見えない毒、魂の色

碧美

序章: 因果の鎖と原罪の色彩

雨が、世界の輪郭を溶かし、すべてを鈍色のキャンバスに染め上げていた。



1. 色彩を失った画家の呪い


九条絢人の眼差しも、その風景と同じだった。かつては、虹の七色はおろか、一滴の絵の具の中に隠された光の粒子さえも完璧に描き分けた彼の視界は、もはや階調を失ったモノクロームの世界に閉ざされていた。それは、彼が画家としての「神の目」を絶たれた、あの忌まわしい贋作事件以来のことだった。


あれは、たった一年前。

美術界を震撼させた、「色彩なき贋作事件」


九条は当時、若くして「色彩の魔術師」と畏敬の念をもって語られていた。彼は、絵画の色彩に隠された画家の魂、筆跡のわずかな震えに宿る感情の機微を読み解くことができた。しかし、その超越的な才能は、彼にひとつの致命的な傲慢さを与えた。


「真贋を見抜けない凡人たちよ、お前たちが信じる『真実』とは、僕が創り上げた『完璧な虚構』に過ぎない。僕の嘘を見抜けるか?」


彼は、世界への挑戦として贋作に「見えない色彩」を施した。その究極の虚構が、彼の網膜を侵食し、全存在に対して下したのが、この冷徹な「呪い」だった。彼の喪失は、単なる病ではない。それは、彼自身の傲慢な罪が、彼の才能を根こそぎ奪い去った「罰」だった。九条の心は、罪悪感ではなく、失われた才能への飢餓に焼かれていた。




2. 調香師の孤独と苦痛


同時期、調香師・香澄雫は、自らの絶対嗅覚(アブソリュート・スメル)が、もはや祝福ではないことを悟っていた。彼女はかつて、九条絢人が親友である白鷺黎に依頼して開始させた「見えない色彩」の技術開発において、技術協力者として関わっていた。九条の芸術的な傲慢から始まったこの試みの中で、彼女は化学物質の微細な匂いと構造を分析する「嗅覚の番人」だった。


しかし、彼女の嗅覚を異常に鋭敏化させた原因は、九条が白鷺を通じて使用させた特定の特殊な化学物質、あるいはその実験中に漏れた微細な毒の粒子だった。彼女は、自らの才能によって世界から隔絶されたのではない。信頼していた親友を利用した九条の傲慢な「創造」の副作用として、この孤独と苦痛を背負わされていたのだ。


周囲のありふれた生活臭さえ、彼女には腐敗した金属の味や、焦げ付いた砂糖の匂いとして、耐え難い「不協和音」を奏でる。彼女の鼻は、もはや世界を美しく描くのではなく、裏切りや邪悪な匂いを精緻に嗅ぎ分ける、孤独な警報装置と化していた。彼女は、九条の才能が生んだ毒の、最も身近な「被害者」だった。





3. 感情の欠落に飢える作家の孤独


同じ頃、街の片隅で、一人の男がこの美術界のスキャンダルを静かに見つめていた。水沢漣。彼は、九条の贋作事件の記録を、「感情のない設計図」として解析していた。


漣は、感情の機微を理解できない欠落を抱えて生きていた。人間的な感動や、愛憎といった色彩が、彼には永遠に理解できないモノクロームの記号に過ぎなかった。


九条が目指した構造―――「色彩(感情)を化学的に解体し、特定の波長でのみ再構築する」―――その研究の方向性こそが、彼の「感情の欠落」を論理的に説明し、完成させるための究極のプロットだと、彼は直感した。


九条の「才能の傲慢」が生んだ毒によって、影響を受けた人々の人生。これらはすべて、漣の「感情なき勝利」という物語を構成する、最も論理的で美しい要素だった。彼は、この事件の真実を「最高のミステリー」として完成させることで、失われた人間的な感動を擬似的に体験し、自己の存在意義を証明しようと、冷徹な飢餓に囚われていた。漣は、九条が「色彩を失った」瞬間から、この物語の「編集者」として、すでにそのプロットを描き始めていたのだ。





4. 因果の鎖


三人を結びつけたものは、信頼でも、友情でも、ましてや運命的な「絆」でもない。


それは、九条絢人の「傲慢な才能」が世界にばら撒いた「毒と呪い」であり、それぞれの「孤独」を深く刻み込んだ冷徹な「因果の鎖」だった。


九条の視覚の喪失、雫の嗅覚の苦痛、漣の感情の欠落。


三つの異質な才能と、三者三様の闇。彼らは、互いの罪と苦痛を利用し合い、それぞれの渇望を満たすため、この色彩なき世界で動き出す。この取引の先に、彼らを待つのは真実か、それとも互いの破滅か。

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