尾野の手記1(2)


 ある日の宿直明けのことでした。

 まる一昼夜の勤務明けの朝には、宿直班の代表の警部補が宿直時間帯に扱った事件の決裁を署長室で受けるのですが、ちょうどその日は私の班の代表である警務の峰岸係長が所用のために手が離せず、代わりに私が署長室に入ることになりました。

 署長と直接こうして二人だけで向かい合うのは、刑事課に配置換えを命じられたとき以来のことでした。

 署長にまでなるような人間は癖が強いことも多く、決裁には大体苦労するのですが、K署の影山署長は威圧的でもなければ高圧的でもなく、かといってねちねちと細かいところもない人で、峰岸係長からは、今の署長は決裁もスムーズだから大丈夫、と言われていました。

 ただ、私の目には、ときどき署内ですれ違う署長はいつも疲れているような、何か悩みでもあるような、警察署の署長としては少し威厳が足りないのではないかと思うようなところがありました。

 その日の決裁は、峰岸係長の言った通り、スムーズに進んでいきました。

 二、三、質問はありましたが、署長はほとんど手を休めることなく決裁欄に印鑑を押していきました。

 ですが、ある書類にきたときに、その手がぴたりと止まりました。

 それは、変死の報告書でした。

 高齢の女性が自宅で亡くなっているところを大家に発見されて、110番通報がされたという事案で、私と郡山が臨場しました。

 誰かに侵入された形跡もなく、遺体に特別な外傷もありませんでした。

 病院調査で持病も判明し、嘱託医の検案でも病死との判断がされていました。

「これは……」

 と、署長は私を見ました。

「これは、この様式でいいの?」

 署長はそう言って、書類を指で叩きました。

「……は」

 言われている意味が分からず、私はその書類を覗き込みました。

 それは警視庁のどの警察署でも使っている、変死取扱時の報告書でした。

 それ以外の様式など、ありません。

 署長の意図が分からないまま、それでも、事件性があったのではないか、と言われているのだと思った私は、その事案について説明を始めました。

 すると、署長はたちまち興味を失った顔をして、

「ああ、そう」

 とだけ言うと、ぎゅっと印鑑を押したのです。


 無事に決裁は終わりましたが、釈然としないものが残った私は、大部屋に戻ると、郡山に、

「昨日の変死、署長に様式がどうとか言われたんだけど」

 と声をかけました。

 一番年の若い郡山は、安田と同じ巡査長ですが、警察学校卒業以来、K署勤務は今年で五年目、署内の事情には下手な幹部よりも詳しいのです。

「ああ、うちの署の独自様式のことじゃないですか」

 と郡山はこともなげに言いました。

「そんなのがあるの」

「ここ、田舎なんで」

 郡山がそう言ったとき、黒磯係長が私を呼びました。

 それで、その話はそれっきりになってしまいました。



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