かぼちゃの炊き合わせだった。
一口食べた瞬間、悠真の凍てついていた心臓が、微かに溶けるのを感じた。それは、手の込んだ高級料理とは違う、誰かの手の温もりを感じさせるような、優しい味だった。
「美味しい、です...」
悠真は、数週間ぶりに、心の底から声を絞り出した。
「ありがとうございます。料理は、正直ですから。誰かのために作ると、その優しさが味に出るんですよ」
葵は、悠真の憔悴しきった表情を一瞬見て、そう答えた。彼女の言葉は、まるで彼の心を透かし見ているようだった。
悠真は、それから毎日のように「灯」を訪れた。
葵は、悠真の過去や身の上を尋ねることは一切しなかった。ただ、彼が店に来るたびに、その日の彼の心に寄り添うような料理を出した。
ある日は、
彼の頬の緊張を緩めるような、優しい玉子焼き。 またある日は、疲れた体に染み渡る、熱々の鯛のあら汁。
彼女の料理は、
悠真にとって、「裏切り」の毒を浄化する「解毒剤」だった。そこには、駆け引きも、欲望も、虚栄心もない。あるのは、食べる者への純粋な思いやりだけだった。
数週間が経ち、葵は初めて悠真に話しかけた。
「佐伯さん、何か大変なことがあったのは分かります。でも、料理は裏切りません。一生懸命作れば、必ず美味しくなる。
だから、人間も同じですよ。裏切り者もいるけれど、真心を込めて生きていれば、必ず、真心で返してくれる人に出会える」
その言葉は、叔父の復讐よりも、何よりも、悠真の心を深く揺さぶった。
彼は、葵の目の中に、志穂や結城の中には見つけることのできなかった。揺るぎない「誠実さ」を見た。
悠真は、叔父の権力によって裏切り者たちを徹底的に断罪し、復讐を完遂させた。しかし、彼自身が人間性を取り戻すための真の救いは、復讐の権力ではなく、「灯」の温かい光と、葵の手作りの料理という、極めて日常的な場所にあったのだ。
彼は、志穂と結城が辿った破滅的な末路を、二度と繰り返さないと誓った。叔父の力に頼るのではなく、葵の真心の料理のように、自分自身の力で、温かく、誠実な人生を築き直すことを決意した。
「葵さん。俺は、もう一度、人を信じたい。あなたの料理を、そして、あなたを」
静かな「灯」のカウンターに、一筋の希望の光が、未来を照らし始めていた。裏切り者に慈悲はないが、傷ついた者に「再生の機会」は残されている。彼の新しい人生は、ここから静かに始まった。
取り敢えず終了
この物語は、「裏切り者に慈悲はない」という断罪の側面と、「真の愛と救いは日常にある」という再生の側面を対比させ、悠真が人間不信から脱却するまでの過程を描き、完結とさせていただきました。
この物語の結末について、何か他に掘り下げたい点や、感想などございましたら、お聞かせください。
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