第5話:檸檬
ガートルードは、姿見で自分の全身をじっくりと眺めた。ヴィクトル伯爵の専属メイドとして、きっちりとしていなければならない。
屋敷内とは違い、空を飛んでいる飛行船では居住部分でも動きやすい方が良い。狭い室内では効率が優先される。
そのため、メイド服もかっちりとした重い布地のワンピースでは無く、白いブラウスと黒いスカートにした。実はズボンを勧められたが、慣れていない衣類を着用するのは嫌だったので、短めのスカートを選んだ。これなら動きやすいし、黒いタイツを履けば足元も目立たないだろう。
エプロンも短めにした。屋敷ではエプロンも格式のある華やかなフリルで飾られているが、飛行船内ではシンプルにした。しかしもちろん布地は良質である。
さすがにメイド用のキャップは不要だとガートルードも考え、メイド長の助言も入れて白いリボンできっちりと長い黒髪をまとめた。
鏡を覗いて、よし、と満足してからガートルードは自室を出て、ヴィクトル伯爵が滞在している客室に向かった。
朝の挨拶と共に客室に入り、カーテンを開けて寝台の上のヴィクトル伯爵の横に立つ。大きな枕にもたれた伯爵は、目をぱちぱちさせた。
「ほお。それが新しい制服か」
「はい。お屋敷でメイド長にも事前に見ていただきました。これならば専属メイドとして恥ずかしくないと、許可が出ています」
ヴィクトル伯爵は苦笑した。
「飛行船の中では、そこまで厳密にしなくてもいいんだぞ、ガートルード」
「専属メイドのが私がきちんとしなければ、ヴィクトル伯爵の格式に傷がつきます。それに、空港でお客様がお見えになる場合もあると伺っています」
「確かにな」
ヴィクトル伯爵は窓の外を眺めて、溜息をついた。
「飛行船で大空に浮かべば、地位や家柄や権威などが全て眼下に遠ざかる。大空は完全な別世界だ。だが遠ざかるだけで、消える訳ではない。面倒なものだ」
愚痴はいつもの事だが、機嫌は良さそうだとガートルードは考えた。
大空に様々な飛行船が飛び交う<大飛行船の時代>。
飛行船での空からの観光や、旅行などは庶民の間でも人気だが、個人で飛行船を所有するのは難しい。
整備や操作などの人員が多数必要だし、飛行船専用の空港も必要だ。
しかし、ヴィクトル伯爵は巨大な飛行船を所有している。中央都市から離れた自分の領地に構えた屋敷の広大な敷地内には、格納庫や離着陸用の土地、工場まであり大勢の技術者や職人が働いている。
ガートルードは、間近で見上げる銀色に輝く飛行船リスティス号の巨大さに圧倒され、乗船準備の合間のヴィクトル伯爵の説明に更に驚かされるばかりだった。やはりヴィクトル伯爵の財産は、信じられないほど莫大なのだ。
「こんなに大きくて立派な飛行船は、国王様でもお持ちでは無いでしょうね」
ガートルードに抱えられて一緒に見上げていたヴィクトル伯爵は、顔を輝かせて自慢した。
「もちろんだ。国王の紋章を掲げた飛行船はあるが、この『リスティス号』の方がはるかに高性能だ」
ヴィクトル伯爵は格納庫内の机に置かれた状態で整備員や乗組員たちと熱心に打ち合わせをし、料理人のサプライズは倉庫に大量に積み込まれた食料品や飲料水の点検に忙しい。
ガートルードも、技術者から飛行船内での注意事項や、日常に必要な機械類の操作方法を教わった。高度が上がるととても寒いと忠告され、大急ぎで毛皮の外套を買いに店に駆け付けたり、そんな忙しい日々を過ごしていた。
ガートルードは飛行船内の私室に荷物を運びこんで整理をした後、ヴィクトル伯爵の為の部屋をきちんと整えた。さすがに狭いし、重さの制限はあるがそれなりに立派な家具が揃えられている。
伯爵が生首なので、衣装や靴などは荷物に無い。実のところ助かるなとガートルードはこっそり考えながら、荷物を開けてヴィクトル伯爵の身嗜みの道具類などを点検した。
ヴィクトル伯爵の普段使いの香水瓶を手にして、ガートルードはふと動きを止めた。
檸檬の香りの香水。
もちろん爽やかで良い香りだ。しかし、決して高級品ではない。ヴィクトル伯爵ならば、もっと高級でもっと複雑で華やかな香りが似合うだろう。この香水は伯爵に不釣り合いだと、いつも感じてしまうが……いや雇い主の好みをあれこれ言ってはいけないと、ガートルードは首を振った。
やがて全ての準備が整った。いよいよ明日の夜明け前、巨大飛行船リスティス号は長期の旅に出発するのだ。
その日の夜、ガートルードは、ヴィクトル伯爵が突然「リスティス号が見たい」と言い出したので、布に包んで屋敷の外に出た。
もうすぐ春とはいえ、夜間は寒い。しんと冷たい空気の中に、夜間照明に照らされた係留中のリスティス号が浮かび上がる。
「ああ、ようやく大空に浮かび上がれる。ようやくだ」
ヴィクトル伯爵は呟いた。
「あの、一つ質問してもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「リスティス号の試験飛行中に、空賊に襲われて損傷したそうですが。その、明日出発してから大丈夫でしょうか?」
「ああ、その件か。大丈夫、安心したまえ。あの襲撃は、まあ私への嫌がらせだ。連中も墜落させるつもりは無かったからな。今回の旅は事前に根回しは済んでいるから不安に思うことは無い」
根回し? とガートルードは妙に思ったけれど、とりあえずは安心できた。
「安堵しました。それだけが心配だったもので」
「君の心配は当然だ。何事も慎重に考えるのは大切だからな」
ヴィクトル伯爵は、リスティス号の更に向こうの夜空を眺めてからガートルードに尋ねた。
「檸檬の香水は、きちんと積み込んだか?」
「もちろんです。メイド長からも香水瓶が破損したりしないように、特に注意を受けました」
「……私には、あの檸檬の香りが必要だからな」
「はい、爽やかで良い香りです」
「私にはそれ以外の意味がある。あの香りを感じるたびに、私は自分に言い聞かせる。決して忘れるなと」
胴体も肺も無いのに、ヴィクトル伯爵は冷たい空気を大きく吸って言った。
「そう。決して忘れてはいけない」
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