【二.二〇二五年九月一日】
【一.古藤 拓】
いましにあずけたるわがみこ。
いまぞあめにかへさむ。
ひのみたまのかご。
みこをとこよにてらさむ。
みこのよ。
ちのかげをまとふくもをはぐくまむ。
◇
「不思議だと思いませんか」
彩があの頃の顔のまま、のぞき込んでくる。
「何がだい?」
いつかの高円寺の公園。
夕はお友達とブランコで遊んでいた。
遠い遠い、昔のような。
つい最近のことのような。
ベンチに座っていた二人。季節は春で、長袖では暑く感じていたはずだ。
桜はもう散っていて、新緑の葉を芽吹かせていて。春霞の空は、薄い水色で、飛行機雲を引いていた。
腰かける二人の距離は、会うたびに次第に近づく。
確か、この頃にはもう手と手を重ねていたような気がする。
「このアリさんたち。どこに行っているのかな。古藤さん、わかります?」
彼女の視線を追うと、アリが行列を作っていた。列の先には飴玉が落ちていた。
拓にとって、アリは危険だった。気が付かないうちに踏んでしまう可能性があるからだ。
にもかかわらず、彩はアリに思いを寄せていた。
「こんなにちっちゃなアリたちも、仕える主がいて、守るべき卵がある」
男は、まるで幼い子供のようにしゃがむ彼女の背中を見ながら、胸中は複雑だ。
自分たちを暗喩させているのが、言葉の裏に見て取れた。
「俺たちは……」
しっ。
彩は人さし指をそっと自分の口に当てた。
「夕ちゃん。起きちゃいますよ」
もう、時間が来てしまったのか。
いやだ、行かないでくれ。
寂しさと心細さで心臓が焼けるようだ、と伝えようとするが、言葉は喉から出てくれない。
「大丈夫。わたし、ちょっと先にいっています」
彼女は笑って、立ち上がって歩き始める。
アリの列の、向こう側に。
いやだ、またひとりになるのは嫌なんだ。
「ふふ、お馬鹿な古藤さん。古藤さんには夕ちゃんがいるじゃないですか」
待ってくれ、まって──。
「古藤さん。わたし」
◇
二〇二五年九月一日午前六時十七分。
埼玉県朝霞市。拓と夕、親子の住むアパートにて。
「朝だよー、おとーさん、起きてー!」
ううっ。
全力のおふとんダイブを娘に決められて、全体重をみぞおちで受け止めた拓がうめく。
「おきてー? おきたー?」
「ああ」
起きた。しっかり起きた。
どこかのお嬢さんのおかげで目覚めは最悪だが。
「泣いてるの?」
「え?」
「涙。ほらここ」
夕がその瑠璃色の瞳をくりくりさせて、顔を近付ける。
慌てて目尻を触ると、ぬるりと頬をなぞった。
拓は父親だ。弱いところを見せるわけにはいかない。
例えどんなに辛くても。
長年連れ添ってきた仲間を──恋人だったのかもしれない──喪うようなことだったとしても。
(忘れよう。彼女のことは。……いなくなってしまった仲間のひとりにするんだ)
言い聞かせる。
色んな言葉で修飾しながら。
誤魔化しながら、生きてきた。
心を延命させて、この先もこの子を守るしかない。
夕を守ることが出来るのは、もう自分しか残って居ない。
「あー」
いつの間にか彼のお腹の上から降りていた娘が、枕元でため息混じりの声を上げた。
見ると、茶色の蝶がいっぴき落ちて動かなくなっている。
「とうとう死んじゃったかー。弱ってたもんねえ」
「夕のお友達か?」
うん。
フローリングの上の虫を見ながら、夕は頷く。
娘は、人さし指に乗せたスズメバチを近づける。
お腹をすかせた夕の親友は、落ちた蝶に齧り付いた。
「たんとお食べ。命はめぐるよ」
拓は娘の小さな背中を、布団から体を起こして見守る。
「女王様が、照らしてくれるよ」
可愛い五歳の拓の子が、ぐうとお腹を鳴らした。
「おなか減ったか?」
「うん!」
「朝メシにするか」
彼は立ち上がり、段ボールの積まれたリビングから、トイレに向けて歩き出す。
──今日が始まる。
また、生き延びなければならない。
泣いている暇なんて、ないのだ。
ケータイを見る。
彼女からの着信は、ない。
ばたん。
男は、一日を生きる決意を固めて、ドアを閉めた。
◇
みこのよ。
ちのかげをまとふくもをはぐくまむ。
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