第8話 太鼓場のあいだ

 朝の雨は、昼前には湿りだけを残して去った。

 白花の列は花弁をひとつぶん開け、白旗は布の端に残った水を音もなく落としていた。

 とん、——とん。

 封の拍は等しく、薄い光の上で鳴っている。

 今日は、城下の太鼓場で“合わせ”を行う日だった。

 祈りと、太鼓と、歩行。それぞれが先に出ない形で、速度だけを揃える。


 至近四。軽装。外周四。後尾二に重装(金具は布で押さえる)。

 近衛長ハルドは、見取り図を広げて線を引いた。

 広場の中央に丸、その三方に太鼓台。北側に祈りの位置。東側に歩行の道。

 西側には抜け道——音を逃がすための、細い空白の帯。


「合図は四つ。薄く/歩幅、半分/薄く二つ分/三つ目を捨てる。

 ——それと今日はもう一つ増やす。“影沿い”。

 影沿いは太鼓の裏側の柱の線に沿って通る。音が通る」


 白衣のオルフェは帯と札を整え、神官シエルは袖を一度だけ短く払う。

 祈りは今日も声ではなく、息で行われる。


「王よ、本日は祈りをほどく稽古を多めにします。

 太鼓は“教える音”にも“脅す音”にもなれます。

 速度だけを受け取り、形は取らないように」


 王族は頷いた。

 歩幅、半分。薄く。

 その短い一歩が、地図の上の線を現物に変える。



 太鼓場は、雨の名残りで土がしずかな色をしていた。

 欅の鼓面は濡れていない。帆布で覆っていたのだろう。

 若い奏者が四人、指導役が一人。

 指導役の背は低いが、音の数を減らす術を身に持っている顔だ。


「お迎えいたします」

 指導役が頭を下げる。音は出ない。

 良い礼だ。


「本日は“合わせ”です」

 ハルドが簡潔に告げ、視線で広場の中央に丸を描く。

 丸の内側を歩行が移動し、外縁で祈りが速度を合わせ、太鼓台から二拍が落ちる——その為の位置だ。


 王族は丸の端に立つ。

 シエルは半歩後ろ。

 俺は外縁の影——太鼓の裏から、骨で聞く。


 とん、——とん。

 封の拍。

 指導役が小槌で二度、枠を叩く。

 からん、からん。

 調律は金属で行う。木の音を増やさないために。


「まずは奏者の基礎二拍を」

 指導役の声は湿りを含まない。

 若い手が同時に落ち、どん、どん。

 太鼓の二拍は歩きたがる。だから危い。

 歩きたがる音は、歩く者の足場を勝手に作る。


「薄く」

 俺は短く落とす。

 王族の踵が地に触れず、足裏の前半で撫でる。

 至近前の二も合わせる。

 外周は太鼓の裏の柱の線に沿って、影沿いに回る。

 音は通され、残らない。

 とん、——とん。

 封は重ならず、太鼓の外で鳴る。


 シエルは息で祈り、オルフェは吐き終わりを一拍分だけ伸ばす合図を王族へ送る。

 王族の息はそれに追いつき、歩幅、半分で進む。


「——良い」

 指導役が頷き、木槌を置いた。

 置く音は出ない。

 よく訓練された構えだ。



 二巡目から、崩しを入れる。

 若い奏者の一人が、指導役の合図で装飾の二連を差し込む。

 どどん、——

 短い飾り。喜びの音。

 喜びは、歩く者の胸に触れやすい。


 王族の呼吸が短く。

 止めない。止めて重ねない。

 俺は落とす。


「薄く二つ分」


 二拍ぶん、踵なし。前半で逃がす。

 太鼓の装飾は、着地する場所を失う。

 広場の空気が軽くなり、王族の肩の線が戻る。

 とん、——とん。


 指導役が若い手に視で合図する。

 次の崩しは、一拍遅れで入れる形になった。

 太鼓の側も合わせに寄る。


 三巡目。

 指導役はわざと悪い例を出した。

 どん、どどん——三拍目を膨らませる叩き方。

 膨らみは、封の外縁で渦を作る。


「三つ目を捨てる」

 俺の言葉は短い。

 王族の足は三拍目を踏まない。

 至近が半拍遅れてなぞり、外周が影沿いで風を作る。

 シエルは一息だけ早く、抜け道を開ける。

 オルフェは数字を見ず、胸で測る。

 とん、——とん。

 封は重ならない。

 太鼓の膨らみは、着地の場所を失い、自分の皮に吸われて消えた。


 指導役が槌を軽く鳴らす。

 若い手が目で謝り、槌を置く。

 音は出ない。

 ——良い学習だ。



 休憩のあいだ、太鼓台の陰で、若い奏者のひとりが王族に声をかけかけて、やめた。

 やめることができたのは、ここが城だからではない。

騒がないの意味を、今日でやっと手で理解したからだ。


 代わりに、そいつは俺のほうへ来た。

 汗は少なく、目は熱い。

 熱は悪くない。増やしすぎなければ。


「さっきの……三つ目を捨てる。どうやって足が決まるんですか」


「決めないで、空ける」


「空ける?」


「地面に空きを作る。そこに太鼓の跳ねが落ちる。

 落ちた音は自分で消える。

 受け止めると、残る」


 若い手は、口の中で短く呟いた。


「受け止めない……」


「祈りも、同じだ」

 いつのまにか来ていたシエルが、短く言う。

 若い手は驚かない。驚きは騒ぎだ。

 彼は太鼓の縁に指を置き、息を一つ合わせた。


「やってみます」


 良い返事だ。短い。届く。



 午後の“合わせ”は、太鼓側から寄る番だった。

 指導役は丸の外周を歩き、奏者たちに呼吸を合わせるよう指示する。

 「叩く前に、息で触れ」

 言葉は少ないが、筋が強い。


 四人がため息のような息を落とし、同時に二拍。

 どん、どん。

 とん、——とん。

 封の二拍と、太鼓の二拍が重ならない帯で並ぶ。

 それは同じ方向を向いたというだけのことなのに、広場の空気は軽くなった。


「薄く」

 俺は短く落とす。

 王族の足裏が、土の水分を撫でて滑らせる。

 太鼓は乗る場所を探さない。

 探さない音は、美しい。


 三巡目で、指導役は奏者に合図した。

 一人だけ、装飾を入れる。

 どどん。

 もう遊ばない音。祈りに触れる前で止まる。


 ハルドは外周の間を半歩だけ広げ、オルフェは吐き終わりを一定に保つ合図を送る。

 シエルは祈りをほどく。

 ほどけた祈りは音を残さない。だから長く残る。


「——良い」

 指導役はもう褒めなかった。

 褒めると、音が増えるからだ。

 代わりに、目で丸の中心を指し示す。

 中心は空だ。

 空は、受け止めない。



 夕刻前、最後の稽古。

 指導役は悪い風をわざと作った。

 風上に一人、風下に三人。

 風下の音は、遅れて重く落ちる。

 どん、——どん。

 遅れは封のあいだに寄る。


 王族の肩が紙一枚ぶん浮く。

 雨雲の端の影が、広場を斜めに撫でる。


「影沿い」

 俺は合図する。

 外周が太鼓台の柱の影を辿って通路を作る。

 至近は歩幅、半分。

 シエルは一息早く抜け道を置き、オルフェは数字ではなく喉で揺れを測る。

 薄く二つ分。

 そして、三つ目を捨てる。

 ——とん、——とん。

 戻る。


 若い奏者は、自分の叩きたい三つ目を置かなかった。

 置かないことを選べる手は、強い。

 太鼓は脅しではなく、道標になった。


 王族の息の終わりが、長い。

 歩きたいが、歩けるに、また半歩近づいた。



 “合わせ”を終えたあと、広場の端で短い確認をした。

 ハルドは見取り図に符を増やし、

 「影沿い」「三つ目を捨てる」「薄く二つ分」「歩幅、半分」を、

 合図一覧として板にまとめさせた。

 板は白で、字は黒。

 黒は、増やしすぎない。


 指導役が王族へ礼をした。

 深くではない。浅く。

 浅い礼は音を生まない。


「本日は、叩かないことを教わりました」


 短い言葉。届く言葉。

 王族は頷いた。言葉は返さない。

 返さないことが、いちばんの返礼になる場面がある。


 若い奏者が一人、太鼓台の陰で短く手を挙げた。

 指導役が目だけで許す。

 彼は俺の前に立ち、息を合わせてから言った。


「三つ目を捨てるを、太鼓側にも合図にしていいですか」


「いい。

 ただし、捨てた場所を覚えないことだ」


「覚えない?」


「覚えると、形になる。

 形になると、脅しになる。

 いつでも捨てられるために、捨てた場所を忘れる」


 彼はゆっくりと頷いた。

 頷きは、音を作らない礼だった。



 城へ戻る道、白旗の並ぶ北庭はもう夕の色を帯びていた。

 白花は花弁を閉じ始め、香りは低い温度に落ちる。

 とん、——とん。

 封の拍は等しい。

 遠鐘は鳴らないが、太鼓場の練習の呼吸が、まだ薄く胸に残っていた。


 踊り場で、欄干の浅い傷に水はなかった。

 乾いた石は、音を飲む。

 そこに、布だけの軽い足音が近づいた。

 白衣でも、鉄でもない。


「合わせ、できた」


 王族だ。

 欄干の遠い側に指を置く。触れない距離。触れないために測られた距離。

 夕の風は薄い。

 名前は胸の奥で揺れ、今はまだ呼ばない。


「太鼓、好きだと言っていたね」


「うん。——脅しにもなるけど、道にもなる」


「今日は道だった」


「レヴが捨てるって言ったから」


 王族は笑った。

 泣く直前ではない、遠い記憶の笑み。

 笑いは音にならず、長く残る。


「明日は、祈りのほうが先に出そうになるかもしれない」


「そのときはほどく」


「ほどく。——忘れない」


 王族は一度だけ目を閉じ、

 薄く二つ分、足を地に触れさせた。

 歩幅、半分。

 とん、——とん。

 封は重ならない。


「……レヴ」


「はい」


「呼ばない名前って、どのくらいの重さがある?」


 答えは用意していなかった。

 用意してしまうと、形になってしまうから。


「今はまだ、重さを測らないほうがいいと思います」


「どうして?」


「測ると、脅しに似ることがあるからです」


 王族は短く頷いた。

 短い返事は、届く。


「じゃあ、明日も歩く。——薄く、三つ目は捨てる」


「騒がず」


 王族はそれだけ言い、階段を自分の歩幅で降りていった。

 拍は重ならない。

 誰が盾か。——位置が盾だ。

 鉄も白も言葉も、太鼓の皮も、位置の上で初めて機能する。


 拳を開き、また閉じる。

合図の板の黒い字が、目の裏で薄く光った。

 薄く/歩幅、半分/薄く二つ分/三つ目を捨てる/影沿い。

 増えたのに、騒がない。

 短いからだ。

 短いほど、長く守れる。


 とん、——とん。

 封は等しく、城は静かに広がった。

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