取材メモ5


 その日、私は狭い自宅アパートでNに関する文章をまとめていた。

 新たに収集できたのは、やはり木片に関する二つの怪談じみた話だ。内容はだいぶ異なるが、木片を手にした人が、おかしくなる(なった)という筋立ては共通していた。

 そして、尾野の持ち込んだ供述調書に登場していた「有徳の狛石」と呼ばれる石の由来。深夜の公園でその傍らに立っていたのは、こしえさんという謎の女性と同一人物だったのだろうか。

 こしえさんとは、いったい何者なのだろうか。

 ネットの書き込みなどからは、都市伝説に近い存在のように感じるが、警察がその存在に言及していることに、単なるネットロアと片付けられない不気味さを感じる。

 そして、K市内で起きる奇妙な変死事件。

 尾野はそれをK署様式という特殊な書類で処理していると言っていた。

 全ての変死事件をそう処理しているわけではないだろう。そんなことをすれば、どこかでばれて大ニュースになるに決まっている。

 尾野いわく、K署様式として処理するのは、現場に木片があった場合だけだという。

 その木片を配っているのが、こしえさんらしい。

 こういう話の展開になると、やはり警察の方面に造詣の深い社会派のライターさんにはお願いするわけにはいかない案件なのだろうな、と思った。きわめて現実的なあの人たちにこんな話をしたところで、はなも引っ掛けないことだろう。

 とはいえ、そのこしえさんという存在を軸にすれば、私にも記事を書くイメージがある程度組み立てられた。

 E氏からは、取材の進捗状況を探るメールが来た。

 せっつくというほどでもないやんわりとした内容だったが、取材が停滞している今の状況では尻を叩かれているような感覚を覚えた。

 今ここで取材費の振り込みを止められるわけにはいかない。

 生活の再建がかかっているのだ。

 放火事件の捜査と元妻との連絡で忙しいという尾野に、なるべく早めに会って話さなければ。

 資料を前にそこまで考えたところで、軽い空腹を覚えた私は、近くの喫茶店に行って軽食でも食べようかという気持ちになった。

 この仕事を受けるまでは、とてもそんな余裕はなかった。

 自分に食費がかかることすら苛立たしい。そんな追い詰められた気分で日々を過ごしていたからだ。

 少し余裕ができただけで贅沢をしてしまうのは私の悪い癖だが、パチスロに行くわけでもないのだから、これくらいは許してほしいと思った。

 喫茶店の軽食くらいは取材費に含まれるだろう。

 そんな言い訳を自分にしながら、私は喫茶店までの道をぶらぶらと歩いた。

 平日の昼下がり、微妙な時刻。駅へと続く裏通りにはほとんど人通りはなかった。

 そのせいで、気付いてしまった。

 ちょっとした交差点の先に、花柄のワンピースのひどく痩せた女が立っていることに。

 こちらに背を向けて立つ女の黒い髪は、腰辺りまで伸びていた。

 ワンピースは彼岸花を思わせる赤い花の柄だった。

 それが、今までの資料に出てきたこしえさんを連想させた。

 何の気なしに、私は女を見た。

 すると女は、私の視線に気づいたかのように振り返った。

 その挙動が普通ではなかった。

 見えない誰かに無理やり首を捻じ曲げられたかのように、顔ごとすごい勢いでこちらを見たのだ。

 どこかの独裁国家の閲兵式で行進する兵隊のような、おそろしく機械的な動作だった。

 そのくせ、その顔にはうっすらと笑みを浮かべていた。

 見つかってしまった。

 なぜかそう思った。

 これはまずいやつだ、と本能的に悟った。

 食欲など、一瞬で消え失せていた。

 私は回れ右して、もと来た道を足早に戻った。

 嫌なものを見てしまったと思った。



 自宅に戻り、私は気を落ち着けようとした。

 あれはこしえさんではない。

 そんなわけはない。

 ここは都内とはいえ、K市から遠く離れた場所だ。

 こしえさんがいるはずはない。

 そう自分に言い聞かせた。

 こしえさんがK市から出ないという証拠はなかったが、少なくとも目撃談はどれもK市内ではないかと思われた。

 だから、こんなところにいるはずはない。

 テレビをつけてその賑やかな音声に自分を浸していると、ようやく冷静になった。

 こんな真昼間に大の大人が何を怯えているんだ、という気持ちになった。

 落ち着くと、食欲も蘇ってきた。

 何かないかと冷蔵庫を開けたとき、こんこん、という軽い音が玄関のドアから聞こえた。

 気のせいかと思っていたが、しばらくするともう一度、こんこん、という音。

 ノックだった。

 無論、来客の予定などない。

 郵便物は、一階の集合ポストに届けられる。三階まで上ってくるとすれば、宅配便くらいのものだが。

 インターフォンを鳴らせばいいのに、と思いつつも、私は立ち上がりドアへと近づいた。

 だが、ドアノブに手を掛けたところで、不意に嫌な予感に駆られた。

 自分は今、このたった一枚のドアに守られている。

 なぜかそう感じた。

 手を引っ込め、ドアスコープから外を覗いた。

 そこに、さっきの女が立っていた。

 切り取られた丸い視界では、はっきりとは見えないが、黒く長い髪の、三十代くらいの痩せた女だった。

 やはり。

 やはり、この女は。

 そう思ったのは、女が胸に何かを抱いていたからだ。

 タオルに包まれた、何かを。

「どちら様ですか」

 ドアスコープから目を離し、私は尋ねた。その後で、激しく後悔した。

 立ち去るまで放っておくべきだった。どうして応答してしまったのか。

「私です」

 ドア越しに、女の声がそう言った。

「もうだいぶいいんですよ」

「は?」

 意味が分からなかった。

「あの、訪ねる部屋をお間違えでは」

 その言葉に、女は低く笑ったようだった。

「だって、こんなところまで来られるようになったんですもの」

「何が、ですか」

「本当に皆さんのおかげ」

 まるで嚙み合わない会話。

「見てください、ほら」

 しゅるしゅると、ドアの向こうで布をめくるような音。

「ずいぶんと削りました」

 削る。

 その言葉に、ぞっとした。

「見てください、ほら」

 女は先ほどの言葉を再生するかのように、全く同じテンポでそう言った。

「見てください、ほら」

 こんこん、とドアがノックされる。

 こんこん、こんこん、こんこん。

 軽やかな音が、断続的に繰り返される。

「帰ってください」

 私は言った。

「私は、あなたを知りません」

「見てください、ほら」

 突然、ドア全体がガタガタガタ、と大きな音を立てて揺れた。

 喉元まで出かかった悲鳴を呑み込む。

「見てください、ほら」

 女の声には変化がない。ドアが、壊されそうな勢いで揺れているというのに。

 こんこん、こんこん。

 揺れるドアに、それとはまるで関係ないかのようにノックが続いている。

 ぴしゃ、ぴしゃ、ぴしゃ。

 ノックの音が、いつの間にか湿り気を帯びていた。

 何だ、これは。

 手じゃないのか。何がドアを叩いているんだ。

「見てください、ほら」

「見てください、ほら」

「見てください、ほら」

 女の声だけが、変化なくドアの向こうから聞こえ続けていた。

「やめて……やめてください」

 足の力が抜け、その場にへたり込んだ。

 ドアは、まるで巨大な獣が痙攣しているかのように揺れ続けていた。

 永遠に続くかと思われたその時間は、突然に終わった。

 何の前触れもなく、ドアの揺れは止まった。

 それと同時に、もはや形容しがたい音と化していたノックも止んだ。

「これで、うめますか?」

 女の声がそう言った。先ほどまでとまるで違う、ぞっとするほどの情感のこもった声だった。

 何も答えられなかった。

 何を答えていいのかも分からなかった。

 ドアに取り付けられた新聞受けが、ことり、と軽い音を立てた。

 それとともに、こつ、こつ、こつ、という硬い足音が遠ざかっていった。


 随分と長い間、私はそこから動けなかった。

 おそるおそる新聞受けの内箱を引き開けると、何かが床に落ちた。


 それは、親指大の黒ずんだ木片だった。


 私はドアを開けた。

 廊下には、誰もいなかった。

 ドアの外側は、水でびっしょりと濡れていた。

 廊下の床まで垂れたその水は、ごくわずかに黄色がかっていて、少し生臭かった。

 羽虫が飛んでいた。

 ひどく嫌な気分だった。




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