第5章:10秒29の衝撃

「実戦(フィールド)でテストするだけです」

雫のその言葉は、まるで他人事のように響いた。

だが、テストの日はすぐにやってきた。大学の小規模な記録会。俺にとって、スランプからの再起を賭けた、地獄のテストだった。


じり、と後頭部を焼く太陽が痛い。

汗が目に入りそうになるのを、手の甲で拭う。

スタートラインに並ぶのは、俺を含めて8人。4レーンには、大学のエースであり、俺の旧友であり、そして最大のライバルである和泉 京介がいた。


「……蓮」

隣のレーンから、和泉が訝しげな視線を向けてくる。

「なんだよ、そのフォーム。ガチガチじゃねえか。緊張してんのか?」


無理もない。

今の俺の姿は、彼が知っている俺とは似ても似つかない。

腕は力なく垂らされ、重心は高く保たれている。まるで陸上を始めたての素人だ。


(……気持ち悪い)


今すぐ、いつものように腰を落とし、腕を構え、地面を蹴りつけるイメージを呼び起こしたい。長年染み付いた「感覚」が、この新しいOS(フォーム)を拒絶している。


観客席の端に、雫がいるのが見えた。

相変わらずの白衣。暑くもないのか。

彼女はタブレットを構え、俺を「観測」している。その無機質な視線が、俺を現実に引き戻した。


(――いいや。やるんだ)

(俺は、被験体だ。システムだ。ただ、プログラムを実行する)


「On your marks」


スターターの冷静な声が響く。

俺はスタートブロックに足をかけた。雫に調整された、低い角度。


「Set」


腰を上げる。

違う。いつもの「タメ」を作る感覚じゃない。

ただ、作用・反作用を最大化するためだけに、最適化された角度で重心をセットする。


息が止まる。

トラックのゴムの匂いと、芝生の匂いが混じり合う。

静寂。


パンッ!


乾いた破裂音。

俺の意識は、雫の言葉だけをリピートしていた。


(――地面を『蹴る』な。真後ろに『押す』!)


ドンッ!

第2章で感じた、あの背中を突き飛ばされるような加速度。

カスタムスパイクの硬いプレートが、俺の力積を一切ロスせず地面に叩きつける。


「なっ!?」


隣の和泉が息を呑むのが、音でわかった。

一歩目。俺は、和泉より半歩前に出ていた。


だが、問題はここからだ。中間疾走。


(――腕を『振る』な。『引け』!)

(――足を『蹴る』な。『引き上げろ』!)


観客席から、ざわめきが聞こえる。

「なんだ、あいつの走り方……」

「変じゃね?」


うるさい。

俺の体は、俺の感覚を裏切っていく。

腕は、空気抵抗を最小化するために、肩甲骨を支点にリズミカルに「引かれ」ていく。

足は、仕事率を最大化するために、地面に触れた瞬間に弾性を使って「引き上げ」られていく。


(滑る……!)


いつもの、地面をガリガリと削るような力感がない。

まるで氷の上を滑るように、俺の重心が、上下動することなくまっすぐ前へ運ばれていく。


和泉が、必死に腕を振って追いかけてくるのが視界の端に入る。

だが、差が縮まらない。

いや、開いていく。


(――エネルギーを『殺す』な。『変換』しろ!)


高く引き上げられた足の位置エネルギーが、ブレーキになることなく、完璧に前進するための運動エネルギーに変換されていく。

これが、エネルギー保存の法則。


気持ち悪い。

こんなに力が入っていないのに、なぜ俺は進んでいる?


70メートル。

いつもなら体が鉛のように重くなり、フォームが崩れる地点。

だが、まだ体が軽い。

最適化されたシステムは、エネルギーの浪費を知らない。


80メートル。和泉を完全に置き去りにした。

90メートル。


(――いける!)


ゴールラインが迫る。

俺は、物理法則に導かれるまま、ラインを駆け抜けた。


「…………」


ゴール後の喧騒が、遠い。

肺が張り裂けそうだ。

だが、足には、いつもレース後に感じる「使い果たした」という重い疲労感がなかった。


電光掲示板に目をやる。

まだ、タイムが表示されていない。


和泉が、信じられないという顔で俺を見ながらゴールした。

「……お前、いったい……」


観客席が、どよめいている。

何が起きたんだ。


ピ、と電子音が鳴り、タイムが表示された。


『1着 3レーン 10秒29』


「…………は?」


俺は、自分の目を疑った。

10秒、29。


自己ベストは、10秒51。

大学記録は、和泉が出した10秒40。

それを、一気に0.1秒以上、更新している。

スランプどころか、俺の人生で、まったく見たことのない数字だ。


「……うそ、だろ……」


スタンドが、今、何が起きたのかを理解し、爆発的な歓声に包まれた。

和泉が、電光掲示板と俺を、化け物でも見るような目で見ている。


俺は、観客席の端にいる雫を探した。

彼女は、興奮する周囲とは無関係に、静かにタブレットの画面をタップしていた。


目が合う。

彼女は、小さく、本当に小さく頷いた。

そして、俺にだけ聞こえるような声で、呟いた。


「――想定通りのデータです。被験体、黒田 蓮。第一フェーズ、完了」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る