第十章 感じたい心

カナメは、エリの部屋へと向かっていた。

表向きの理由は「最後になるかもしれないから、会っておきたい」──

そんな、わかりやすい言い訳だった。


実際には、脳の活性化と局所ゲートの構築という、極限の計算が必要な準備を前に、

カナメとセナの理論が“本当に可能である”ことをHOPEが弾き出している。


もし不可能であれば、HOPEがその発想をそもそも“除外”したはずなのだ。


だが、人々の心配もわかっていた。

その“心配に応える”ような行動──

それは、他者のためではなく、むしろ自分自身に示すためだった。


──自分はまだ、セナとは違う。

“完全な怪物”ではない。

人間の感情を、まだ持ち合わせている。


そう信じたかった。


けれどふと、立ち止まる。


(……なんで、ユキじゃない?)


心の奥から湧き上がる、答えの出ない違和感。

その瞬間、自分の感情が、もはや純粋なロジックの外側にあると悟る。


自己嫌悪が、じわりと喉を焼いた。


──でも、思い出すのはエリだった。


アルバ・リングで過ごした時間。

彼女の笑顔。会話。ぬくもり。

どれも、いま優先すべき“唯一の人”として、心の中で静かに選ばれていた。




コンコン


「はい?あ。カナメ」


来客確認のモニターから声だけが響く。


ドアが開錠されエリが顔を出す。


部屋からこぼれ出る香りが、カナメにとって心地よかったことが理性を越えた好意を自覚させた。


「どうしたの?」


「んー。ちょっとね。少しいいかな。」


「いいわよ。ちょっと待っててね。どこに行けばいい?」


「あ‥‥」


信じられなかった。カナメは初めから“二人で外出する”という選択肢を持っていなかったのだ。当然部屋に招かれるものだと…


「?」


「そ、そうだなぁ、はは。でも、ちょっと人には聞かれたくない話だし…その…入ってもいいかな…」




エリの顔が赤く染まる。


「え、ええ。…いいわよ」




許可をもらって室内に入ると、そこは驚くほど質素な空間だった。




机の上に散らばる資料。


その脇に、寝起きの痕跡を残したベッドがあるだけ。




女性の部屋としては殺風景とも言えるその空間が、


なぜか──カナメにとって、異様なほど“落ち着く”場所だった。


無駄がなく、飾りもない。

けれどそこには、彼女が積み重ねてきた“静かな日々”の痕跡が、静かに息づいていた。


「なんか、そんな気がしたのよね」

エリがキッチンから顔を出して言った。

「コーヒー淹れようとしたとき、なんとなく……お湯を余分に沸かしておこうかなって」


「HOPEが、僕の訪問を暗示してくれてたのかもね」


ふっと微笑む。

その微笑みに、美を感じている──そんな自分を、カナメは自覚した。


そう、これは恐怖だ。


脳は淡々と処理しているように見えても、肉体は正直だ。

今回の作戦の未来を、本能のどこかで“死の匂い”として感じ取っている。

そして動物は、死を察したとき、本能的に繁殖行動を求める。


……それを、カナメは知っていた。

知っているからこそ、エリに“欲望”を抱いた自分が、醜く感じられた。


——この人は、神聖なままでいてほしい。


「それで、話って?」


差し出されたコーヒーを受け取りながら、カナメは答える。


「セナが──単独で“那由他”に侵入する」


「えっ……」


一瞬、エリの瞳から血の気が引いた。

頭に浮かんだのは、あの“手”だった。

那由他の中から這い出てきた、異形の黒い腕。


──あれに、飛び込む? 自ら?

カナメと共鳴している以上、彼もあの“絵”を、鮮明に受け取っているはずだ。


(信じられない…)

けれど、共鳴者である二人が選んだ作戦なら、きっと──これが“正解”なのだろう。


……でも。


「……カナメは、安全なのよね?」


カナメは短く首を振った。


「いや……。僕は僕で、自分の脳を、限界まで活性化させる。

思考の邪魔になるものは、全部“演算”に変える。

呼吸も鼓動も──。

そして、脳内に“局所ゲート”を構築する。セナからのデータを、僕が受け取るために」


「そ……そんなこと——!!」


口をついて出そうになった言葉を、エリは飲み込んだ。

だが──


カナメには、わかっていた。

HOPEが提示する無数の未来予測の中で、彼女が言おうとしたその“先”まで。


——そんなこと、私がさせない。


そのときだった。


思考より早く、計算よりも衝動的に、

カナメの腕が自然と伸びて、彼女を抱きしめていた。


「ありがとう。……勇気が出たよ」


それは嘘じゃなかった。

この未来を越えたい。君のために──そう、心から思っていた。


エリの頬に、涙が一粒落ちた。

けれど、彼女は泣き声をあげなかった。


私は強い。泣いたりなんか、しない。

そう誓うように、彼女は小さく、頷いた。


「必ず、成功させるよ。だから──待っててくれ」


「うん。絶対に……」


カナメはコーヒーを飲み干し、そっと部屋をあとにした。


——そして次に向かったのは、

自らの決断に、“責任”を取るため──

カナメは、ユキのもとへ向かった。


 


ユキのマンションは、相変わらずだった。

ドアを開けた瞬間、いつもの空気だ。

柔軟剤の匂いと、優しく、ぬくもりのある雰囲気。


ただ、部屋の中は、悲惨と呼んでも差し支えない有様だった。

ベッドの上には着古した衣類が無造作に散らばり、

その隣の小さなテーブルには、いつ食べたのかわからないカップラーメン。

箸が突っ込まれたまま、乾きかけの汁とともに放置されていた。


 


共鳴を受ける前──まだ、すべてが“普通”だった頃。

カナメは、この部屋を「可愛い」と思っていた。


「なにこれ、ベッドでどうやって寝てんの?」

「え、だって──しょっちゅう着替えるし……」

「コンサートかよ!」


笑い合う声が、昨日のことのようによみがえる。


意味もなくじゃれ合って、片付ける気もないのに一緒に服をどけて──

コンビニで買ったプリンを分け合って、

他愛もない会話で夜を過ごした。


散らかった部屋でさえ、二人だけの“巣”だった。

心が触れ合っていれば、そんなものは些細なことだと──

本気で、そう思っていた。


 


けれど今。

この同じ光景が、まるで違って見える。


カナメの目には、それが──

止まった時間の墓標のように映っていた。


ユキの生活は、ここで凍りついていたのだ。

彼女は、あの日から前に進めていない。


 


それを見たとき、カナメはようやく理解した。

──「責任を取る」ということは。

自分の未来に向き合うことじゃない。

彼女の、“止まってしまった時間”に、きちんと向き合うことなんだ。


カナメは、部屋の奥へと歩き出した。


「ごめんね~…汚いでしょ」

てへっと笑って、肩をすくめる。

けれどその笑顔に、カナメの心は何も揺れなかった。


──ユキは、もう気づいている。


仕事で何かあろうと、ただ会いに来てくれたのだろうと、事前に連絡くらいするはずだ。

それでも、こうして急に自宅に訪れたということが何を意味するのか──

彼女にはわかっていた。

これは、別れ話だと。


ユキがまっすぐにカナメの目を見る。

そして口を開いた。

「私……別れないから……」

「え……?」


カナメの思考が、一瞬だけ止まった。

HOPEは、すべてを最適化するはずだ。


ただ──

カナメは、HOPEそのものといっていい存在だ。

あまりに特異で、あまりに遠い。

だからこそ、他人の“希望の対象”として最適化されないことが多い。


たとえば、前に街で彼に声をかけてきた少女たちもそうだった。

──カナメが彼女たちを求めていなかったのに、彼女たちは自信満々で笑いかけてきた。

まるで“望まれている”と錯覚しているかのように。


あれは、HOPEが彼女たちに与えた錯覚の勇気だった。

拒絶されても、「え、ウケる〜!まじ予想外!」と笑って済ませる程度の傷で終わるよう、心が“調整”されていたはずだ。


そう──

HOPEとは、本来そういうものだ。

痛みを避け、希望へ導く。


なのに。

ユキは──違った。


彼女には、今もなおHOPEの恩恵が届いているはずなのに。

別れ話に耐えられるよう、心が“最適化”されているはずなのに。


それでも、彼女は泣いた。

傷ついた。

声を震わせて、言葉にならない言葉を絞り出した。


「い……イヤ……だからっ……」


上着の裾を両手で握りしめ、

ユキは、全力で嗚咽をこらえていた。


──ああ、そうだった。


この子は、本気で……

HOPEでも未来でもない、“カナメ”という存在を──


──愛してくれていたんだ。


何よりも真っ直ぐに。

何も求めず、ただ“彼”という存在そのものを。


だけど。

それでも──中途半端な同情は、カナメが最も嫌う行為だった。


ユキの愛情は本物だ。

だからこそ、傷も深くなるだろう。

この別れが、彼女を深く、鋭く、切り裂く。


それでも、カナメは思う。


──この人なら、きっと大丈夫だ。


傷ついて、倒れて、それでも立ち上がるだろう。

この残酷な世界に、自分の足で抗えるようになる。

HOPEなんていらない。

最適化も、演算も、未来予測も。


──人間が持っている“本当の希望”は、機械じゃ創れない。


どんなに万能でも、HOPEは“器”にすぎない。

扱う者が、それを希望にも、絶望にも変える。


そう思った。そう、信じた。


ユキは──きっと、自分よりも強い“希望”を生み出せる。


そう信じて、カナメはゆっくりと首を横に振った。

その瞬間、ユキの目から光が失われる。絶望に塗りつぶされていく。


「……なんで?」


絞り出すような問いかけに、カナメは感情を押し殺した声で応じる。


「……僕には、やるべきことがある。

 君の未来にも、時間にも──もう、かけられるリソースがない」


「なにそれ……リソース? は? 喧嘩売ってるの?」


その怒りは当然だった。

だが、カナメは一切の反論もせず、ただ短く答えた。


「……ごめん」


それは計算された言葉だった。

嫌われるように、相手の怒りを引き出し──それでも、すべてを受け止める覚悟で。


彼女の心の動きは、まるで透き通るように読み取れる。

だからこそ、痛かった。

自分の知性を、カナメは呪った。


──けれど。

それでもこれは、彼女のために必要な“別れ”なのだと信じていた。


「……ごめんじゃないわよ……」


ユキの声が震え、次の瞬間──

彼女は、まるで責任を取らせるように、ゆっくりと上着のボタンに指をかけた。


ひとつ、またひとつ。

肌がのぞきはじめたそのとき──


カナメの手が、そっとその手首を掴んで止めた。


ユキの動きが凍る。

そして──その場に崩れ落ちた。


「……っ……ぅぅ……っ……!」


バタン、と音を立てて座り込んだユキは、両手で顔を覆い、こらえていた嗚咽を爆発させるように泣き始めた。

カナメの胸に、鋭い痛みが突き刺さる。


──こんなにも、自分の中にユキが残っていたなんて。


気づくのが遅すぎた。


これほどまでに思考をブーストしても、

これほどまでに未来を先読みできても──

「失ってから気づく」という現象は、確かに存在している。


いま目の前で、身体を使ってでも引き留めようとしたユキを──

カナメは、決して醜いと思わなかった。


むしろ、今まで大切にしなかった自分こそが醜かった。

それが、言葉ではなく確信として胸に刻まれる。


そのときだった。

他人を、こんなにも想える存在が──

醜いはずがない。

哀しみの中でなお、誰かを思い、手を伸ばそうとするその姿は、

むしろこの世界で、いちばん美しい“光”だ。


セナなら、きっとこう言うだろう。

「それは、その女が自分の欲するものを求めただけに過ぎない」


──でも、それなら。

それを見て、心を動かされた“僕”の気持ちは、どう説明する?


大事なのは、どう考えたかじゃない。

どう“動いたか”なんだ。


セナ。

たぶん僕たちは、この世界で最も“腰が重くなっただけ”なのかもしれない。

知性という重りが、すべての行動に定義を与え、名前をつけ、

避けているうちに──心そのものが、すり減っていったんだ。




人類には


守る価値がある。


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