梟悪

第1話 切れない縁

 細く、突き抜けるような長身だった。身に纏う年季の入った袈裟が短く見える。ところどころ縮れて赤茶けた黒髪は整髪剤で毛先まで整えられていた。覗くうなじがひどく白い。一直線に伸びた背中の印象だけでも随分若い住職だったが、滑らかに袈裟を捌き大鏧だいきんを鳴らす姿は場数を思わせた。読経は丁寧で深く、心地いい。

 黒田龍之介は、声に合わせて揺れる白い吐息をぼうっと眺めていた。周囲を埋める喪服の男たちが一斉に両手を合わせる。恰幅が良く、目つきの鋭い男たちの頭が下がる様子は壮観だった。ピリリとした視線を感じる。隣に座る男が龍之介を睨みつけていた。彼らにとっては十分部外者だろう。勧められるまま中央の席に座ったことを後悔した。龍之介は頭を正面に固定して、かじかむ手をそっと合わせる。写真の中の長谷川直人は引き締まった威厳のある表情をしていたが、龍之介の脳裏に浮かぶのは解けた笑みばかりだ。

 偉丈夫だった。恵まれた体格は、いつも三つ揃えのオーダースーツに包まれていた。柄物のシャツやタートルネックを合わせる洒落た着こなしを好み、優しい笑みをたたえていた。いい意味で極道らしくない男だった。写真の中で着ている深いブラウンのスーツは長谷川が特に気に入っていたものだ。淡いブルー系のシャツにネイビーのネクタイを締めている。

 耳心地のいい経が止まる。これだけ大人数の焼香の間、一度も途切れることなく、掠れることもなかった。すっと住職が立ち上がる。故人へ深く下げた頭がこちらを向いた。およそ聖職者とは思えぬ鋭く暗い目つきだった。はっきりとした顔立ちと整えられた細い眉のせいか、最初の印象以上に年若く見える。熟練した経、ゆったりした仕草や口調とかみ合わず、龍之介には年齢の判断がつかなかった。

 説教を終えた住職が胸元に冊子を差し込み、頭を下げた。すっと足が出る。一歩一歩確実に進んでいるはずなのに、足音を感じない。聞き慣れない袈裟の衣擦れの音だけが奇妙に響いた。代紋を背負った男たちの間を抜ける堂々とした色白の男。動くたび袈裟の刺繍が鱗の如く揺れている。爛々と輝く瞳と一瞬かち合った気がした。龍之介にはその奥に深い寂しさが横たわっているように見えた。

 龍之介は、よく似た瞳を知っていた。すっかり思い出さなくなった懐かしい記憶が蘇る。

「今日からお前が面倒見てやれ」

 十年前、突如長谷川が連れて来た金髪の少年は「大城しょう」と名乗った。十八歳になったばかりだそうだ。殴られてボロボロになった顔は明らかに訳ありだったが、肌艶は良く発育もいい。一八〇センチある龍之介と同じくらいの高さに頭があった。それでも頼りなく見えたのは体型と白い肌のせいだろう。肌触りの良さそうなTシャツから覗く腕に古い傷跡は見当たらず、他人を殴ったこともない綺麗な拳をしていた。何気なく履いているジーンズも安物には見えなかった。

「……働かせろってことですか」

「好きにしていい。寝床くらいは用意しろよ」

「当然ですよ」

 長谷川が乱暴に翔の頭を撫で、龍之介の前に差し出す。幼さの残る丸い目が、戸惑う龍之介をじっと見つめていた。瞳の奥に寂しさと怯えを感じる。どうしたものかと思った矢先、翔の腹の虫が鳴った。龍之介と長谷川が顔を見合わせて笑い、翔は照れくさそうにはにかんだ。八重歯が光る。

「とりあえず飯だな」

 人懐っこさと愛想だけが取り柄の坊っちゃんだった。馬鹿がつくほど真面目な癖に生活力がなく苦労したことを思い出す。龍之介の元を去るまで、結局二年ほど世話を焼いた。思えば相当な箱入り息子だったのだろう。あれだけ大きな寺の後継ぎだったのだから。


 パチパチと炭が音を立てて跳ねる。焼肉黒王最上級の霜がテラテラと輝いていた。店長である龍之介は、最高の焼き加減を知っている。表面だけを炙るように焼き、網からおろした。こだわりの原材料を使った秘伝のタレに潜らせると、肉と炭、タレの香りが絡み合い鼻腔と腹をくすぐった。

「ほら、食え」

 肉を挟む龍之介の箸からタレが滴り落ちる。白く大きな手が龍之介の腕ごと箸を掴み、自らの口へと運んでいった。

「うまっ!」

 とろけるような霜降りは、肉を切る八重歯をくぐりあっという間に咀嚼された。相変わらず色白で華奢な体だが、以前に比べれば多少はマシになったかもしれない。――葬儀の時のような貫禄はないが。

 龍之介の口角が上がる。臆面もなく見つめてくる瞳もそのままだった。

「龍さん、相変わらずいい筋肉すねぇ……」

「お前は相変わらずガリガリだな」

「体質なんで」

 翔が不服そうに口を尖らせた。捲り上げたブランド物のセーターから覗く白い腕と、龍之介の黒いTシャツから剥き出した筋肉質の腕を見比べて溜息をついている。

「筋トレまだやってんすか」

「唯一の趣味だからな」

 ただの趣味も続けていれば効果はあるらしい。年の割には逞しい体をしている自覚はあったが、隣の白く骨ばった腕に比べればどんな男の腕も立派に見える気がした。ふいに翔がカウンターに置いた手を開いた。つられて龍之介が開くと、得意げに笑った。

「あ?」

「やっぱり手だけは勝ってますね」

「長さはな。どう見ても俺の方が太い」

「ふはは! 熟練の手ですね」

「うるせぇな」

 再び翔の笑い声が響く。それが止むと、ダクトの音が耳についた。広い店内に残されたたった一つの七輪のために唸り続けている。空っぽの網の下で炭が音を立てた。

 不要な明かりは既に消している。カウンターの天井に埋め込まれたダウンライトだけが、肩を並べる二人の男を照らし出していた。

「龍さん、変わってないすね。美形は年取らないんすか?」

「おだてても何も出ねぇぞ」

「そういうとこも変わんなくて安心します」

 翔はよく龍之介の容姿を褒めてくれたと思い出す。有り難いことではあったが、甚だ疑問だった。龍之介の奥二重の目は目尻が細く切れ込んでいて、気をつけなければ他人を威圧する。薄い唇で弧を描くと出現するえくぼも好きではなかった。

「何でしたっけ。『兄貴の劣化版』?」

「……人に言われんのは腹立つな」

「そういうもんすよねぇ。俺は龍さんが一番かっこいいと思いますけど」

 翔の戯言を聞いていたら、父の馬鹿馬鹿しい自慢話を思い出した。――二重瞼の大きな目、すっと通った鼻筋と上品な薄い唇。黒田家は美形の家系だ。

 ナルシストの父らしい表現だったが、それももう聞くことはない。死に顔まで美しかったのは父にとっては救いであろうか。父の後を追うように亡くなった兄の顔は筆舌に尽くしがたい。兄は覚悟を決めていたのだろう。弟の死に顔は見ないで済むことを願う。

 そういえば、と龍之介は翔に疑問を投げた。

「お前兄貴の顔知ってんのか?」

「……知らないすけど。龍さんが世界一なんで」

「適当かよ」

 翔が気まずそうに視線を逸らしながら笑った。相変わらず敬意の欠片もない奴だ。ヘラヘラとその場限りの言葉を口にする。

「お前は……変わったな」

 葬儀で見た住職と目の前にいる男がどうしても繋がらなかった。今思えば寺という異空間と、夜の明かりのせいだったのかもしれない。

「やっぱ変わってねぇか」

「どっちすか」

 翔は笑った。こうして近くで話していればあまり変わっていないようにも思える。

「まあお前も真面目に働くようになったんだなと思ってな」

「俺は昔から真面目すよ」

 そう言って翔は懐からボックスとライターを取り出し、龍之介に寄越した。

「気が利くじゃねぇか」

「昔から?」

「はいはい」

 適当に相槌を打って有り難く頂く。自分のものは裏に置いたままだった。銘柄も龍之介と同じもので、用意したにしては周到すぎる。いつから銘柄を変えたのか、元々同じだったか、思い出すことができない。煙草とライターを返すと、翔は自然な動きで咥え、火を点けた。

「坊さんの癖にやめなくていいのか?」

 坊主の事情など知らず、どうしてもイメージが先行してしまう。

「どんな者でも信じていれば救われますので」

 翔は見せつけるように深く吸い込み、にっこりと微笑んだ。

「髪はワックスで固めてるわ、肉は食うわ、滅茶苦茶だな」

「それは幸いなことでございます」

 翔は笑みを崩さず、自身を誇るように赤茶けた短髪を掻き上げた。煙草を灰皿に置き、霜降り肉を網へと乗せる。滴る油に火が燃える。香ばしい香りが立ち昇った。

「……お前なぁ……」

「いかがなさいました?」

「やめろ、それ」

「だいぶ板についたでしょ?」

 翔が肉を頬張りながら笑うのを見て、龍之介は呆れたような溜息と共に煙を吐き出す。こうしていると、出会った頃の少年のままだった。数日前の凛々しい姿はやはり夢か幻だったのかもしれない。


 あの葬儀の後。帰路につくところを呼び止められた龍之介は、長身の男を警戒した。住職がわざわざ声を掛けてくる理由が分からず睨みつけたはずだ。まさか翔だとは微塵も思わなかった。名乗った時のしたり顔でようやく記憶と重なったのを覚えている。

 変わらず懐いてくる翔に、龍之介の口から出たのはありきたりな近況を伺う言葉だけだった。それから。

「……肉は食っていいのか?」

「大好きです」

 翔はからりと笑った。龍之介は番号を変えていなかった。まだ登録してあるという翔からワンコールを受けた後、「またな」と曖昧な約束をして別れたのが数日前。店の前をふらふらしていたところを捕まえて、閉店後の店内に連れ込んだのが、今だ。翔からは酒の匂いがした。

「坊さんも酒飲むんだな」

「『付き合い』すよ……なんすかその顔」

「坊さんの付き合いにも酒があるんだな、と」

「そりゃありますよ。それより龍さんの肉が食いたいです」

「なら暖簾くぐれ、バカが」

「暖簾仕舞ってたじゃないすかぁ」

 翔は悩みの多い奴だった。そういう時は肉を食わせてやるのが常だった。何かと世話を焼いていたのは、長谷川に頼まれたからで、まだ若く守るべき対象だったからだと思っていた。十年ぶりに再会した既に自立した男に同じように接してしまったのは、記憶のせいか、この男が無視できない何かを持っているのか。何にしても、どうにも切れない縁というものはある。


 顔を伏せているとまた翔の視線が刺さった。何が楽しいのか、暇さえあればじっと観察してくる。不快感はない。世話をしていた二年の間に慣らされてしまったのかもしれない。顔を上げれば予想通り、翔の視線とかち合う。翔はにこりと笑った。

「龍さんといると全部どうでもよくなりますね」

「意味が分からん。相変わらず下手な日本語使いやがって」

「ふははっ」

 店中に染み付いた肉の香りに焼いたばかりの霜降りの芳ばしい香りが混じり合っている。そこに煙草の匂いが加わる。上手く煙を飲み込めず、ふわふわと揺蕩う煙の中にいた金髪の翔はもういなかった。深く肺の中に取り込み、心地良さそうに煙を吐き出している。

「十年かぁ……」

 翔がしみじみ呟きながら体を伸ばした。仰いだ天井のダウンライトが刺さったのだろう。翔は目を細め、すぐに視線を龍之介へと戻した。

「そうだな……もう四十だ」

「え? まだ三十九でしょ?」

「それはもう四十って言うんだよ」

 龍之介がからかい交じりに続けた。

「二十九には分からねぇか」

「もう三十ですよ」

「そうか……」

 龍之介が背もたれに身を預け、上を向いて大きく息を吐く。ダウンライトのせいで眉間に皺が寄る。白煙が揺れていた。翔は真似るように体勢を変え、また煙草に吸いついた。しかしやはり眩しいのか、すぐに視線を下げる。翔の吐き出した煙がフードに吸い込まれていく。

「腹はもう膨れたか?」

 龍之介の言葉で煙草を消した翔が再び箸を取った。大盛りの白ご飯と霜降り肉が獣のような口元に飲み込まれていく。翔が初めて店に連れて来られた日もこうして一生懸命食べていた。妙に食べ方が綺麗で育ちの良さを感じたのを思い出す。

「食え食え。腹が減ってるからゴチャゴチャ悩むんだよ」

 当時のことを考えていたせいで、同じ言葉が口をついた。翔はあの時のようには泣かなかった。瞳が潤んで見えたのは炭火のせいだろう。翔は返事もせず、ただ目の前の食材を平らげていった。

「ご馳走様でした」

 両手を合わせた翔を見て、龍之介の頬が緩む。翔が食事したあとの皿はいつも美しかった。

「ほんと食わせ甲斐のある奴だよ」

 龍之介は再び煙草に火を点けた。翔もそれに倣う。何も乗っていない七輪の上で、ダクトが唸っていた。

「……戻りたいって言ったらどうします?」

 縋るような目を向けられた龍之介は笑い飛ばした。

「もう御免だな」

「え〜〜」

 翔がカウンターに突っ伏すのを見てまた笑った。

「オラ、酒抜けたんなら帰った帰った」

「扱い酷いすよ」

「閉店後に奢ってやったんだ。十分良い扱いだろうが」

「え! 奢りすか!」

 起き上がって「おかわりは?」と言い出すのを龍之介は黙殺した。

「……また食いに来い」

「閉店後に?」

 上目遣いで見上げてくる馬鹿の頭を、龍之介が小突いた。

「冗談ですって! ちゃんと営業中に――」

「好きな方でいい」

「え?」

 翔のくるくる変わる表情が年齢よりも幼く見せる。

「好きな方でいいから、顔、見せに来い」

「特別待遇すね」

「言ってろ」

 翔のニヤケ顔は見なくても分かった。もう一度小突いてやろうかと思ってやめる。

 店の前をふらついていた翔の顔は暗く険しいものだった。偶然通りかかったのかもしれないし、出会った時のように助けが必要だったのかもしれない。何も語らない翔のことは分からなかったが、馬鹿みたいに笑っているのが似合うことだけは分かった。

 龍之介はまた煙草に火を点けた。翔はゆっくりと煙を吐き出している。煙草を片付ける様子もない。いつまでも居座りそうな坊っちゃんをどうやって追い出してやろうか。今はそれだけを考えることにした。

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