完璧すぎて疲れる執事は勇者の末裔
南賀 赤井
プロローグ:完璧な数式と不完全な安息
辺境の空は、王都とは違う、研ぎ澄まされた冷気を帯びていた。
数理要塞(フォルティス・マティカ)。それはただの石造りの砦ではない。王国中枢への侵入を防ぐ、幾何学の極致であり、分厚い壁の至るところに錬金術の変成式と防御の数理式が刻まれた、知性の結晶だった。
この要塞の維持管理は、ラプラス家という辺境貴族の長きにわたる宿命だった。
そして、そのラプラス家を取り仕切る人物こそが、シエル・ヴァルカスである。
シエルは、日差しを反射する銀色のトレイに、精緻な焼き菓子とハーブティーを載せ、執務室へと足を進めていた。彼の歩みは、完璧な静謐(せいひつ)を保っていた。まるで、その動き一つ一つが、極限まで無駄を削ぎ落とした数理的な最適解であるかのように。
彼は、誰の目から見ても非の打ち所のない完璧な執事だった。
要塞に派遣された王国の錬金術師たちが持ち込む複雑な**「魔力定着変成式」を一瞥しただけで誤りを指摘し、辺境貴族からの交渉には一切の隙を見せず、さらに当主であるアリア・ラプラスの孤独な心に寄り添うことすら、彼の「執事としての完璧な業務」**に含まれていた。
「シエル。今週中に王都へ提出する『錬金術的防壁強度報告書』の最終確認は終わったかしら?」
執務室の中央、膨大な書類と設計図に囲まれた机の奥で、若き当主アリア・ラプラスが顔を上げた。彼女の目は疲労の色を帯びていたが、要塞の守護者としての強い意志の光を失ってはいない。
シエルはトレイを静かに机の脇に置き、優雅に一礼した。
「はい、お嬢様。すでに最終確認を終え、数理的な整合性も完璧に保証されています。ご心配なく」
彼は流れるように報告を終え、アリアのカップにハーブティーを注いだ。その所作に、微塵の乱れもない。
この要塞を守るという役割は、本来、ラプラス家の長男が継ぐべきものだった。男児が生まれなかったため、アリアは若くしてこの面倒で不人気な役職を背負うことになった。
社交界では**「厄介な砦の令嬢」**と蔑ろにされ、彼女は深く孤独を抱えていた。シエルは、そんな彼女の孤独を誰よりも理解していた。
(この方が、誰にも邪魔されず、静かに、ただ己の仕事に集中できる場所を、私が守らねばならない)
シエルは心の中で密かに誓う。それは、執事としての誓いであり、家族を想う者の誓いでもあった。
潜入任務:優等生の仮面
数日後。シエルは王都にある**「アカデミア・マギカ」**の講義室にいた。
彼の現在の肩書は「シード・ヴァレス」。アリア家の遠縁の平民出身の奨学生という設定だ。シエルは完璧な優等生の仮面を被り、この学園に潜入していた。
今日の講義は、高度な**「磁力呪詛(マグネティカ・アルス)」の理論。これは結社が使用するホムンクルスの力の源であり、防御魔法陣を暴発させる危険な技術だ。シエルは、周囲の学生に紛れながら、ペンを走らせる周囲の動き、呪詛を唱える際の魔力の微細な揺らぎ**、そして不自然に手元を隠す生徒の挙動を、並行して演算し、すべてを頭の中に記録していた。
シエルが、スパイ容疑の学生に確信を得たその瞬間、講義室の扉が勢いよく開けられた。
「やあ、皆さん!今日も勉強に励んでるわね!」
リリアンヌ姫だった。シエルの王族の婚約者でありながら、彼の完璧な態度を毛嫌いしている、乱暴者だが裏表のない天然な姫である。
姫はそのまま教室に入り、シエルがターゲットとしてマークしていたスパイ容疑の学者の机に近づいた。
「あら、そのインク瓶の蓋、変な模様ね!なんだか数式みたいでイライラするわ!よし、いっそのこと、私が**もっと単純な『力の呪詛』**で上書きしてあげる!」
姫は、スパイが秘かに仕込んでいた盗難品の元素データが刻まれたインク瓶を、何の悪気もなく手に取った。そして、得意な元素操作の呪詛を詠唱し始めた。
シエルは内側で舌打ちした。(最悪だ!このままでは、証拠となるデータが破壊される!しかも公の場で勇者の末裔の力を露呈させてはならない!)
シエルは冷静に思考し、最も目立たない方法を選んだ。彼は席を立ち、一歩を踏み出した。そして、**完璧な優等生「シード・ヴァレス」**として、姫に近づいた。
「姫様、お待ちください!そのインク瓶は王立図書館の錬金術的遺物です!その中に隠された数理式は、破壊されてはならない国家の知性なのです!」
シエルは真実を偽りの言葉で包み込み、姫の**「乱暴だが優しい心」**に訴えかけた。
「えー、そうなの?じゃあ、つまらないわ!」
姫はインク瓶を元の学者の机に投げ返し、そのまま機嫌を損ねたように講義室を後にした。任務は、完全に失敗に終わった。
シエルは、姫の去り際、わずかに自分の目つきが冷たくなっていたことに気づき、すぐに完璧な優等生の表情に戻した。
月に一度の、どうでもいい決闘
王都での任務を終え、数理要塞に戻った翌日。
「シエル!貴様のような**『出来すぎた下僕』**が、アリア嬢の隣に立つ資格はない!王国の辺境を司る貴族の令嬢には、もっと相応しい男がいるべきだ!」
甲高い声が要塞の外庭に響いた。エルンスト・ベルグマン子爵。月に一度、必ずシエルに決闘を挑みに来る、迷惑な男だ。
子爵は、アリアへの好意を振り向かせられない腹いせに、彼女に完璧に仕えるシエルを標的にしていた。この決闘は、シエルの貴重な執務時間を奪う、極めて非効率的かつ面倒な業務外の仕事である。
シエルは完璧な所作で手袋を拾い上げ、「畏まりました、ベルグマン子爵。主の安寧と、要塞の秩序を乱す行為、執事として看過できません」と応じた。
決闘が始まった。子爵は当然、剣術で挑む。シエルは、トラウマが許さない**剣(カリブルヌス)ではなく、最も使い慣れた黄金の槍(ロングヌス)**を具現化させた。
シエルは、子爵の剣が到達する直前に、槍の穂先で子爵の足元の石畳を正確に突いた。石畳が割れ、子爵がバランスを崩したコンマ数秒の間隙を、シエルは見逃さなかった。
彼はその隙を突き、子爵の心臓から数センチ離れた胸元の服を、槍の先端で正確に突いた。服は破れるが、子爵の皮膚は無傷だった。
「勝負あり。これ以上は、お嬢様の業務に支障をきたします」
シエルは槍を消し、何事もなかったかのように執務室へと戻っていった。彼の顔には、微かな疲労の色も浮かんでいなかった。
完璧の崩壊と安息の場所
その夜。シエルは、二重のストレスで疲弊しきり、アリアの私室のソファに倒れ込んでいた。完璧な執事の仮面は、すでに剥がれ落ちている。
「あー、疲れた……。お嬢様、聞いてください。王都での任務は姫様の天然な妨害で失敗。こっちに戻ればどうでもいい決闘。僕の勇者の演算魔力を、なぜあんな低次元なトラブルの処理に使わなければならないのでしょうか」
シエルは、まるで子どもが駄々をこねるように愚痴をこぼした。彼の完璧な生活の中で、このだらしない時間だけが、彼が**「人間」**でいられる唯一の時間だった。
アリアは、シエルのこの姿に安堵を覚える。彼の不完全な姿こそが、彼が自分に心を許している家族の証拠だった。
彼女はシエルの隣に座り、彼のために淹れた温かいハーブティーを渡した。
「ご苦労様、シエル。あなたの完璧な論理を乱すのは、いつも**『感情』が絡むものね。私から見れば、あなたは勇者の末裔でも執事でもなく、ただの家族**よ」
アリアはシエルの髪を優しく撫でた。シエルは、その手に目を閉じたまま、そっと自分の手を重ねた。
彼は、このお嬢様に深く、そして家族として愛していた。だが、数理勇者の末裔の婚約者は王族と定められている。
(僕は、お嬢様を守るために王家の使命を全うしなければならない。それが、この家族を守る唯一の方法だ)
シエルは安堵の息を吐いた。「僕は、ここでは完璧である必要はないんですよね……?」
「ええ、ここではただのシエルでいてちょうだい」
彼の心を癒やすその言葉を聞きながら、シエルは眠りに落ちた。
その頃、王都の地下深く。「影の結社」は、シエルと同じ容姿を持つ女性のホムンクルスを前線に送り込み、次なる襲撃の計画を練っていた。ホムンクルスの冷たい銀色の瞳は、シエルとアリアが守る砦、そしてその絆に向けられていた。
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