【四.古藤 拓】

 二〇二五年九月二日午後二時十七分。

 東京都西東京市田無町。ミゲルの住むアパートにて。


「いたたた……」


 ミゲルという名の青年は、包帯を手際よく巻いてくれる。

 彼の慣れた手つきを見ていると、拓はやはり自分と同じなのだと感じる。


「本当に消毒しなくていいんですか」

「ああ、やめておくよ」


 夕に噛まれた傷は深い。

 一センチ程度の穴が二つ、ぽっかり手の甲に空いてしまってる。

 ふつうのヒトなら、病院に行って縫合をしなくてはならないレベルだろう。


 


「菌の命を奪ってしまうから、ですか」

「……そうなるな」


 ここにいる拓と、このミゲルという青年。かつて拓が愛した彩という女性。

 彼らはみな、厳密にはヒトではない。


 影のない國を支配する『女王』を頂点に、一万年の長きに渡り栄えた太陽の民と呼ばれる寄生蜂の一族がいた。

 彼らによって頚椎に卵を産み付けられた存在が、の民である。


「普段は消毒をしているのかい」

「ええ。破傷風が怖いので」

「穢れが溜まるぞ。すぐに孵化する」

「はい、昔一度、孵化しかけました」


 拓やミゲルらの蜘蛛の民には、寿命が存在しない。

 なのである。



 二万年前、青森にヒトが住み着く前に、二つの生き物が恐山で生を営んでいた。


 ひとつは、寄生蜂の一族。他の生き物に卵を産み付け、孵化して生きる長寿の存在。影のない国を作り、繁栄していた。


 ひとつは、蜘蛛の一族。脆弱な存在で、寄生蜂に卵を産み付けられる苗床のように──或いは家畜のように──扱われた。


 繁栄を極めた寄生蜂も、蜘蛛なくしては生きてはいけない。

 そこで、寄生蜂の女王は卵を産み付けた蜘蛛に、不老を約束したのだ。


 ヒトの形をした蜘蛛は、一日を生きることすら難しい時代に、決して老いて死ぬことはない未来を手にした。

 王国が続いた一万年の間、寄生され不老になることは『女王の赦し』と呼ばれていた。


 ただし代償として、寄生蜂の女王により選ばれ孵化させられた蜘蛛は、その瞬間に絶命する宿命を背負う。


 寄生蜂の幼虫が成長する糧は一つだけ。

 命を奪う行為をする度に沈殿していく穢れだ。

 穢れを吸いながら、首に埋め込まれた幼虫は、徐々に成長していく。


 奪った命の大きさで穢れが溜まるスピードに差があり、グミのような──ゼラチンを含む──お菓子でも溜まると危険だ。

 最悪なのはヒトを殺めることである。まず、生存は絶望的であろう。


 ──ここまで述べた状況が、どんなに理不尽なものであっても。

 蜘蛛たちは、十二月三十一日にだけ開く、恐山の地下にある『神殿』を目指した。


 聖域であり、寄生蜂の巣である聖域で、『洗礼』と称した女王の産卵をその首に宿す。

 同時に卵の保護のため、孵化するまでの長い期間、寿物質も一緒に注ぎ込まれるのだ。


 こうして、日ノ本の裏で寄生蜂と蜘蛛というふたつの生き物が、連綿と続く連鎖を生きてきたのである。



「で、君は今何年目だい」

「ちょうど八十年目になります」


 包帯を巻き終わったミゲルが自分の目を、まっすぐに見てくる。

 真っ黒なその瞳には、嘘偽りは感じられない。


「アメリカ人の父と、日本人で母の間に生まれました。父は海兵隊でB29乗りだったと聞いています」

「……ああ、あの爆弾をばらまいたやつらか。ちょうど終戦の前日、夕と大阪にいたよ。空襲を……親子で必死で逃げていてね。もう少しB29が多かったら危なかった」

「そうでしたか。父も、成人してから日本に渡り、母の実家である恐山の聖域で『洗礼』を受けました。外国人、それも黒人で、蜘蛛の末裔の母と結婚を認めてもらうには、当時それしかなかった。……と母から聞かされて育ちました。僕も、日本に帰化してすぐ、二、三歳くらいの頃に『洗礼』を」


 ミゲルは拓を尚も見る。


「あなたは……何年目なのですか」

「……」


 拓は眼の前の黒人青年の視線から目を逸らした。


「もう──数えるのもやめたよ」


 拓は、ぽつり、と口を開いた。


「前に。どこかで会ったかな」

「会っているのかもしれません。小さな頃あなたに似たひとに、我々は深海魚のような存在だ、と聞かされたことがあります」

「ああ」


 拓はため息を吐くように笑った。

 自分で間違いない。

 常に、彼の言うように考えながら生きてきた。


 常に。


 ……。


 二人の間に沈黙が流れる。

 重たく淀んだ、葬儀にも似た空気。


 深海に空気があるとしたら、こんな空気だろう。



 ぶーっ。


 突然、沈黙を破る音が耳に刺さる。

 手当の間テーブルに置いていた、拓のスマホが鳴動している。

 彼は液晶を見る。


『0807590■■■■』


 見覚えのない番号だ。

 だが、嫌な予感がして躊躇なく電話を取った。


「……もしもし」

「古藤拓さんの携帯電話でよかったかしら」


 見知らぬ女の声だ。

 肯定すると、女は続けた。


「貴方の娘さん──いえ、我らが新たなる女王陛下はこちらでお預かりしています」

「夕のことかっ!」

「貴方の蜘蛛としての役割は、もう終わったということです。その連絡でした。今までご苦労さまです」

「おい、待て」


 勝手なことをよくも抜かしてくれる。

 憤慨しながら続けようとすると。


「貸しなさい。早くしゃべらせなさいよ──あ、もしもし?」


 唐突に、夕の声が女を遮り割り込む。


「夕かっ?」

、これからお姉さんと一緒に、本当のお母さんに会いに行くの。もうお父さんは要らないから。それじゃね」

「夕、夕、待ちなさい。夕っ?」


 電話の相手の娘は、短く告げるとすぐに電話を切った。


「……お母さんの所、だって?」


 恐山の聖域だ。

 夕は、太陽の側の──寄生蜂の子だ。

 お母さんと言ったら、そこしかない。


「恐山か……」


 するとどういう訳か、ミゲルが目を見開いた。


「僕も、青森に行かなきゃいけないんです。その……蜘蛛の仲間が囚われてしまって」

「君にもいたのか、大切な仲間が」


 彼はこくりと頷いて、こう続けた。


「はい。駐車場に僕の車があります。行くなら……一緒にどうですか」

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