第2話 抱きしめてもいいよ

 京とは電話番号だけを交換した。バイト先や大学の人とはメッセージアプリで連絡先を交換するけれど、京には傘を返すだけなのだから、無駄な情報は与えたくない。

 どこで待ち合わせればいいか、という話から、京は俺の通う大学の一年生だということがわかった。コンパで歓迎される側なのに上級生がことごとく酔っぱらい、二年生はその介護に手を取られたため、仕方なく一年全員でジャンケンをして負けた京が会費を持ってレジまできた、という顛末だったらしい。

 それで不足の千円分をよけいに払わされたのだから、気の毒な話だ。もちろん俺は、そんな同情心などおくびにも出さず、礼だけ言ってさっさと自分のアパートに帰ってきたのだけど。

 玄関の鍵を閉めて廊下に上がり、一度閉じた傘を乾かすためにもう一度広げる。しっかりとした布地の、どこからどう見てもちょっといい傘だ。

 簡単に「あげる」とか言うなよ、と思ったところで、そういえばあいつの実家は金持ちだったと思い出す。優しそうな専業主婦の母親がいて、父親は確か、貿易関係の仕事をしていた。

 俺と京は家が近くて、小学生の時の登校班が同じだった。京が入学してきたばかりの頃、よちよち歩く京を気遣って一緒に登校してやったら懐かれて、それ以来放課後もよく遊ぶようになった。

 あの頃は楽しかったなあと、懐かしさと苦々しさを同時に感じながら、俺は短い廊下を歩く。そのまま部屋の入口にリュックサックを下ろし、ラックの一番上に置いてある白い犬のぬいぐるみに額をすり寄せる。

「……ただいま、ラブ」

 慣れたにおいと感触にほっと息をついた。保育園の時に買ってもらったこのぬいぐるみは、当時飼っていたラブラドール・レトリバーの「ラブ」にそっくりなのだ。

 俺は昔から可愛いものが好きだった。動物やぬいぐるみはもちろん、リボンやフリル、レースも好きで、ズボンよりもスカートを履きたがる男の子だった。

 女の子がほしかった母は、そんな俺の趣向を喜んだ。「光希は可愛いものが好きなのよね」と言って女の子用のワンピースやスカートを買ってくれたし、それを保育園や小学校に着ていっても怒らなかった。

 今思えば、最初は逆だったのだと思う。母が好きなものだから、俺は可愛いものを選んでいた。女の子用の子ども服を物欲しそうに見る母の気を、子どもながらにひきたかった。

 俺の女装は小学校三年生の夏まで続いた。

 やめたきっかけはまあ、ありがちというかなんというか、同級生の陰口だった。

「光希って女みたいな格好でキモイよな」

 その日は一学期の終業式だった。トイレに行こうとしたら中からひそひそ声が聞こえてきて、嫌な予感がして聞き耳を立てたら案の定、という感じだった。

 陰口を言っていたのは、クラスメイトの中でもよく遊ぶ男子数人だ。人と違う自分を自覚しつつ、受け入れてもらえていると信じていた俺は、結構しっかり傷ついた。

 だからそれ以降、「可愛い」につながるものは全部封印した。女の子の格好はもちろん、動物やぬいぐるみ、甘い食べ物やお菓子、泣くこと、甘えること、人に頼ること。

 飼い犬に似ていたこともあり、ぬいぐるみの「ラブ」だけはどうしても手放せなかった。だけどこうやって可愛がるのは、もちろん家の中でだけだ。

 俺の「可愛いもの好き」は、あの夏の日以来、完璧に封じられた――はずだったのに。

 俺はベッドに背を預けて床に座り、スマートフォンの画面をつける。ロックを解除すると、番号を交換した時のままになっていた電話帳アプリが目に飛び込んでくる。

 ――江戸の「江」に国民の「国」、京都の「京」で江国京。

 俺が漢字を尋ねると、京はスラスラとそう説明した。俺はやっぱり、「あんなに頼りなかったのに」と驚かざるを得なかった。

 俺の顔を覚えていたということは、京はきっと、当時の俺が好んでスカートやワンピースを着ていたことも覚えているだろう。

 下手に関わってバイト先や大学の連中にそのことをバラされたら、絶対にからかいのネタにされる。それになにより、京の顔を見ると必然的に子どもの頃が思い出され、自分が辛い。

 俺が友人の陰口に傷ついていたあの日の放課後、京は別のことでメソメソ泣いていた。アメリカに引っ越すからと言って、母親が飼い猫のラグドールを親戚の家に預けてしまったのだ。

「みーちゃんに会いたい。もう一回ぎゅってしたい。抱っこしたい」

 隣のブランコに座ったまま延々とつぶやくものだから、俺は思わず「抱きしめてもいいよ」と言っていた。

 京はあの綺麗なタレ目に涙をいっぱい溜めたまま、本当に? と不安そうに尋ね返してきた。

「うん。『みーちゃん』と『みっちゃん』って、なんか似てるし」

 意味不明な理屈だが、子どもには通じたらしい。京はとてとてと近寄ってきて、ブランコに腰かけたままの俺にぎゅっと抱きついてきた。

 俺はそれがとても嬉しかった。友だちに裏切られてチクチクしていた心が、穏やかにほぐれていく感じがした。

 ……悪い思い出ではない。でも「可愛い」を封印することが当たり前になった今、あの頃の全てが恥ずかしくてたまらない。

 だからとにかく、あいつとは関わりたくないんだ。

 苦々しく小さな画面を見つめた時だった。画面上方から【江国京】の表示が下りてきて、着信音が鳴った。

「はい、秋本あきもとです」

 反射的に通話ボタンを押してしまって、律儀に名乗ってから後悔する。無視すればよかった。

「あ、みっちゃん。出てくれてよかった。今大丈夫?」

「大丈夫だけど、なに」

 ぶっきらぼうに答えると、京は「大したことじゃないんだけど」と前置きをしてから、嬉しそうな声で続けた。

「今日ね、偶然だったけどみっちゃんと再会できて本当に嬉しかった。これからもよろしく」

 そこまで言って、今度はすっかり黙ってしまった京である。

「それだけ?」

「ん? そうだよ」

「……マジで大した事ねえじゃん」

「だから言ったじゃん。大したことじゃないんだけどって」

 どことなくぽやっとした返しに、こういうのんびりしたところは変わってないんだなと思う。

 なんだか気が抜けて、俺は大きくため息をついた。

「今時、女子高生でもそんな用事で電話しねーよ。俺風呂入るから切る」

 返事を待たずに通話終了ボタンを押してから、「みっちゃんって呼ぶな」と伝え忘れたことに気づく。

 でもまあ、いいか。傘さえ返せば、その後は関わるつもりがないんだし。

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