尾野の手記1(4)


 建付けの悪い引き戸を開けて玄関に入ったとき、私はすぐに死臭を嗅ぎ取りました。

 うまく言葉にはできませんが、この家に死体があるな、ということが、分かる人間には分かる。そういう臭いです。

 警察官でなくても、葬儀屋や火葬場の職員など、人の死体を日常的に取り扱っている職種の人間ならば、この感覚を分かってくれるのではないかと思います。

 夏場にしては、腐敗臭はありませんでした。

 この家自体のかび臭い、こもったにおいの方が強かったくらいです。

 ですので、今朝亡くなったというのは本当らしいな、と私は思いました。

「こちらです!」

 田上が家のガラス窓を揺るがすような大声で、私たちを先導します。

 広い家の中で、住人が使っていたのは台所と便所、それに居間の三か所だけのようで、ほかの部屋はもう長いこと使われていないようでした。

 雑然とした居間は寝室代わりにもなっていたようで、ごちゃごちゃと物の置かれた座卓の脇に、薄く潰れた布団が敷かれていました。

 その奥の襖を田上が開けた途端、強烈な臭いが鼻を衝きました。

 それは、血の臭いでした。

 居間の奥の六畳ほどの仏間は、一面がどす黒い血に塗れていました。その中に、老婆のものと思われる腕や足が散乱していました。

 ねじ切られたようなバラバラの手足。胴体はどこにあるのか、一瞬では分かりませんでした。

「ここで亡くなっていました」

 と大きな声で田上が言ったとき、私は思わずその胸ぐらを掴んでいました。

「おい、お前本気で言ってるのか」

 凄惨な現場を目の当たりにした驚きよりも、警察官としての怒りの方が先に来ました。

「一見して事件性なし、だ? ふざけた報告しやがって。何が病死だ、どう見たって殺しじゃねえか」

「尾野長、よせ」

 黒磯係長が間に入ってきて、私たちを引き離しました。

「何なんですか、この人」

 田上は息を荒くして、ネクタイを直しながら私を睨みました。

「いきなり、何のつもりですか」

 やっぱりこいつはおかしい、と私は思いました。こんな奴と話していても時間の無駄だ。

「係長、署に連絡して本部から現場鑑識を回してもらわないと」

「ああ。そうだな」

 そう言いながらも、黒磯係長はなぜか落ち着き払っていました。

 いくら場慣れしたベテラン刑事でも、第一現着の警察官にここまででたらめな報告をされたら、普通は激怒するものです。

「ひでえな、こりゃあ」

 係長は屈みこみ、畳に目を走らせました。

「殺しだったら、今日のトップニュースだ」

 殺しだったら?

 何を言っているのでしょうか。

 こんなねじ切られたような凄惨な死体に、事件性がないわけはない。

 それはたとえ刑事でなくても分かることでした。

 係長は、床に何かを探しているように見えました。

「係長、現場検証は鑑識作業の後にしましょう。私が連絡しますよ」

 焦れた私がそう言ったときでした。

「あれじゃないですか」

 不意に、私の背後から声がしました。郡山でした。

 運転担当の郡山は、外に車を止めてから遅れて入って来たのです。

 能面のような無表情で、郡山は部屋の隅を指さしていました。

 郡山の指さす方を見ると、そこに黒ずんだ木片が一枚落ちていました。

「ああ、やっぱりあったか」

 黒磯係長は、どこかほっとしたように言うと、立ち上がりました。

「悪いな、田上。尾野長さんはまだうちの署に来たばっかりだからさ」

 係長はなぜか田上に謝りました。なおも私を睨んでいた田上は、渋々といった顔で頷きました。

「何言ってるんですか、係長」

 私は自分の携帯電話を取り出しました。

「とにかく、署に一報しないと」

「かわいそうにな」

 黒磯係長は私に返事することなく、もう一度その場に屈みこむと、両手を合わせて拝みました。

「じゃあ、こっちはK署様式で処理しとくから」

「はい」

 と田上。

「あとはいつも通り、片付けは方波見かたばみのところでやってもらえよ」

「分かりました」

「……は?」

 係長と田上は、淡々と何事もなかったかのような会話を続けています。

「それにしても、N以外の場所で起きるのは今年二件目か? 参るな」

「そうですね」

「こんなところならいいけどよ。そのうちKの市街地の方までいくぜ。そうなったら、どうすんだよ」

「さあ、どうするんでしょう」

「ま、こっちの知ったこっちゃねえな。とにかく、方波見呼んどけよ」

「はい」

 係長は話を終わらせようとしている。

 私は、方波見というのが署によく出入りしている葬儀屋の名前だと気付きました。

「係長、まさか殺しを握ろうって言うんですか」

 握るというのは、揉み消す、ということです。

 係長は、殺しを単なる病死として揉み消そうとしている。

 私にはそうとしか思えませんでした。

 けれど、係長は私を憐れむように見て、言ったのです。

「あのな、尾野長。殺しってのは殺した犯人がいる話のことを言うんだよ。ひとりでに死んじまったら、それがどんな状態だって自然死だろう」

 何を言われているのか、全く理解できませんでした。

「署長まで了解済みの話だよ。それよりももっと上の人までな」

 黒磯係長はそう言って、首から提げていたデジカメで写真を一枚撮りました。

 凄惨な仏間ではなく、居間に敷かれた何もない布団の写真を。

「あの木片が落ちてたら、そういうことだ。長さんも早く慣れな」

 係長の言葉を、郡山も当然のように聞いていました。私は彼らではなく自分の方がおかしいのかと激しく混乱しました。

 仏壇の脇に、両腕も両足もない老婆の胴体がありました。赤く染まった白髪の奥の濁った眼が私をじっと見つめていました。

「その木片だけは忘れるなよ」

 黒磯係長は田上に言いました。

「ちゃんと、とこしえ神社に置いてこいよ」



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