【二.二〇二五年九月一日】

【一.古藤 拓】

 いましにあずけたるわがみこ。

 いまぞあめにかへさむ。


 ひのみたまのかご。

 みこをとこよにてらさむ。


 みこのよ。

 ちのかげをまとふくもをはぐくまむ。



「不思議だと思いませんか」


 彩があの頃の顔のまま、のぞき込んでくる。


「何がだい?」


 いつかの高円寺の公園。

 夕はお友達とブランコで遊んでいた。


 遠い遠い、昔のような。

 つい最近のことのような。


 ベンチに座っていた二人。季節は春で、長袖では暑く感じていたはずだ。


 桜はもう散っていて、新緑の葉を芽吹かせていて。春霞の空は、薄い水色で、飛行機雲を引いていた。


 腰かける二人の距離は、会うたびに次第に近づく。

 確か、この頃にはもう手と手を重ねていたような気がする。


「このアリさんたち。どこに行っているのかな。古藤さん、わかります?」


 彼女の視線を追うと、アリが行列を作っていた。列の先には飴玉が落ちていた。


 拓にとって、アリは危険だった。気が付かないうちに踏んでしまう可能性があるからだ。


 にもかかわらず、彩はアリに思いを寄せていた。


「こんなにちっちゃなアリたちも、仕える主がいて、守るべき卵がある」


 男は、まるで幼い子供のようにしゃがむ彼女の背中を見ながら、胸中は複雑だ。

 自分たちを暗喩させているのが、言葉の裏に見て取れた。


「俺たちは……」


 しっ。


 彩は人さし指をそっと自分の口に当てた。


「夕ちゃん。起きちゃいますよ」


 もう、時間が来てしまったのか。

 いやだ、行かないでくれ。

 寂しさと心細さで心臓が焼けるようだ、と伝えようとするが、言葉は喉から出てくれない。


「大丈夫。わたし、ちょっと先にいっています」


 彼女は笑って、立ち上がって歩き始める。

 アリの列の、向こう側に。


 いやだ、またひとりになるのは嫌なんだ。


「ふふ、お馬鹿な古藤さん。古藤さんには夕ちゃんがいるじゃないですか」


 待ってくれ、まって──。


「古藤さん。わたし」



 二〇二五年九月一日午前六時十七分。

 埼玉県朝霞市。拓と夕、親子の住むアパートにて。


「朝だよー、おとーさん、起きてー!」


 ううっ。

 全力のおふとんダイブを娘に決められて、全体重をみぞおちで受け止めた拓がうめく。


「おきてー? おきたー?」

「ああ」


 起きた。しっかり起きた。

 どこかのお嬢さんのおかげで目覚めは最悪だが。


「泣いてるの?」

「え?」

「涙。ほらここ」


 夕がその瑠璃色の瞳をくりくりさせて、顔を近付ける。

 慌てて目尻を触ると、ぬるりと頬をなぞった。


 拓は父親だ。弱いところを見せるわけにはいかない。

 例えどんなに辛くても。


 長年連れ添ってきた仲間を──恋人だったのかもしれない──喪うようなことだったとしても。


(忘れよう。彼女のことは。……いなくなってしまった仲間のひとりにするんだ)


 言い聞かせる。

 色んな言葉で修飾しながら。


 誤魔化しながら、生きてきた。

 心を延命させて、この先もこの子を守るしかない。

 夕を守ることが出来るのは、もう自分しか残って居ない。


「あー」


 いつの間にか彼のお腹の上から降りていた娘が、枕元でため息混じりの声を上げた。

 見ると、茶色の蝶がいっぴき落ちて動かなくなっている。


「とうとう死んじゃったかー。弱ってたもんねえ」

「夕のお友達か?」


 うん。

 フローリングの上の虫を見ながら、夕は頷く。


 娘は、人さし指に乗せたスズメバチを近づける。

 お腹をすかせた夕の親友は、落ちた蝶に齧り付いた。


「たんとお食べ。命はめぐるよ」


 拓は娘の小さな背中を、布団から体を起こして見守る。


「女王様が、照らしてくれるよ」


 可愛い五歳の拓の子が、ぐうとお腹を鳴らした。


「おなか減ったか?」

「うん!」

「朝メシにするか」


 彼は立ち上がり、段ボールの積まれたリビングから、トイレに向けて歩き出す。


 ──今日が始まる。

 また、生き延びなければならない。


 泣いている暇なんて、ないのだ。


 ケータイを見る。

 彼女からの着信は、ない。


 ばたん。

 男は、一日を生きる決意を固めて、ドアを閉めた。



 みこのよ。

 ちのかげをまとふくもをはぐくまむ。

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