そのフォーム、力学的に「バグ」ってます。 もしもスポーツ選手が力学を学んだら。
もしもノベリスト
第1章:10秒58の絶望
まただ。
肺が焼けつくような痛みを訴えているのに、足だけが冷たく遠い。
電光掲示板に灯る「10.58」の赤いデジタル数字が、現実感を失った視界でじわりと滲んだ。また、超えられない。コンマ08秒の絶望。
「黒田!気合が足りねえんだよ!気持ちで負けてる!」
トラックサイドから飛ぶコーチの怒声が、耳鳴りのように頭をすり抜けていく。気合。その一言が、鉛のように胃に沈んだ。気合なら、誰よりも入れているつもりだった。
隣のレーンでは、赤星 翔(あかぼし しょう)が両手を突き上げ、メディアのフラッシュを浴びている。10秒15。天性のバネだけで走る男。俺がこの一年、血反吐を吐くようなトレーニングで0.01秒も縮められなかった壁を、あいつは鼻歌交じりに飛び越えていく。
(何が違う? 俺とあいつで、何が決定的に違うんだ?)
汗が顎を伝い、タータン(全天候型トラック)の赤茶けた地面に落ちる。ゴムの焼けたような匂いと、敗北の鉄錆びた味が混じり合って、吐き気がした。才能、と結論づけるのは簡単だ。だが、それを認めた瞬間に、俺の大学生活は終わる。
その日の夜。
照明が半分落ちた大学のトラックで、俺は一人、スタートブロックを蹴っていた。納得できなかった。フォームを映像で確認しても、大きな欠点は見当たらない。なのに、進まない。まるで、見えないブレーキがかかっているように。
「……もう一度」
セットポジションを取ろうとした、その時だった。
カシャ。
静かなトラックに、不釣り合いな電子音が響いた。
振り向くと、スタンドの最前列に、一人の女が座っていた。年齢は俺より少し上だろうか。白衣のような薄手のコートを羽織り、タブレットの画面を凝視している。
「あの、今……撮りました?」
「ええ」
女は顔も上げずに答えた。悪びれる様子はまったくない。
「勝手に撮らないでもらえますか」
「なぜです? あなたのフォームは公共の電波に乗ることもある。今さら肖像権を主張するのは非合理的ではありませんか?」
冷めた声だった。スポーツの熱気とは無縁の、まるで温度のない声。
「そういう問題じゃ……」
「黒田 蓮さん。20歳。自己ベスト10秒51。そこから14ヶ月、記録は停滞。違いますか?」
「……なんで、それを」
女はゆっくりと立ち上がり、俺に向かってタブレットの画面を向けた。そこには、さっき俺が走ったフォームのスロー映像と、無数の数値、グラフが表示されていた。
「あなたのその走り、致命的なバグだらけです」
「……は?」
「ここ。スタートの加速度が低い。足が地面に力を加えている時間(接地時間)が長すぎます。これでは作用・反作用の法則をまるで活かせていない」
女は淡々と、俺の走りを「解剖」していく。
「それと、ここ。中盤の重心の上下動。ひどいブレです。前進するために使うべきエネルギーを、無駄に上下運動で浪費している。まさに非効率の塊。バグです」
俺は絶句した。コーチにすら指摘されたことのない、専門的すぎる分析。
「な、なんだよ、あんた……」
女はそこで初めて、タブレットから俺の目に視線を移した。夜の照明を反射しない、深い瞳だった。
「天野 雫(あまの しずく)。大学院で物理システムを研究しています」
「……物理?」
「ええ」と彼女は頷いた。「あなたの『10秒の壁』は、精神論(バグ)ではなく、**物理的なバグ(Bug)**です。そして、私ならそれを修正(デバッグ)できます」
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