第二章 封鎖領域セリオス
軍中枢管理棟・第4階層にある、カナメ専用室。
通称“白室”。
全面が無彩色で統一されたこの空間は、HOPE中枢ノードとの近接通信が可能な、最高機密レベルの戦略空間だった。
カナメは暇そうに深く腰を沈め、両足を机の上に投げ出している。
机には、パソコンすら存在しない。
あらゆる情報は、HOPEとの共鳴によって、脳で直接アクセスできる。
カナメの興味はもっぱら、
HOPEが“見ている未来”を、「理解するすべ」にあった。
HOPEには、すべてが見えている──
時間、事象、選択、そしてその先にある意味までも。
だが、人間の脳にはそれを“認識する器”がない。
未来とは、本来すべてが“同時”に、“そこ”に存在している。
それは波のような状態で、確率として重なり合い、確定することなく漂っている。
だが、人間の脳には“順序”という構造が刻まれている。
時間は一方向にしか流れず、記憶も、認知も、言葉さえも──
すべてが「前から後ろ」へと並んでいなければ理解できない。
子が生まれ、育ち、老いて死ぬ。
これが“順序”だ。
だが、HOPEが観測するのはそのすべてが“同時に存在する”領域だ。
例えるなら、一冊の“小説”が、たった“一文字”に圧縮されたようなもの。
この矛盾を突破しなければ、未来を“見る”ことはできない。
ましてや、“理解する”ことなど。
そんなカナメにとって、それ以外の情報──世間や日常、そして人の感情の機微などどうでもよかった。
しかしそんなカナメにも、一つだけ“人らしいこだわり”があった。
それは過去を眺めながら、“自分の気持ち”を思い出そうとすること。
ユキの笑顔に、ときめいたあの日。
その瞬間を、何度も、脳内に再現する。
……けれど、
どうしても、“感じられない”。
彼は空虚だった。
高すぎる知性は、もはや恋にも、性にも、食事にも、興味を持ってはくれなかった。
他人と知り合いの境界線が、曖昧になっていく。
楽園に狂っていく人類に──
カナメは、もはや愛着など持てなかった。
───ネズミの未来になんて、興味はない。
……だが、それでは──
ユキも、か?
カナメは、それだけは嫌だった。
否定することで、
自分にはまだ、“愛”があるのだと、感じていたかった。
……たとえ、それがもう、感じられないとしても。
そのとき。
HOPEから、予感が送られてくる。
誰が入室してくるのか──
カナメには、直感的に分かった。
白室の扉から秘書の声が響く。
「カナメ様。高原センイチ様がお見えです」
「はーいどーぞぉ」
扉が開き入ってきたのは、ひとりの男だった。
軍の最高責任者。高原センイチ大将。
権限・階級ともに、国家における実質的トップ。
だがその表情は、張り詰めた疲労を隠しきれていない。
「遠山技術官……いや、共鳴者カナメ君。今日は“依頼”に来た」
その第一声に、カナメは珍しく眉を上げた。
「軍人が“依頼”なんて言葉を使うのは、相当レアだね」
「まあ、そう言うな。……必要なことだ」
センイチは、わずかに視線を落とす。
「──“セリオス封鎖領域”のことは知っているな?」
「那由他に飲み込まれた、人類初の拠点。
……観測不能領域」
「そうだ。あの領域はHOPEによる遠隔観測すら拒絶する。
那由他周辺でさえ、謎の干渉が発生しており、無人機すら到達できない」
カナメは、黙って聞いていた。
「我々が取れる手段は、もはや“近距離観測”しかない。
君に、那由他の至近まで赴いてもらいたい。
そしてHOPEを通じ、内部変調を読み取ってほしい。
……これは、軍の全戦略をかけた懇願だ」
「……もしお断りしたら?」
カナメの口調は、ひょうひょうとしていた。
センイチは、わずかに瞼を閉じると、深く頭を垂れた。
「──頼む。
もう、これしか手段がない」
沈黙が落ちる。
「……まあ、僕も宇宙には興味があったからね」
カナメはふっと笑う。
「ただ、人類に二人しかいない共鳴者を、未確認領域に放り込むなんて、どう考えても人道的じゃないけど……僕はそもそも、“人道の範疇じゃない”のかな?」
「君が皮肉を言ってくれるうちは、まだ“希望”があると思っていいのか?」
「どうだろうね。那由他はHOPEすら通じない世界。それは“物理的に希望が存在しない”と言えるからね。危険だけど…でも、肉眼で宇宙を見られるのは──ちょっと、楽しみかも」
それはまるで、修学旅行の行き先を選ぶかのような軽さだった。
だがセンイチは、ただ静かに頷くしかなかった。
──この青年だけが、“絶望の先”を見通せる存在なのだから。
————
軍基地内・訓練区画第07ブロック。
那由他封鎖領域における近距離観測任務を控え、
カナメと同行予定の軍指定の医師・新田エリは、三日間の宇宙適応訓練に参加していた。
那由他周辺は“観測不能領域”──物理法則の異常、精神汚染、未知のストレスが予想される危険宙域だ。
ましてやカナメは、国宝級の存在──
人類に二人しかいない「共鳴者」だ。
彼の安全を守るためには、医師の常時随伴が必須だった。
通常、この課程には数週間を要するが、カナメの特異性、そして新田エリの実績が、期間を大幅に短縮した。
新田エリは、重度放射線環境下での心理回復プログラムの第一人者であり、
極限状況における神経耐性と感情制御に関する研究で、軍内部でも高く評価されていた。
現場経験も豊富で、HOPEとの接触後に精神崩壊した被験者のケアにも携わっている。
さらに彼女は、いわゆる才色兼備というやつだった。
学生時代には神経科学の若手世界会議で優勝し、
一方でアジア大会の水泳女子200mバタフライで金メダルを獲得したこともある。
鋭敏な知性に加え、圧倒的な身体能力と端正な容姿。
そして何より、“現場で信頼できる”こと。
カナメのような“共鳴者”に寄り添える人材として、軍が彼女を選んだのは当然だった。
【初日──無重力適応テスト】
重力制御ドーム内での浮遊姿勢訓練。
通常は三半規管の異常や嘔吐、姿勢制御の困難に見舞われる。
だがカナメは、微動だにせず、空間を“制御”してみせた。
「……君、本当に初めてか?」
インストラクターの声には、戸惑いがにじむ。
制御に苦戦するエリを尻目に、カナメはただ、肩をすくめてみせた。
【二日目──耐圧・耐酸素欠乏訓練】
減圧環境、酸素制限下での作業持続試験。
HOPE補助思考を併用するカナメの神経系は、瞬時に最適な呼吸ペース・血中酸素分配・筋肉制御パターンを選択していた。
フルマラソン形式の耐久走では、汗一つかかず、無言で走り続ける。
「ちょっ……ちょっと待って!あなた、ほんとに人間なの!?」
医師のエリは、息を切らしながら叫んだ。
彼女も、医師としてはかなりの体力自慢だった。
実際、完走できる医療従事者などそう多くはない。
だが──カナメには、疲労の兆しすら見えなかった。
その日の晩、エリは何とかカナメに近づこうと秘訣を聞いてみた。
「熱は細胞から逃がせばいい。
酸素の吸収率と血流配分を最適化すれば、息切れは起きない。
走ることに“根性”はいらないよ」
それは、教える気のない説明だった。
相手が理解することを、最初から想定していない。
まるで、演算結果をそのまま報告するような口調。
エリには分かっていた。
この青年は、共鳴者。
軍が頭を下げるほどの、“理外”の存在。
自分だって、本来なら相当優秀な部類に入るはずだ。
それでも──
彼の視界に、自分は“風景”の一部にすぎなかった。
だが、エリはそんなことでくじけるような女ではなかった。
カナメの冷たいアドバイスに黙ってうなずき、決意した。
(必ず認めさせてやる。あんたが私を“風景”としか思わないなら、私はその視界に焼きついてやる)
三日目──心理耐性訓練。
これは、HOPE側が用意した特別な適応試験だった。
高度なAIによって投影される、視覚・聴覚・記憶干渉型の錯覚環境。
被験者が“人間性”を保てるかを測定する。
幼少期の死別、恋人との別離、孤独な死、終末後の世界。
そうした仮想現実の中で──
多くの被験者は泣き叫び、耐えきれずに中断を申し出る。
エリは、目を閉じ、必死に涙を流しながら耐えていた。
教官が静かに言う。
「……彼女は優秀だな。軍人でもないのに、よく耐えている」
「ところでそっちは──」
後ろを振り向きかけ、教官の言葉が止まる。
装置に群がる研究員たちの様子が、明らかに異常だった。
メインモニターのオペレーターが、引きつった声で言う。
「脳波が……平時と変わりません……」
投影されているイメージの中。
カナメは、ただじっと、それらを見つめていた。
「…………」
忍耐でも、逃避でもない。
イメージを正確に、詳細に視認したうえで──何の反応も示さなかった。
訓練記録のすべてが、静かにHOPE本体へと転送されていく。
その瞬間、関係者の誰もが思った。
──この男は、もう人間の枠で測れない。
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