第8話 太鼓場のあいだ
朝の雨は、昼前には湿りだけを残して去った。
白花の列は花弁をひとつぶん開け、白旗は布の端に残った水を音もなく落としていた。
とん、——とん。
封の拍は等しく、薄い光の上で鳴っている。
今日は、城下の太鼓場で“合わせ”を行う日だった。
祈りと、太鼓と、歩行。それぞれが先に出ない形で、速度だけを揃える。
至近四。軽装。外周四。後尾二に重装(金具は布で押さえる)。
近衛長ハルドは、見取り図を広げて線を引いた。
広場の中央に丸、その三方に太鼓台。北側に祈りの位置。東側に歩行の道。
西側には抜け道——音を逃がすための、細い空白の帯。
「合図は四つ。薄く/歩幅、半分/薄く二つ分/三つ目を捨てる。
——それと今日はもう一つ増やす。“影沿い”。
影沿いは太鼓の裏側の柱の線に沿って通る。音が通る」
白衣のオルフェは帯と札を整え、神官シエルは袖を一度だけ短く払う。
祈りは今日も声ではなく、息で行われる。
「王よ、本日は祈りをほどく稽古を多めにします。
太鼓は“教える音”にも“脅す音”にもなれます。
速度だけを受け取り、形は取らないように」
王族は頷いた。
歩幅、半分。薄く。
その短い一歩が、地図の上の線を現物に変える。
*
太鼓場は、雨の名残りで土がしずかな色をしていた。
欅の鼓面は濡れていない。帆布で覆っていたのだろう。
若い奏者が四人、指導役が一人。
指導役の背は低いが、音の数を減らす術を身に持っている顔だ。
「お迎えいたします」
指導役が頭を下げる。音は出ない。
良い礼だ。
「本日は“合わせ”です」
ハルドが簡潔に告げ、視線で広場の中央に丸を描く。
丸の内側を歩行が移動し、外縁で祈りが速度を合わせ、太鼓台から二拍が落ちる——その為の位置だ。
王族は丸の端に立つ。
シエルは半歩後ろ。
俺は外縁の影——太鼓の裏から、骨で聞く。
とん、——とん。
封の拍。
指導役が小槌で二度、枠を叩く。
からん、からん。
調律は金属で行う。木の音を増やさないために。
「まずは奏者の基礎二拍を」
指導役の声は湿りを含まない。
若い手が同時に落ち、どん、どん。
太鼓の二拍は歩きたがる。だから危い。
歩きたがる音は、歩く者の足場を勝手に作る。
「薄く」
俺は短く落とす。
王族の踵が地に触れず、足裏の前半で撫でる。
至近前の二も合わせる。
外周は太鼓の裏の柱の線に沿って、影沿いに回る。
音は通され、残らない。
とん、——とん。
封は重ならず、太鼓の外で鳴る。
シエルは息で祈り、オルフェは吐き終わりを一拍分だけ伸ばす合図を王族へ送る。
王族の息はそれに追いつき、歩幅、半分で進む。
「——良い」
指導役が頷き、木槌を置いた。
置く音は出ない。
よく訓練された構えだ。
*
二巡目から、崩しを入れる。
若い奏者の一人が、指導役の合図で装飾の二連を差し込む。
どどん、——
短い飾り。喜びの音。
喜びは、歩く者の胸に触れやすい。
王族の呼吸が短く。
止めない。止めて重ねない。
俺は落とす。
「薄く二つ分」
二拍ぶん、踵なし。前半で逃がす。
太鼓の装飾は、着地する場所を失う。
広場の空気が軽くなり、王族の肩の線が戻る。
とん、——とん。
指導役が若い手に視で合図する。
次の崩しは、一拍遅れで入れる形になった。
太鼓の側も合わせに寄る。
三巡目。
指導役はわざと悪い例を出した。
どん、どどん——三拍目を膨らませる叩き方。
膨らみは、封の外縁で渦を作る。
「三つ目を捨てる」
俺の言葉は短い。
王族の足は三拍目を踏まない。
至近が半拍遅れてなぞり、外周が影沿いで風を作る。
シエルは一息だけ早く、抜け道を開ける。
オルフェは数字を見ず、胸で測る。
とん、——とん。
封は重ならない。
太鼓の膨らみは、着地の場所を失い、自分の皮に吸われて消えた。
指導役が槌を軽く鳴らす。
若い手が目で謝り、槌を置く。
音は出ない。
——良い学習だ。
*
休憩のあいだ、太鼓台の陰で、若い奏者のひとりが王族に声をかけかけて、やめた。
やめることができたのは、ここが城だからではない。
騒がないの意味を、今日でやっと手で理解したからだ。
代わりに、そいつは俺のほうへ来た。
汗は少なく、目は熱い。
熱は悪くない。増やしすぎなければ。
「さっきの……三つ目を捨てる。どうやって足が決まるんですか」
「決めないで、空ける」
「空ける?」
「地面に空きを作る。そこに太鼓の跳ねが落ちる。
落ちた音は自分で消える。
受け止めると、残る」
若い手は、口の中で短く呟いた。
「受け止めない……」
「祈りも、同じだ」
いつのまにか来ていたシエルが、短く言う。
若い手は驚かない。驚きは騒ぎだ。
彼は太鼓の縁に指を置き、息を一つ合わせた。
「やってみます」
良い返事だ。短い。届く。
*
午後の“合わせ”は、太鼓側から寄る番だった。
指導役は丸の外周を歩き、奏者たちに呼吸を合わせるよう指示する。
「叩く前に、息で触れ」
言葉は少ないが、筋が強い。
四人がため息のような息を落とし、同時に二拍。
どん、どん。
とん、——とん。
封の二拍と、太鼓の二拍が重ならない帯で並ぶ。
それは同じ方向を向いたというだけのことなのに、広場の空気は軽くなった。
「薄く」
俺は短く落とす。
王族の足裏が、土の水分を撫でて滑らせる。
太鼓は乗る場所を探さない。
探さない音は、美しい。
三巡目で、指導役は奏者に合図した。
一人だけ、装飾を入れる。
どどん。
もう遊ばない音。祈りに触れる前で止まる。
ハルドは外周の間を半歩だけ広げ、オルフェは吐き終わりを一定に保つ合図を送る。
シエルは祈りをほどく。
ほどけた祈りは音を残さない。だから長く残る。
「——良い」
指導役はもう褒めなかった。
褒めると、音が増えるからだ。
代わりに、目で丸の中心を指し示す。
中心は空だ。
空は、受け止めない。
*
夕刻前、最後の稽古。
指導役は悪い風をわざと作った。
風上に一人、風下に三人。
風下の音は、遅れて重く落ちる。
どん、——どん。
遅れは封のあいだに寄る。
王族の肩が紙一枚ぶん浮く。
雨雲の端の影が、広場を斜めに撫でる。
「影沿い」
俺は合図する。
外周が太鼓台の柱の影を辿って通路を作る。
至近は歩幅、半分。
シエルは一息早く抜け道を置き、オルフェは数字ではなく喉で揺れを測る。
薄く二つ分。
そして、三つ目を捨てる。
——とん、——とん。
戻る。
若い奏者は、自分の叩きたい三つ目を置かなかった。
置かないことを選べる手は、強い。
太鼓は脅しではなく、道標になった。
王族の息の終わりが、長い。
歩きたいが、歩けるに、また半歩近づいた。
*
“合わせ”を終えたあと、広場の端で短い確認をした。
ハルドは見取り図に符を増やし、
「影沿い」「三つ目を捨てる」「薄く二つ分」「歩幅、半分」を、
合図一覧として板にまとめさせた。
板は白で、字は黒。
黒は、増やしすぎない。
指導役が王族へ礼をした。
深くではない。浅く。
浅い礼は音を生まない。
「本日は、叩かないことを教わりました」
短い言葉。届く言葉。
王族は頷いた。言葉は返さない。
返さないことが、いちばんの返礼になる場面がある。
若い奏者が一人、太鼓台の陰で短く手を挙げた。
指導役が目だけで許す。
彼は俺の前に立ち、息を合わせてから言った。
「三つ目を捨てるを、太鼓側にも合図にしていいですか」
「いい。
ただし、捨てた場所を覚えないことだ」
「覚えない?」
「覚えると、形になる。
形になると、脅しになる。
いつでも捨てられるために、捨てた場所を忘れる」
彼はゆっくりと頷いた。
頷きは、音を作らない礼だった。
*
城へ戻る道、白旗の並ぶ北庭はもう夕の色を帯びていた。
白花は花弁を閉じ始め、香りは低い温度に落ちる。
とん、——とん。
封の拍は等しい。
遠鐘は鳴らないが、太鼓場の練習の呼吸が、まだ薄く胸に残っていた。
踊り場で、欄干の浅い傷に水はなかった。
乾いた石は、音を飲む。
そこに、布だけの軽い足音が近づいた。
白衣でも、鉄でもない。
「合わせ、できた」
王族だ。
欄干の遠い側に指を置く。触れない距離。触れないために測られた距離。
夕の風は薄い。
名前は胸の奥で揺れ、今はまだ呼ばない。
「太鼓、好きだと言っていたね」
「うん。——脅しにもなるけど、道にもなる」
「今日は道だった」
「レヴが捨てるって言ったから」
王族は笑った。
泣く直前ではない、遠い記憶の笑み。
笑いは音にならず、長く残る。
「明日は、祈りのほうが先に出そうになるかもしれない」
「そのときはほどく」
「ほどく。——忘れない」
王族は一度だけ目を閉じ、
薄く二つ分、足を地に触れさせた。
歩幅、半分。
とん、——とん。
封は重ならない。
「……レヴ」
「はい」
「呼ばない名前って、どのくらいの重さがある?」
答えは用意していなかった。
用意してしまうと、形になってしまうから。
「今はまだ、重さを測らないほうがいいと思います」
「どうして?」
「測ると、脅しに似ることがあるからです」
王族は短く頷いた。
短い返事は、届く。
「じゃあ、明日も歩く。——薄く、三つ目は捨てる」
「騒がず」
王族はそれだけ言い、階段を自分の歩幅で降りていった。
拍は重ならない。
誰が盾か。——位置が盾だ。
鉄も白も言葉も、太鼓の皮も、位置の上で初めて機能する。
拳を開き、また閉じる。
合図の板の黒い字が、目の裏で薄く光った。
薄く/歩幅、半分/薄く二つ分/三つ目を捨てる/影沿い。
増えたのに、騒がない。
短いからだ。
短いほど、長く守れる。
とん、——とん。
封は等しく、城は静かに広がった。
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