調査資料2
私の高校時代の友人Sは、大学卒業後、都内のとある市で小学校の先生をしている。
もともと学生時代から愚痴っぽい性格だったが、今どきの先生というのはなかなか大変なものらしく、顔を合わせるたびに仕事の愚痴を聞かされることになった。
児童の愚痴、保護者の愚痴、同僚教師の愚痴、教育委員会の愚痴、日本経済の愚痴、政治の愚痴、世界情勢の愚痴……。
こんな男に日本の将来を担う子供たちの教育を任せてもいいのだろうかと思うほど、Sの愚痴はこの世のあらゆる事象に渡った。
「お前、学校でもそんななの?」
そう尋ねると、Sは「そんなわけないだろ」と口を歪めた。
「今どき、学校での言動もSNSでの投稿も、全部チェックされるんだぜ。お前の前でしかこんな話はしねえよ」
それは光栄なような、迷惑なような。
それからはまあ、友人が道を踏み外すことのないよう、微力ながら愚痴くらいは聞いてやることにしたわけだが。
「鉛筆削りってさ」
その日、いつもの居酒屋でSは言った。
「今でも使ってるか?」
「いや」
私は首を振る。
「仕事で鉛筆は使わないからな。せいぜいシャーペン……それもあんまり使わないか。書くなら大体ボールペンだな」
「大人になると、そうだよな」
Sは頷く。
「小学生って、鉛筆の世界なんだよな」
「ああ、そういえばそうか」
私の頭の中にも、きれいに削られた真新しい鉛筆がずらりと並ぶ筆箱のイメージが浮かんだ。
確かに言われてみれば、小学校時代というのはほとんどの人にとって、人生で一番鉛筆を使う時期なのかもしれない。
中学に上がれば、鉛筆よりもシャープペンシルが主流になる。
シャーペンなら、鉛筆のように書いていてどんどん芯先が丸くなる心配はない。もっとも、思ってもいないときに芯がなくなって慌てたりもするのだが。
「鉛筆削りって、どんなの使ってた?」
「どんなのって……」
すぐに思い浮かんだのは、鉛筆を突っ込むと稼働音とともにたちまち芯をきれいに尖らせてくれる電動の鉛筆削りだ。
それから、ハンドル式の手動タイプ。
「あと、もっと小さいやつもあるよな。消しゴムくらいの大きさで刃が付いていて、鉛筆を自分で回して削るやつ。削りかすが出るから、ゴミ箱の上とかで使ってた気がするな」
私がそんなことを言うと、Sは頷いた。
「そうだよな。大体はそのどれかだよな」
「ああ」
「小刀で削ったことってあるか?」
「小刀?」
昔は、子供も自分で鉛筆を小刀で削っていた。
だがそれは私の年齢でも、そうだったと聞いたことはある、というくらいの話だ。
「まさか。さすがに俺たちの年代で、そんなことしてる奴はいなかったんじゃないか?」
そもそも「小刀」という言葉自体が、学生時代にしか使わない単語という感じで、妙に懐かしかった。
「そうだよなあ」
Sはため息をつく。
「俺のクラスに、小刀で鉛筆を削ってる子がいるんだよ」
「今どき?」
私は驚いた。
「子供に刃物を持たせるのって、今じゃすっかりタブーじゃん。ハサミの先端だって極限まで丸くしてあるし、調理実習に使う包丁だっておもちゃみたいな」
「そうそう」
Sは頷く。
「今はそういうご時世なんだよ。なのに、その子はさ……」
Sの話は、こうだ。
Sの担任するクラスの児童に一人、書く文字がかすれていて、判読の難しい女子児童がいた。
字をうまく書けない子や筆圧の弱い子は他にもいたが、その子の場合は、書かれた紙を見ると、筆圧はしっかりかかっているのだが、鉛筆の芯自体があまり出ていないのではないか、と思われた。
特に男子児童に多いのだが、中には、鉛筆がすっかり丸くなって、ほとんど平らみたいになってしまっているのに、削るのを面倒がってそのまま無理やり使い続けるずぼらな子もいるのだ。
そういう場合は、鉛筆を削りなさいと指導することにしていた。
Sも、その児童(仮にRとしよう)に声をかけた。
Rは「はーい」と返事をしたが、それからもかすれた文字に改善は見られなかった。
仕方なく、Sは後日、再度Rに声をかけ、筆箱を持ってくるように言った。
Rの持ってきた筆箱の中には五本の鉛筆が入っていた。
そのどれもが、刃物のようなもので粗く芯を削られていた。しかし、技術が拙いためだろう、芯はほとんど露出せずに周りの木の部分ばかりが削られていた。
「これ、自分でやってるの?」
Sがそう聞くと、Rは頷いたという。
Sは教室の隅に置かれた電動の鉛筆削りを指さし、「あれで削りなさい」と言ったが、Rは首を振った。
「家で削ってくる」
「家でって……小刀みたいなもので削ってるの?」
Rは答えなかった。
「お父さんとかお母さんが、そう削りなさいって言ってるの?」
その質問にも、Rは答えなかった。
とにかく、家で削ってくる、の一点張りだった。
やむを得ずSは、芯が出るようにきちんと削ってきなさい、と指導するに留めたという。
そこまで聞いて、私は、
「お前がその場で鉛筆全部、鉛筆削りに突っ込んでやるわけにはいかなかったのか?」
と尋ねた。
「まさか」
Sは苦笑した。
「たかが鉛筆だって、その子の所有物だろう。俺が勝手に削っていいわけはない」
「そういうもんか」
私たちの子供時代なら、問答無用でやられていただろう。ついでに頭を一発や二発、叩かれたかもしれない。面倒な時代になったな、と思うと同時に、そんなことまで気を遣わなければならないSに多少の同情をした。
Sは堪えていたものが噴き出したように、
「どうせ、親がやらせてるんだよ。逆張りっつうの? 今は刃物を子供に持たせるなんてタブーだけど、私が子供の頃は使ってた。だから今でも自分は刃物を使うのに困らない。子供にもそういう本物の経験をさせたい、みたいなさ。キャンプとかが好きな親なんだろ、どうせ。家でやる分にはご自由にどうぞだけど、学校生活に影響出ると困るんだよ」
などとわーっと喋ると、
「ほかにもおかしな親がいてさ……」
とそのまま次の話題に移った。
だから、私もそんな話は忘れていた。
いきなり夜中に、Sから電話がかかってくるまでは。
「この前の話、覚えてるか」
電話に出た私に、Sはいきなりそう言った。
「鉛筆削りの子。ほら、全然削れてない鉛筆の」
「ああ……親に小刀で削らされてる子な」
「小刀じゃなかった」
「は?」
「小刀じゃなかったんだよ」
Sの声は震えていた。
「どうした、S」
「小刀じゃなかったんだよ。あいつ、自分の歯と爪で鉛筆を削ってたんだ」
「ええ?」
「教室で放課後、一人で鉛筆を削ってたんだよ。先生がちゃんと削れって言ったからって。口を真っ黒にして、にやーって笑って。俺びっくりしてさ、両親は知ってるのかって聞いたら、親は知らないけどこしえさんなら知ってるって」
「え? 誰だって?」
「こしえさんだよ、こしえさん!」
Sは電話口で叫んでいた。
「こしえさんだってよ!! ふざけんなよ!!」
私は思わず電話から耳を離した。
「くそが!! 何でそんな名前聞かなきゃいけないんだよ!!」
Sの様子は、常軌を逸していた。
「落ち着けって、S」
私はそう呼びかけた。
「全然話が見えないんだけど。こしえさんって誰だよ」
「こしえさんがどうしてこっちにいるんだよ!! おかしいだろうが!!」
「おい、S!」
「……もうだめかもしれない」
突然、ぽつりと呟くようにSは言った。
その直後、電話は切れた。
あれ以来、Sからは連絡がない。
私から連絡するのも、何となく憚られている。
根拠はないのだが、もうSは元のSではないような気がして。
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